引っ掴まれた腕を、支えた。
琥珀の瞳が、痛いぐらいに真剣に輝く。
そんな『兄』に。
心配してくれる『兄』に。
笑いがこみ上げた――……。
Z 価値
「遅かったな、イザーク」 「ミゲルか。どうした?」
城に戻ったとき、日はとうに落ちていた。 少しまずったかと思ったが、別段おかしなことでもないだろう。 イザークとて、健康な男であるのだから、日がな一日中執務に当たっていられるわけでもあるまい。 むしろ、まじめすぎるのを心配して散々要らぬ世話を焼いたこともあるのは、目の前の兄貴分の方だ。 何か彼が言っても、黙らせるだけのネタは十分に持っている。
「ちょっと、俺の部屋に来い。内密の話がある」 「内密の……?分かった。とりあえず、着替えてきていいか?」 「ついでに、湯も使っちまって来い。その埃っぽい格好で、エザリア様と食事なんてできねぇだろうが。雷が落ちるぞ」 「違いない。では、そうしてこよう。……その後でいいのか?食事の後の方が、いいのか?」 「今から湯を使ったとすると……そうだな。食後でいい。食事が終了してから、俺のところに来てくれ」 「分かった」
年若い宰相に、頷く。 どちらかと言うと親しみやすい……おちゃらけた態度の多い男が、真剣な顔をしていた。 何が、重大事項でも発生したか……と。イザーク自身の顔も思索に沈む。 だが、もしも何か火急の用向きであったならば、後でいい、などとあの男は決して言うまい。 彼はそれだけ、己の果たすべき職責というものに、誇りを持っている。 最も、普段はどうにも軽いととられがちな態度なのだが。
「何か……あったか……?」
呟くが、何一つ心当たりなどない。 領内の様子も、平穏で人々に飢えた様子など見当たらぬ。 善政が、広く人々の間に行き渡っているのだ。 そしてその認識を人々が持っている以上、ますますマティウスは栄えるだろう。
私室に入ると、肖像画が飾られている。 捨てようとした母や使用人たちを諌めて、ずっと飾ったままの……少女の肖像画。 藍色の髪に翡翠の瞳をした、可愛らしい少女。 白い肌に、桜色の唇が映える。 にこり、と微笑むその笑顔に、魅せられた。 彼の妻となるべきだった、少女――……。 昼に逢っていた少女と、やはり似ていた。
ディセンベル。 ある日いきなり、滅びてしまった国。 妻となるべきだった少女の足跡も、何も辿る術を持たない。 彼女は、どう生きたのだろう。 何が好きだったのだろう。 死んだと分かっていればこそ、せめて少女の生の足跡を辿りたいと願った。 それさえも今は、叶わぬ願いに過ぎないのだが。
「ディセンベルを、手に入れるしかないか」
マティウスと並ぶ大国でありながら、滅びてしまったディセンベル。 その領土を手に入れること叶えば、マティウスの名は大陸全土に鳴り響くだろう。 今後の情勢を動かす中で、発言権も大きくなるに違いない。
それは彼の『望み』と『国益』と、どこまでも合致した要望だった。 ただ己の願望を満たすためだったら、彼自身そこまでの策は講じない。 領地を治める領主として生まれた彼は、国益のためなら己を殺す術さえも知っている。 しかし今、彼の『願望』と『国益』は、同じ軌跡を描きつつある。 ならば、己の切なる願望を叶えても、罰は当たるまい。
そのためには、あの『少女』の協力が必要だが……。
考えて、彼はぶんぶんと頭を振った。 ここから先の思索は、一人でなすよりも複数でなした方が得策だろう。 彼自身の思惑が思索の迷路に迷い込んでしまっては、救われない。
「貴女は、俺を恨むか……?『アスラン』」
肖像画の少女は、ただ微笑むのみだ。 ふっくらとした笑みを浮かべながら、優しく彼を見下ろしている。 その肖像画に、彼はそっと口付けた。 恋に憂えたアイスブルーの瞳が、額縁の少女を見つめる。 その瞳を、肖像画の少女は、優しく見返すだけだった――……。
**
食後現れた弟分に、彼は酒を満たした杯を手渡した。 謝辞を口にして受け取ると、ソファの上にどかりと腰掛ける。
「何のようだ、ミゲル」 「……お前、今日はどこに行っていた?」
尋ねるミゲルに、イザークは当たり障りのない返答を返した。 愛用の古書店に行って、大学の図書館へ、と。
「嘘つくな。森の私邸だろ」 「何故、それを?」 「エザリア様に頼まれて、探しに行ったからだ。そこで、お前……」 「ああ、見たのか?」
尋ね返してくるイザークに、ミゲルは頷いた。 確かに、見たのだ。 目の前の弟分を。そして――……。
「イザーク、あれは……」 「ミゲル、俺はディセンベルが欲しい」 「イザーク?」 「ディセンベルを、手に入れたい」
アイスブルーの瞳に情熱の色を宿して、『弟』が言う。 目を見開いたミゲルは、しかしその要望を一蹴した。
