貴方のこと、名前で呼んでみようか。 Y 恋情未満 休暇が来れば、必ずその人はやってくる。 マメ、というのだろうか。 どうもそれ以外に、言葉が浮かばない。 婚約なんて、形式のもの。 少なくとも私はやっぱり、受け入れられない。 それでも飽きもせず……懲りもせずやってくるこの人は、世間ではやはり、マメというのだろうか。 本当に、感心するぐらいだ、と思う。 きたからといって、私は労うわけでもないし。 別に何をするでもない。 ただ、お茶を飲んで少し話をして、それでお仕舞い。 この人に、何か益があるとは、思えないのに。 だから、だろうか。 少しは、この人が喜ぶことをしたい、と思ったのか。 「ハイネ……様。紅茶……」 ぎこちなく、ファーストネームを呼んでみる。 あぁ、少し恥ずかしい。 今までずっと、ファミリーネームで呼んだり、二人称で呼んだりしていたから。 ファーストネームで呼ぶことが、ものすごく恥ずかしく感じられた。 対する婚約者は、ガバッ!何て。 効果音が聞こえてきそうなほど、勢いよく顔を上げる。 それが、余計に恥ずかしい。 「ごめんなさい。ご不快でしたか、ヴェステンフルス様」 「い……いや。そんなの、とんでもない!」 慌てた様子で、私の言葉を否定する。 少し、可愛いかも知れない。 どちらかと言うと、クールな印象が強いだけに、余計そのギャップが可愛らしく見えてしまった。 ……可愛い、何て。男の人が喜ぶことではないと、分かっているけれど。 それでも、そんな風に感じてしまった。 少し、顔が赤い。 私だけじゃなく、相手の顔も、真っ赤になっていて。 何だか本当に、余計気恥ずかしく感じてしまう。 そのまま二人、黙り込んでしまった。 少し、気まずい沈黙が、続く。 あぁ、こんなことなら、名前なんて呼ばなければ良かったのかもしれない。 少し、後悔してしまった。 続く沈黙に、バツが悪くてちらり、と相手を盗み見る。 端正な貌≪かお≫は、赤くて。 それでも、何だか嬉しそうに見えた。 ……錯覚、かしら。 「あの……さ」 「何でしょうか?」 「が名前で呼んでくれて、すごく嬉しい」 改まって言われて、余計に照れてしまう。 話を逸らしたい、と思った。 ちょっとこれ以上、この話題は恥ずかしすぎる。 恥ずかしいって言うか……気恥ずかしいというか……気まずいというか……。 ただ、ファーストネームで呼んだだけじゃない。 それなのに返ってきた反応に、戸惑った。 だってこの人だったら、もっと別の反応が返ってくるものだと思っていた。 さも当然そうに、笑うものだと思っていた。 でも、違ったの。 まるで、信じられないとでも言いたげな、そんな表情。 「コンクールの曲の練習、進んでる?」 「え?……あ、はい」 急に、話題が転換した。 でも、それに少しほっとする。 沈黙にも耐えられなかったし、これ以上あの話題は、恥ずかしかったから。 「パガニーニ、難しいだろ?」 「ええ、難しいです。ハイネ……様は、何がお好きですか?」 ぎこちなく、ファーストネームを。 嬉しいといってたし……たまには、ね。たまには、いいんじゃない? 「ハイネでいい、」 「ハイネ……様?」 「ハ・イ・ネ」 チッチッチッ、と指を振る。 敬称はいらない、ということなのかしら。 「ハイ……ネ?」 「その疑問符も要らない、」 嬉しそうに……本当に嬉しそうに笑うから。 だから、戸惑う。 そんなに、嬉しがるようなことかしら。 そんなに、満面の笑顔を浮かべるようなこと、私はしたかしら? 疑問符を浮かべてぐるぐると考え込む私に、ハイネ……は、さらに言葉を継ぐ。 「何が好き……って、作曲家のこと?」 「ええ。誰が、お好きなんですか?」 「何でそんなことを?」 「この前、パガニーニの練習をしているといったら、顔を顰めていたから。パガニーニは、お嫌いなのかな、と」 私の言葉に、ハイネ……は、う〜んと考え込む。 ? どうしたんだろう。 そんな、答えにくい質問をしてしまった? 「いや、別にパガニーニが嫌いなわけじゃない。難しいだろうなって、思っただけだ」 「そうなんですか?」 「うん。……それで、好きな作曲家……だろ。好きな作曲家は……」 口元に手を当てて、考える仕草。 これで、いいのかな。と思った。 婚約なんてとんでもない、と今でも思う。 まして、私は軍人になりたかった。 父上のように、なりたかった。 