流れる血を、そっと舐めとって。

その舌先に絡めて、ゆっくりと嚥下する。

彼女なしではもう、生きられない。

この血の甘さを知ってしまった今となっては、彼女しかいらない。



大切だった幼馴染ですら、今はもう考えられない――……。









W   満月の、夜






城に戻ったイザークを、一人の青年が出迎える。
まだ、日は昇っていない。
それでもこうして起きているということは、おそらく昨夜は寝ていないのだろう。
普段ずぼらなくせに、こういう時だけしっかりしているやつだ、と。半ば八つ当たり気味でイザークは思う。


「漸く帰ったか、この放蕩息子」
「誰のことだ、それは」
「お前だ、お前。昨夜城抜け出して馬走らせてたのは分かるがな。朝帰りは聞いてねぇぞ」


領主の息子に対して、結構な口の利き方である。
が、イザークも青年も、それを気にした様子はない。
ガシガシと青年がその金髪をかき回す。
これは結構……キているのかもしれない。
太陽のような琥珀の瞳には、剣呑な光がちらついている。


「お前な、何処で何してたんだよ?俺にくらい、一言言ってから出かけやがれ」
「俺が何処で何をしようと、貴様には関係ないだろう?」
「ある」


青年は断じると、ふうと溜息をつく。
彼の名は、ミゲル=アイマン。この地方を統べる領主であるエザリア=ジュールの、宰相を務める男だ。

五つ年上のこの男が、イザークは妙に苦手だった。
彼を、年相応に扱うのは、この男くらいだ。
それが妙に……妙に気恥ずかしいというか、苦手だった。


「俺は親父が死んで宰相引退したから、エザリア様の宰相やってるけどな。元々お前の宰相になるべく育てられてんだよ。お前のすることは何でも、俺は知る権利と義務がある」
「そんなことは分かっている!」
「だったら俺が、お前が何も言わずに馬走らせに行って今まで帰ってこなくて、どれだけ心配したかも当然、分かってるよなぁ?」


剣呑な光をちらつかせたまま、腕組みの体勢で。
成長途中であるイザークよりも、ミゲルの背は高い。
また、程よく鍛えられた彼の躯は、間近で対峙すると迫力以外の何ものでもない。


「それは分かるが……」
「日の出までに戻らなかったら、エザリア様に事の次第を報告の上、捜索隊を出すことまで考えてたんだぞ!」


エザリア=ジュールの治めるマティウスは、非常に広大な領土を有している。
当然、それを狙う他国の者は後を絶たない。
後継者であるイザークを亡き者にしようと狙うものもまた、多いのだ。





マティウスでは、宰相はアイマン家に世襲されてきた。
そして今、イザークの目の前にいるこの男の父親が、エザリアの宰相を努めてきた。
しかしそれを半ばにして戦死してしまったため、嫡男であるミゲルが父に代わって宰相を務めている。
僅か19歳という若年で、だ。
しかしその重責をしっかりと背負っている点から見ても、彼は有能な男だった。
若いからといって、侮れば痛い目を見る。
それが近隣諸国からの、彼への評価だった。

今でこそ平和なマティウスだが、ほんの三年前までは戦争をしていた。
国を挙げての総力戦となった戦争で、ミゲルは父親を亡くした。
そして19歳という若さで、その重責に身を置いたのだ。
若すぎる、と。その就任を危ぶむものも当時はいたが、今では一人も存在しない。
それだけ、彼は有能な男なのだ――仕事に意欲を持ったときは。


「とりあえずお前、ちょっとは寝て来い。今日の政務に障る」
「分かった……お前は?」


ミゲルが寝ていないのは、一目瞭然だった。
ただでさえ激務の宰相という仕事に耐えるのは、あまりにも酷なようにも思われるぐらい。


「今から寝たんじゃ、起きらんねぇから、いい。……人のことはいいから、お前は寝て来いよ」
「しかし……」
「その代わり、今度、仕事頼むからな?」


イザークの言葉を遮るようにして、ミゲルはにこりと笑いながら言う。
イザークの顔が僅かに青褪めたが、気にしない。

心配させてくれた、礼。ささやかな意趣返し。これくらい、安いものだろう。
ミゲルはこれでも、かなり怒っているのだ。
自分にまで黙って出かけたイザークに対して。

そりゃあ、夜中に馬を走らせるなんて聞いたら、ミゲルは勿論止める。
しかし言ってくれた方が、まだましだ。
少なくとも居所ははっきりしているのだ。
明け方に胸騒ぎがして寝室を無礼と承知で開けたら部屋の主の姿はなかった、何て。そんな心臓に悪いものからは解放される。