「大義名分がない」 「このまま、あの領地をブルーコスモスに蹂躙《じゅうりん》させてよしとする、と?」 「確かに、あそこを治める家はジュール家と同じくらい古くから続く名家だ。惜しい気持ちももちろんある。ブルーコスモスとか言う連中に蹂躙されるがままに任せるには、あまりに惜しい。でも、大義がない」 「あるさ」 「いや、ない。ディセンベルは、マティウスとは縁戚関係にない。だからお前に、ディセンベルのアスラン嬢を嫁がせる案が出たんだろうが」
ディセンベルとマティウスは、大国同士でありながら互いに一滴の血の繋がりを持たぬ領地同士であった。 故に、嫡男と嫡出の息女との婚姻を整えようとしたのだ。 それが、イザークと亡きアスラン嬢との婚姻だった。
「ではもし、死んだと思われていたディセンベルの……ザラ家の娘が生きていて、婚約者だったマティウスの俺に助けを求めたとしたら?」 「イザーク?」 「大義は、こちらにあるのではないか?」 「……お前、何を考えている?」
ミゲルの言葉に、イザークはただ微笑む。 けざやかなほど嫣然たる微笑は、彼の性別を知る者が見ても艶やかだった。 その瞳が、確かな執着の色を宿しているのを、ミゲルは見た。
「俺の後を追って私邸にまで来たのならば、見ただろう?ミゲル。俺が囲った少女……」 「……ああ」 「ディセンベルの出身だそうだ」 「何!?」
慌ててミゲルは腰を浮かした。 有得ない。 あの少女は、死んだ筈だ。 全ての密偵が、同じ情報を伝えた。 よもや、子飼いにしている密偵が誤りを犯すなど、そんな筈はない。 そのような使えぬ密偵を、飼っている筈がないのだ。
「名前も、彼女と同じ……『アスラン』だ」 「罠じゃないのか」 「何の罠だ。俺を陥れるための罠にしては、手が込んでいるのかお粗末なのか分からん罠だろうが。だが……使えると思わないか?」 「お前……」
黙り込んだミゲルに、イザークはただ微笑みだけを向けた。 聡い彼ならば、もう分かっているだろう。 イザークが温めつつある計略を。彼は、悟った筈だ。
「その少女を替え玉に仕立て上げて、ディセンベルを手に入れる……と?」 「そうだ」 「何てことを……」 「ディセンベル……我がマティウスと肩を並べる大国だ。そこを手に入れれば、大陸全土における我がマティウスの発言権は、比類なく強化されるだろう」 「だが、しかし……」
答えを渋るのは、彼が本来謀略などに向かぬ人柄だからだ。 宰相と言う職責上、謀略から逃れることは叶わぬ。 けれど生来どちらかと言うと陽性の彼は、謀略などには向かぬ人柄だった。
「分かっているのか、イザーク。それはあの少女に、一生ディセンベルの姫として生きろと言っているも同然なんだぞ?」 「あぁ、分かっているさ」 「彼女自身の性質を歪めかねないものだと言うことも……?」 「勿論、分かっている」 「その上で、それを望むのか?」
否定を求めて、ミゲルはイザークに尋ねた。 しかし、イザークははっきりと頷く。
「本当に欲しい女が手に入らなかった。他の女など、所詮皆彼女の代わりだ」 「イザーク」 「彼女が生きて死んだ、『ディセンベル』が欲しいんだよ、俺は」
酒盃を口にしながら言う。 杯から唇を離し、ぺろり、と唇を舐めた。 杯の赤が、血の色に見える。 その幻想さながらに、彼はこれから『少女』のために血を啜り生きていくと言うのか。
「イザーク、あの女は『彼女』じゃない。即刻お前の身辺から追い出せ」 「断る」
間髪入れぬ返答に、ミゲルは眉を寄せた。 分かりきっていたことだった。 彼は、一度下した決断を違えるようなことは、決してしない。 分かりきっていたこと、だった。
「せっかく見つけた、『彼女』の代わり……それに利用価値もある。手放すなど、ごめんだな」 「イザーク……でも、それは……」 「貴様が協力を渋っても、俺は絶対に手に入れるぞ。ディセンベルを」
くっと喉が震えて、酒を嚥下する。 血管が透けて見えるかと思われるほど白い喉を滑り落ちる、『赤』。 同じように彼は、同じ色の血を啜るのか。 全ては、ディセンベルを……『彼女』の生を終結させた地を手に入れるために。
あぁ、とミゲルは思う。 やはり、近づけてはならなかったのだ。あの女を。 それでも、ミゲルは頷いた。
無邪気に微笑んで、全てを奪う。
アイスブルーの瞳に宿る情熱の色は、ただ暗い影を落としてミゲルを見ていた――……。
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吸血鬼設定はどこに行ったんですか? とか言われそうですね。 勿論、忘れたわけじゃないですよ。 ちゃんと念頭には常に吸血鬼です。 ただ、アスラン自身を見ていないイザークを書いただけです。 しかし、この男が額縁の恋ですか。 どうもキャラじゃない気はするのですが……変態くさいし(小声)。
ここまでお読みいただき、有難うございました。
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