明け方に見た『夢』は 夜明けに惑う星のように 闇に淡く 滲んだ――…… -夢に、滲む…- どうやら、意識を飛ばしてしまったらしい。 参ったな、と。思った。 ミゲルが、好きだった。 彼だけを、愛していた。 他の人間を愛するなんて、そんなこと。そんなこと、思いもしなくて。 そんなこと、考えてもいなくて。 一緒このまま、もう誰も愛することなく生きていくのだと思っていた。 肌を合わせるのはだから、ずいぶんと久しぶりのことで。 その感覚さえも殆ど忘れ果てた躯は、呆気なく陥落してしまったらしい。 ハイネに、悪いことをしてしまったんじゃないかと、思った。 俺を甘やかしてくれる、年上の従兄。 そして、腹違いの、兄。 「ハイネ……?」 腕を伸ばして、シーツを捲り上げる。 隣に、彼の姿はなかった。 疼くような鈍痛を引きずりながら、身を起こす。 ハイネの姿は、ベッドの、俺の足の方にあった。 淵に腰掛けて、頭を、抱えて。 裸の上半身の下は、ブラックジーンズで覆われている。 シャワーでも浴びたのだろうか。オレンジ色の髪は、濡れていた。 「ハイネ……?」 「あぁ、起きたか?」 「あぁ、起きた」 「シャワーでも浴びてくるか?風呂の用意は、一応しておいたんだが……」 「……何故、俺の方を見ない?」 低い声で、尋ねた。 さっきからハイネは、全く俺の方を見ようとしない。 虚空を見つめながら、ただ言葉だけは優しいものを、かけてくる。 そんな優しさが通用するわけ、ないのに。 「……後悔している、と言うわけか?」 「……しているよ」 「なら、忘れてしまえ」 静かに尋ねると、ハイネは俺の言葉を肯定した。 傷つく必要などどこにもないのに、それにほんの少し傷ついたと感じる俺自身が、滑稽に感じた。 「忘れられるわけが、ない」 「なら、俺を殺すか、ハイネ。……いや、異母兄上。あの時、殺そうとしたように……」 ハイネが漸く、俺を振り返った。 その瞳にある光に驚愕の色が濃いことに、今更ながら笑みが浮かぶ。 忘れてしまったと、思っていたのだろうか。 コーディネイターの記憶力で、そう簡単に忘れられるわけが、ないというのに。 「貴様自身のアカデミー卒業の日、貴様は俺を殺そうとしたじゃないか」 「何で、それを……」 「覚えているのかって?忘れられるわけがない。……俺は小さい頃からずっと、命を狙われていたんだ。些細な癖は全て、覚えていられるように必死に訓練したさ。俺自身の命を、守るために」 「……盲点だったな」 諦めたように、ハイネが笑った。 覚えている。 覚えているさ。 深紅の軍服を纏ったザフト兵のこと。 覚えているとも。 俺を殺そうとした、男のことぐらい。 「何でそれなのに、お前は俺と付き合っていられるんだ?」 「……ミゲルの尊敬してやまない先輩だったから、だな」 「なるほど。あいつが俺を先輩先輩言って慕ったから、付き合っていられたんだ?」 「最初は、怖かったさ。心の底から、恐怖を感じた。でも俺は、『知って』しまったから。俺がどんな存在であるか、知ってしまったから」 殺されるのも、仕方のないことかと、諦めた。 恐怖は、なくなった。 だって、仕方のないことだから。 「ハイネ。貴様には、俺を憎み、母を憎む権利がある。そして、俺たち二人の命を奪う権利が」 「……『兄』として?」 嘲るように、ハイネが鼻で笑った。 怜悧な美貌に浮かぶ酷薄な表情が、彼の美貌により一層の華やぎを添えている。 酷薄が、絵になる男なのだな、と。俺は思った。 「伯母上の、子として、だ……」 「……母は、お前たち二人を憎んではいなかった。軽蔑してもいなかった。ただ、哀れんでいた」 「……知っているさ、それぐらい。でも伯母上とお前には、その権利があった」 命を。 生物の倫理を捻じ曲げた。 それを裁く権利が、あるとすれば。 それはその被害者となった伯母と、彼女の遺志を継ぐ息子にこそ、ある。 