それを……その希望を妨げられたようで、婚約自体も嫌だったし、この人も嫌だったけれど。 それは、少なからずこの人を、傷つけていたのかもしれない。 そうよね。大して相手のことを良く知っていないのに、嫌うなんて。知りもせずに、嫌うなんて。そんなこと、してはいけないことだもの。 私だってきっと、傷つくもの。 でも、私はそれをしてしまっていた。 私は、きっとこの人を傷つけたと思う。 「……ごめんなさい」 「え?何が?」 私の言葉に、ハイネ――やっぱり、ファーストネームは気恥ずかしい――は、慌てたようだった。 そんな、慌てるような……焦るようなことかしら。 そう思うけれど、それだけ私は、この人に対して態度が良くなかったのかも、知れない。 「私、貴方を傷つけていたんじゃないかしら」 「え……?」 「態度、あまり良くなかったと思うの。だから、ごめんなさい。謝ってすむ問題じゃないと思うけれど……」 「ちょ……ちょっと待って、!」 謝る私に、ハイネが待ったをかける。 それに、私はぴたり、と口を噤んで。 ハイネの言葉を、待つ。 「何でがそんなことを言い出すのか、分からない」 「だって……」 「俺は、前もって教官から話を聞いていたけれど、はあの日、初めて聞いたんだろ? 俺は、教官から話を聞いて、自分の意思で頷いたけど、はそうじゃなかったんだろ?婚約者が決まった。そう聞いたんだろ? だったら、不満に思ってしまうのは、当然だ。が謝るようなことは、無い」 「ハイ、ネ……」 せめても、構わないのに。 それだけのことをおそらく、私はこの人にしてしまったと思うのに。 それなのになんで、それをしないのだろう。 「教官の考えとは違うかもしれないけど、トモダチから……さ。ゆっくり、付き合っていこう。俺はをあまり知らないし、も俺のこと、知らないだろ?それじゃ、婚約なんて言われても、不満に思うのは無理ないさ」 「ハイ……ネは、頷いたんでしょう?」 どうしてこの人は、頷いたんだろう。 軍での、出世のため? そのために私と婚約して、婚約を嫌がる私にまで優しくしているのだろうか。 それなら、馬鹿だ。 本当に、そう思う。 でも、何故だろう。 この人からは、打算めいたものは、感じない。 「が謝るようなことは、全くない」 「でも……」 「いや、本当に。謝らないでくれよ。が俺を名前で呼んでくれた。それだけで、俺は十分だから」 そう言って、笑うから。 だから、頷くしか出来なくて。 これで、いいのだろうか。 これで、きっといいんだと思う。 お互いの趣味とか、知らないことが多すぎて。 考え方も何も、知らなさ過ぎるから。 少しずつ、互いの価値観を縒り合わせていけばいい。 婚約なんて、とんでもない。 今でも、そう思うけれど。 お友達として付き合っていくぶんには、好感は持てるし。 「じゃあ、お言葉に甘えて、この話はここまでにしますね、ハイネ」 「あぁ、それでいい」 「じゃあ、先ほどのお話に戻りますけど。ハイネは、作曲家は誰がお好きですか?」 傷つけたかもしれない、これまで。 きっと、きっと傷ついたと思う。 だったら、これから先は、優しくしたいと思った。 今までの分も、優しくして。 だって、オトモダチ、だから。 言葉を待つ私に、ハイネは言う。 「結構、バッハが好き」 「バッハ……ですか?」 「そう。教会で録音したとか言う音源ファイルを聞いたんだけど、凄かった。さすが、教会音楽。教会の音響とかを計算しつくした感じのあの響きやメロディ……譜面を見たら、ちょっと理屈っぽいような感じがするけど、好きだなぁ……」 「じゃあ、今度お会いするときまでに、練習しておきます」 バッハ……か。 聞く分には好きだけど。 いざ演奏となると、あまり得意じゃないけど。 練習してみよう、と思った。 喜んで、くれるかしら。 「本当に?のヴァイオリン、聞かせてくれる?」 「はい、勿論」 だって、オトモダチ……でしょ? 友達友達言い過ぎててウザイ、とか。 思われてそうで不安です。 『destined for...』第6話をお届けいたします。 なかなか進まない小刻み更新で申し訳ないです。 ハイネは好きなんですけどねぇ……うん。 どうも私が書くと、ミゲルとキャラが被ると申しますか……あぅ。 もっと、精進したいものです。 ここまでお読みいただき、有難うございました。 |