「とりあえず、オトモダチから」


そう言って微笑んだその人を、初めて疎ましく感じた。






X   友情以上






休暇が訪れればやってくるその人に請われて、今日も私はヴァイオリンを手にした。
音楽が、好きらしい。
どうもあまりぴんと来ないのだけれど、彼はそう言う。


「何、その意外って顔は」
「だって、意外ですから」
「そんなこと普通、本人の前で言うかぁ?
いいよ、だったら見せてやっから。そのヴァイオリン、貸してみ?」


ちょいちょいと手招きする仕草で、私のヴァイオリンを指す。
一応これは、母上の形見のヴァイオリンなのだけど……。
でも、どうしてだろう。
何となく彼は、物を手荒に扱わないような気がして。
本当はそれだけじゃない何かを感じていたのかもしれないけれど、何となく。
私は、普段なら絶対に誰にも触らせないヴァイオリンを、彼に手渡していた。


「やっぱり、いいヴァイオリンだな」


銘を見るでもなく、彼はそう言う。
そうよ。いいヴァイオリンなの。
母上が私にくれた、とても素晴らしいヴァイオリンなのよ。


の宝物?」
「えぇ」
「だろうな。手入れも丁寧だし……大事にしていることがよく分かる」


言って、彼は笑った。
微かな笑みを口元に刻むと、印象的な翡翠の瞳が閉じられる。
肩と顎の間にヴァイオリンを挟み、弓を構えて。

そして紡がれるメロディが、空気を震わせた。



指の間から零れる、繊細なメロディ。
切なくかかるビブラート。
その一つ一つに、私は知らず聞き惚れていた。
曲は、タイスの瞑想曲。
娼婦と聖職者の、叶わぬ恋。
娼婦の女を救おうとする僧侶の、切ない……。


「どう?」


弾き終えた彼が、そう言って尋ねる。
その時漸く、私は我に返った。


「すごい……」
「何、それ」
「何か、心に染みたの」
「それは恐悦至極」


音は、人の持つその本質をより表すと言われている。
彼の音は、繊細で。
それでいて決してひ弱さを感じない。
包み込むような、そんな音。


「すごい、すごい。趣味だけで、そんなに弾けるものなの?」
「昔、習ったことがあるんだよ」
「そうなの?他には?他には、何か弾けないの?」


照れたように笑う彼に、他をせがむ。
もっと、もっと彼の音が聞きたい。
聞いてみたい、と思った。


「だめ。次は、の番」
「私?」
「そう。俺も、の音が聞きたい。だから次はが弾いて」


悪戯っぽく笑って、彼が私にヴァイオリンと弓を渡す。
聞きたいと請われるのは、嫌じゃない。
それに……それに、何だろう。
共通の趣味というか、共通の話題が登場したことで、私の彼への警戒心は、あまり意味を成さないものになっていた。
もちろん、婚約なんてまだまだ考えられない。
オトモダチ、とも思えない。
それでも、何て言えばいいのだろう。
以前ほどに、苛立ちを感じない。

自分にないものを持っていて、それでいて当たり前のように屈託なく笑って。それが嫌で嫌で堪らなくて。
それなのに気づけば、そんなものは霧散してしまったのだ。
彼のヴァイオリンの音色が、私からそんな悪感情を奪い取ってしまった。
なんて……なんて人なのだろう、と私は思う。


「何を弾きましょうか?」
「今学校で練習している曲でも、何でもいいけど?」
「あ……それはまだ。今練習しているの、パガニーニなんです。まだ、とても聞かせられない……いつも先生に注意されてばかりだもの」
「パガニーニ?また、えらく技巧的な曲だな」
「コンクール用の曲ですから」


技巧的な曲を数多く書いたパガニーニの名を上げれば、彼が僅かに顔を顰めた。
以前なら分からなかったかもしれないその些細な変化が、面白い。
この人、パガニーニは苦手なのかしら。
そう思えて、私も微かに微笑む。


「コンクール?」
「はい。ヴァイオリンの、コンクール用の曲なんです。だから、多少の技巧も必要だろうって、先生と話し合って……大変なのは、私の伴奏を勤める子の方なんですけど」


ヴァイオリンもそうだけれど、同じくらい伴奏にも高い技巧を要求されるパガニーニ。
私の伴奏を努めることになった子は、ピアノ科でも1,2を争う子だけれど、それでもやっぱり難しいらしく。
いつも二人で励ましあっている。
私に巻き込んでごめんなさい、なんて言いながら。
相手も相手で、いずれ倍にして返していただくわ、何て微笑みながら。
それが、楽しいのだけれど。


「ヴァイオリンのコンクールか……なんでまた、出場を決めたんだ?」
「そのコンクール、母が唯一タイトル獲得を逃したコンクールなんです」


私の母は、ヴァイオリンの名手だった。
受賞したタイトルは、数え切れない。
そんな母上と父上がいつ、どこで出会ったのか、娘である私にも最大の謎だけれど。
そして母上が唯一タイトルを獲得できず、二番に甘んじたコンクール。今度のコンクールが、それだった。


の母君も、ヴァイオリンを?」
「はい。このヴァイオリンも、母の形見なんです」


言って、私はヴァイオリンを撫でる。

母上が私に下さった、大切なヴァイオリン。
早くに亡くなってしまった母上と私を繋ぐものが、このヴァイオリンだろう、と。私はそう思うから。
このヴァイオリンこそが、私と母上の、絆のように感じられるのだ。


「聞きに行っても?」
「はい?」
「コンクール、日にち教えて。聞きに行きたい」
「え?」


驚いて、ぽかんとした顔のまま、目線の高い彼の顔を仰ぎ見る。
それに、彼は少しだけ唇を尖らせた。
拗ねているみたい。


「何?行っちゃ駄目?」
「そんなことは……でも……」
「だって、婚約者だろ、対外的には。それにいちお、『オトモダチ』だし?」


言われた言葉に、瞬間的に痛みを感じた。
何故そんなものを感じるのか、それは分からない。
ただ、痛かった。


「そう、ですね」
「だろ?だから、日付教えて」
「日時は……」


言いかけて、招待状があったことを思い出す。
白い封筒に包まれたそれを、彼に手渡した。


「サンキュ」
「いえ……」
「たとえテスト中でも行くから」
「なっ!?」
「ウソウソ。冗談だよ。もう俺、考査終わってるし。首席卒業決定済み、ってね」


にやり、と笑う彼にしてやられた、と思う。
これじゃあまるで、私がきて欲しがっているみたいじゃない。冗談じゃないわ。


「花束持っていくから」
「結構です」
「またまた。素直じゃないな、は」


冗談めかして言う彼に、笑いが込み上げる。
別に、待っていないわ。
来てほしいわけでもないわ。
ただ、オトモダチだから、それでもいいと思っただけよ。



ただ、それだけよ。
だから……あの時、胸が痛くなったのだってきっと、何かの間違いなのよ。
だって私はこの人のこと、まだそう言う風に見ていないもの。

オトモダチ、だもの。私とこの人は。



紡いだ言葉が少しだけ痛むのに、気にも留めずに。
私は少し、笑った――……。



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久しぶりの更新です。
少しハイネがヘタレじゃありませんか?
おかしいなぁ。
あぁ、好きなこの前では、ついつい本来の自分が出せないんですよ。
彼も一生懸命なんです、と思っていただけたら嬉しい。

ここまでお読みいただき、有難うございました。