少なくとも俺はそう、考えていたから。 「……殺さないさ」 「あぁ、そうか」 「殺せない」 「そう」 「だってお前は、この世で唯一俺と同じ血を半分分かつ、異母妹だ。……殺せるわけが、ない」 そう言って、ハイネは俺を強く抱きしめた。 冷たい肌の感触に眉を寄せる間もなく、強い力でその胸に押し付けられる。 裸の胸に押し付けるように抱きしめられて、苦しい。 息が出来なくて、微かに喘ぐと、頭上からくぐもった笑い声が降りてきた。 歪んでいるな、お互い。 異母妹だから、殺せないんじゃ、ないだろ? お前と血が繋がっているから。半分同じ血を共有しているから、殺せないんだろ? 俺もお前も結局、『キョウダイ』しか、愛せないから。 歪んでいるな、お前。 歪んでいる。俺も。 何て何て、よく似た異母兄妹だろう。 「……後悔するなら、それは……」 「ん?」 「それはお前を、俺の罪に引き入れたから、だ」 「……今更?」 彼の唇が紡ぐ言葉は酷く、真剣で。真摯な色を帯びているのに。 彼の唇が紡ぐ、その声は酷く、愉しげで。 愉悦に、揺れていた。 本当は毛ほども、そんなこと思っていないくせに。 否、思っていたとしても。それは決してお前にとって、罪悪感を感じるようなものじゃ、ないんだろう? お前と半分同じ血を繋ぐ俺が、同じところに堕ちてきて、嬉しくて。嬉しくて、仕方がないんだろう? ……俺と同じだよ、ハイネ。 「シャワー、浴びたい」 「どうぞ、お姫様。風呂の用意も出来ている。ゆっくり浸かってくるといい」 「有難う」 喘ぎながら自らの願望を口にすると、ハイネがゆっくりと躯を離しながらそう、言った。 湿った髪が、くすぐったくて。 冷えたその感触を、少しいぶかしむ。 「……髪、冷たい」 「あぁ、湯冷めしたかもな」 「……すぐに分かる嘘は、つかないほうが懸命だな、ハイネ」 呆れたように俺は、溜息を吐いて。 ハイネの髪を、引っ張った。 「バスルームに連れて行ってください、異母兄上」 「……了解」 「ついでに貴様も、ちゃんと温まれ。水風呂に入る馬鹿が、どこにいる。ったく……」 ぼやくと、ハイネの美貌がクシャリと歪んで。 諦めのような……参ったと言いたげな、そんな笑顔が、取って代わった。 「敵わないな」 そう呟いた彼の言葉に、聞こえない振りをして。 手を、伸ばす。 手の甲に恭しく口付けを施すと、ハイネはシーツごと俺の躯を抱きかかえて。 そのまま悠然と、バスルームに向かった――……。 窓から差し込む光の眩しさに、俺は覚醒を促された。 隣にはやはり、ハイネの姿はない。 昨日と変わらない状況に若干のデジャ・ヴュを感じながら、俺はシーツに包まれた手足を伸ばす。 彼の寝室のカーテンは、遮光カーテンだったようだからきっと、先に起きたハイネがカーテンを開けたのだろう。 プログラムに管理されたプラントは、今日も快晴だった。 「起きたか、イザーク」 「あぁ……おはよう」 「おはよう。よく眠れたみたいだな」 寝室に入ってきたハイネが、ベッドの縁に腰掛けて、俺の顔を覗き込む。 それに、頷いた。 昨日の晩、一度目が覚めてしまったとは言え、確かに良く眠れた実感が、あったから。 日が昇ってしまったのに眠りに就いていたなんて、どれぐらいぶりのことだっただろうか。 少なくとも、ミゲルが死んでからは一度も、なかったことのように思う。 毎夜毎夜、ソファに蹲って、明けない夜を見上げていた。 朝日が昇って、空が白み始めて漸く、僅かに眠れる気がして。一人ではない気がして、眠りに就く。 それが、当たり前になっていた。 こんなにも眠ったのはだから、本当に久しぶりのことなのだ。 「食事にするか。……といっても、軽いものしかないけどな」 「……すまない」 「いいよいいよ、気にするな。無理をさせた、俺が悪い。それにお前が、ちゃんと眠ってくれたみたいで、俺は嬉しいよ」 笑って、ハイネはそう言った。 