ミゲルの言葉に甘えるように、イザークの姿が自室へと消える。
それを横目で見やりながら、ミゲルはふわぁと盛大に欠伸をした。
そのまま、彼は表情を切り替える。
イザークの兄代わりの顔から、一国を背負う宰相の顔へ。
陽気な本質は鳴りを潜め、責任と言う鎧をその身に纏う。
一国の重責を担う、マティウスの宰相。
それへと、鮮やかにその表情を変貌させていた――……。







自室に戻ったイザークは、ばたん、と褥の上に倒れ伏した。
顔をうつ伏せたまま、クツクツと笑う。
自分でも、信じられない。
欲しかったものが、手に入った。
夢にまで焦がれ続けたものが今、この手の中にある。
ミゲルの小言も耳に入らない。それくらい、彼女という存在は、イザークにとって貴重だった。


「手に、入れた……」


欲しくて欲しくて、堪らなかった。
例え愚かしい代償行為と分かっていても、求めずにはいられなかった。
それくらい愛しい……少女。

己が手にしたものが所詮、彼女の絵姿に過ぎぬと分かっていても、彼は欲しいと思ったのだ。
彼女――アスラン――を……。


「だからもう、離さない……」


離してなど、やらない。
彼女は、自分だけのもの。それでいい。それだけで……いい。

彼はただ、欲しいものを手に入れただけ。



ゆっくりと、褥の上で寝返りを打つ。
どうしようもないまでに堪っていた鬱屈も、少しは和らぎそうだ。
今なら……今ならよく、眠れるかもしれない。




ゆっくりと、奇蹟のように美しいアイスブルーの瞳を、と閉じる。



見る夢は、悪夢でも構わない。
欲しいものを手に入れた、その代償がその程度ならば寧ろ……。






寧ろ甘んじて、それを受けてやろうよ……。
微かに洩れた声は甘く滲み、ゆっくりと溶けていった――……。



**




月が、見えていた。
ふっくらとした、白い白い月。
美しい、満月。
切ったら血が噴き出るのではないかと思うほど、丸い月。
手を伸ばせば届きそうなほど近くにある、月。


月光を背に受けながら、吸血鬼としての自我に、アスランは還っていく……。くすくすと、口元にたゆたう薄い笑み。
昼とは違う、どこか魔性を秘めたその貌を、月だけが見ている。


「……ご飯……食事、しないと……」


呟き、アスランは駆け出す。
出来れば同じ歳くらいの少女の、血。
叶うことなら、三人分。
そうでなければこの餓えは満たされない。

吸血鬼といえども、まだ大分人間の自我を残し、どちらかといえばそちらが主導権を握るアスランにとって、人を害さずにすむ目安がそれだった。
三人の少女から少しずつ、血を分けてもらう。
それならば少女たちは死ぬこともない。
吸血鬼になるでもなく、ただ軽い貧血を起こした程度と、その程度で済む。

本当はそれも、ただの身勝手さから出たものであったかもしれない。
けれどアスランには、必要だった。
人から不審を買うことなく生活していくためには、必要だったのだ。

通りかかった明るい、快活そうな少女に、襲い掛かる。
すばやくその喉元に牙を押し当てると、少女が意識を手放した。

ピチャリ……ピチャリ……と、溢れる甘い雫を飲み干す。
喉を潤すその甘さに、躯の隅々まで潤うような気がした。


「あ……れ……?」


不審に思い、アスランは目を瞠る。
少しずつ、この身は活力を取り戻していく。
なのに、足りない。
欲しいものは、こんなものじゃない。


(――――イザーク……)


知り合ったばかりのその人の、その名を呟く。
甘い衝動が、その身の内を駆け巡る。

彼の血が、欲しい。

押し留めようとする、人間としてのアスランの理性。
けれど……。
吸血鬼のアスランが、唆す。
彼を『伴侶』にしてしまえ、と――……。

その意識のままに、うっとりとした瞳でアスランは呟く。


「身も心も、僕のものにして――……」


くすくす、と沸き起こる感情に任せて笑う。
甘い甘い、血。
血管が透けて見えるのではないかと思うほどの、白い肌。
牙を立てる、その瞬間を思うだけで、身の内を駆け巡るほどの快楽を感じる。


「一生、僕だけのものに――……」


あぁ、何てそれは楽しい思い付きだろう。
くすくすと笑いながら、アスランは呟く。



だから早く君を、僕のものにしなくちゃ。

その瞳を覗きこむだけで、囚われてしまうと言われる吸血鬼の魅了の瞳。
それに、無邪気な……けれど残酷な光を宿して。
楽しそうに呟くその姿を。








月だけが、見ていた――……。



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宰相登場です。
黒イザークに続き、黒アスラン登場です。
黒い人間多すぎませんか、緋月さん。

どうも吸血鬼としてのアスランは、血が美味しかったという理由でイザークが気に入ったようです。
イザーク、ご飯決定(合掌)。

でも、イザークの血だったら、私も吸ってみたいなぁ(←変態め;)。
何か、甘い味がしそう。



ここまでお付き合い頂き、有難うございました。