その気遣いに、罪悪感を刺激されつつ……でもどこか、安心する。 彼と結んだ情交も、そういえば、そんな感じのものだった。 払拭されない、罪悪感。 でも、どこか安心した。 まるで、母親の胎内で同じ胎衣に包まって眠っているような、そんな不思議な安堵感と安らぎ。 もっとも、俺とハイネは双子なんかじゃなくて。母親が違うのだから、そんなこと。ただの気のせいだろうけど。 もぞもぞと起き上がって、服に手を伸ばす。 軍服しかないが、仕方がない。 けれどそれより先に、ハイネが服を差し出した。 「何だ?」 「まさか、オフで軍服着る気?真面目なジュール隊長は、違うねぇ」 揶揄するような口調のハイネに、眉を寄せる。 確かに、普通オフにまで軍服は着ない。 けれど、問題ない筈だ。 今は、平和な時代の軍人ではなく。戦時下の軍人に、逆戻りしているようなものだから。 オフ……それももう、あまり取れなくなるんだろうな。 戦時下ともなれば、休暇は用意には、取れなくなるから。 「俺の服でいいだろ?サイズは合わないだろうけど、気にするな」 「いや、しかし……」 「……皺の寄った軍服、お前着たい?」 ハイネは笑いながら、そう言った。 その言葉が、昨夜のことを連想させるような気がして、頬が上気する。 両頬が熱を持つのが、自分でも分かって。 ニヤニヤ笑うハイネを尻目に、ぶっきらぼうに答えることしか、出来なかった。 「……服、借りる」 「素直でよろしい。……待ってな、よさそうなの、見繕ってやるから」 言って、ハイネはクローゼットに向かい合った。 ミゲルより細身で、ミゲルよりやや身長の低いハイネだけど、やっぱり性別の違う俺よりは、しっかりした躯に長身だから、服のサイズはとても、合わないだろうな、と。ぼんやりとしながら思う。 ハイネが差し出したのは、シャツとスラックスだった。 着替えの邪魔をする気はないといって、さっさと部屋を出る。 手に取った彼の服はやはり、俺には大きいようで。 袖をまくったり、ベルトで調整したりして、それらを手早く身につけた。 そして、彼の後を追うように、部屋を出た――……。 リビングでソファに腰掛けて、ハイネが入れてくれたお茶を堪能する。 やはり、美味い。 美味しい紅茶に、心がほっこりと和んでいくのが、分かる。 朝食に出されたのは、ハイネが淹れた紅茶と、買い置きのスコーンだった。 それらを口にしていると、ハイネが徐に口を開く。 「お前、今日オフだったよな?」 「あぁ……一応。まぁ、まだ何が起こるかよく、分からないが……。とりあえず、ユニウスの落下作業に出撃したと言うことで、ジュール隊は一応オフを貰っている」 「そう。じゃあ、昼はどこかに食べに行くか。それに、服も買わないとな」 「……おかしいか?」 服の裾を引っ張って、尋ねる。 彼の服は俺には大きかったから、それなりに調節して着たつもりだったけれど。やはり、どこか着こなしがおかしいだろうか。 「別に、おかしくはない」 「本当に?」 「勿論。ただ、やはりそれで一日過ごすのは、無理があるだろ」 ハイネの言葉に、渋々頷く。 確かに、これで一日過ごすには、無理がある。 もっとも、時間を置けばランドリーに出した軍服が、出来上がるだろうけど。 懐かしいな、と。ふと思った。 ミゲルとも、こんな感じだった。 ハイネよりも長身で、ハイネよりもがっしりしたつくりのミゲルの服は、全然合わなくて。 二人で、笑った。 懐かしい、夢。 幸せだった頃の、夢。 優しい夢の中で、幸せだったと、思う。 その後に待ち受けていた現実を、今でも否定したくて堪らない。 どうして、彼は死んでしまったの? どうして、彼は此処にいないの? 平和になったら。そう、言っていた。 赦されないけれど。プラントの定める法に、背くけど。 それでも、一緒にいたいと、思った。 願ったのが、間違いだった? 生命の倫理を捻じ曲げて誕生した俺が、幸せを願ったのが、間違いだったのだろうか。 それは、赦されないことだった? 「イザーク、何かあったのか?」 「何?」 「何か、あったのか?」 俺の質問には答えずに、ハイネが問いだけを重ねた。 彼の言わんとしていることが分からなくて、俺は唇を閉ざす。 何か、あったのか、など。そんなの、聞かなくても分かるだろ? ユニウス・セブンが、堕ちたんだ。 細かく砕きはしたけれど、その破片は間違いなく、命を奪う刃となって地球に舞い堕ちた。 俺は、ナチュラルなんてどうでもいいけど。 それでも、それが火種となることは、目に見えている。 平和のために散った数多の犠牲。それらの犠牲は、2年と言う短い平和の代償にしか、成り得ないのか。 そんな問いが、俺の中で燻っていた。 「何って、ユニウスが、堕ちただろ?」 「そうだな」 「これはきっと、戦争の火種になる、だろ?」 「……確実にな」 言葉を飾らずに、ハイネはそう言った。 それが、答えにならないか? 別に、何があったわけでもなくて。 これから、全てが始まる。 それは、予感。 だからだ、きっと。 ハイネを受け入れたのは、その予感のため。 何かが起こりそうな予感と、絶望のためだったのかも、知れない。 俺にはもう、俺自身の感情の行方がよく、分からない。 「ユニウスで何か、あったんじゃないのか?」 「何?」 「ユニウスで、隊員が何人か殉職したのは、知っている。でも、他にも何か、あったんじゃないのか?」 ハイネの問いに、敵わないなと、思った。 どうしていつも、気づかれてしまうのだろう。 俺が覚えた屈託を、ハイネは気づいてしまうのだろう。 それだけ彼が周りの状況に目を配っているのか。それだけ俺が、周りを偽れていないのか。その、両方なのかもしれない。 「……別に、何もない」 「嘘だな」 「本当に、何も……」 ない、と。言い切ることは、出来ないけれど。 いうなれば、過ぎた過去に、直面した、と言うところだろうか。 ハイネは、アカデミーを首席で卒業した。 俺は、次席だった。 首席でありたかった、勿論。 間違って生まれた俺は、首席でなければ自己を確立できない気がした。 誰よりも、優れていたかった。 そうでなければ、母に申し訳ないとも、思った。 我が子を慈しむ母にせめて、『優秀な後継者』として接したかった。 優秀でなくてはいけないと、思った。 異母兄は、アカデミーを首席で卒業した。 異母妹である俺も、アカデミーを首席で卒業しなければ、と。思った。 ただでさえ伯母に負い目を感じている、母に。 異母兄は優秀なのに、私の娘は、と。そんなこと、母に思わせたくなんて、なくて。 でも俺は、首席にはなれなかった……。 首席になったのは、アスラン=ザラ。俺は一度も、あの男には勝てなかった。 首席でなくては、いけなかったのに。 母の子として。父の子として。ハイネの従妹にして異母妹として。 俺は、首席でなくては、いけなかったのに。 それなのに俺は、首席にはなれなかった。 涼しい顔で、殆ど全てのタイトルを、アスラン=ザラが奪った。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい、母上。 申し訳ありません、母上。 首席卒業は、叶いませんでした。 異母兄と同じ場所に、俺の名を刻むことは叶わなかった。ごめんなさい、母上。 ごめんなさい。俺を赦して。 俺を赦して。俺を愛して。 母上に捨てられてしまったら、俺は一体どうすれば。どうすればいいのか、分からない。 「……アスランに、あったんだ」 「アスラン?アスラン=ザラか?」 「知っているのか?」 尋ねる俺に、ハイネは呆れた顔をした。 アスラン=ザラの名前を知らないものは、プラントにはどこにもいない。それぐらい、俺だって知っているけれど。 ハイネは、他人には、無関心だから。 彼が知っているとは、思わなかった。知っていても、右から左だろう、と。 「知っているさ。ラクス=クラインの婚約者で、“イージス”、“ジャスティス”のパイロット。前評議会議長パトリック=ザラの一人息子。で、アカデミー首席卒業、だろ?」 得意そうに答えるハイネに、俺は一応頷いた。 ほんの少し、意外だったけれど。 ハイネは、自分の興味のないことは全て、右から左だと、思っていたから。 アスラン=ザラに、何かしらの興味を持っている、と言うことだろうか。 まぁ、その華やかな戦歴だとか経歴だとかに、興味を持つなと言うのは、無理な話だろうけど。 「アスランのこと、知っているんだな」 「まぁ、一応。俺の異母妹が成績で負けた、唯一の存在だからな」 「何だ、それは」 「ん?そのまんま」 くすくすと笑って、ハイネは言った。 俺が負けたから、気になったの? どんな奴に俺が負けたのか、気になって。それで? あまり愉快じゃないことを告げられて、見る見るうちに俺は不機嫌になる。 「父上と叔母上の娘が、簡単に負けるわけがない」 「ハイネ……」 「だから、気になったんだよ」 異母妹のことだから、気になった。 そう、ハイネは言うけれど。 本当に?と、思ってしまう。 お前、他人のことなんてどうでもいい人間じゃ、ないか。 ミゲルを先輩として指導したのだって、理由は別だろう?声が似ているとか、そんなことじゃ、ないだろう? 「それで?アスランが、どうした?」 「……別に。思い出しただけだ」 アカデミーの頃の、思い出の残滓を。 見てしまった。それだけの、こと。 きっとあの男はもう、そんな思い出さえも過去に放り投げてしまったんだろうな。 放り投げて、捨ててしまったんだろう。 オーブとか言う国に移り住んで、代表首長のお姫様と恋人になって。 まるで御伽噺のような、夢物語。 そんな幻想の前に、傷ついた現実なんて霧散したに決まっている。 でも、俺はそうじゃないんだ。 敗北の思い出。 喪われた友人たち。 そして目の前で喪った、隊員。 一気に押し寄せたものにきっと、心を弱らせた。 「そう。……とりあえず、出かけようか」 「……」 「服買って、食事にでも行こう。閉じこもっていても、碌なことにならない」 ハイネが、言って。 それに俺は、頷いた。 逆らってどうにかなるわけじゃないし。 ハイネの緑柱石の瞳は、反駁を許さないから。 夢を見たよ 君が、笑っている 何て哀しい夢 ** ハイネがエレカを運転して、ショッピングモールにやってきた。 声をかけられて、振り返る。 聞き覚えのある声だけど、まさか。 まさかそんなことはないだろう。そんなことは、うん。 そう思いながら振り返った俺の視線の先で、桃色の髪の少女が綺麗に微笑んで、手を振っていた。 ラクス=クラインを演じている、ミーア=キャンベルだ。 「ミ……ラクス嬢!?」 「こんにちは、イザーク様」 「あれ?歌姫も此処に来てたんだ?買い物?」 「はい。ハイネさんも、こんにちは」 「こんにちは」 ミーアの言葉に、ハイネも返事を返す。 決してぞんざいではないハイネのミーアへの扱いは、彼がそれだけミーアを気にかけている、と言うことを表しているかのようだった。 本物だって、こんな風には扱わないだろうに。 「今日はオフになりましたので、ショッピングに参ったのですけど。まさかこんなところで、イザーク様たちにお会いするとは、思いませんでしたわ」 「えぇ、そうですね」 ミーアの言葉に、頷く。 いや、俺だって、こんなところで逢うなんて思っても見なかった。 仮にも『ラクス=クライン』が、護衛もなしにうろつくなんて。 一体、誰が考えると言うだろう。 「それよりも、イザーク様?その格好は一体、何なんですの?」 「え……?いや、何なんですの、と言われましても……」 「何故そのような格好をなさっているのですか!どう見てもそれは、貴女にサイズの合わない男物でしょう!」 「それは、はい」 「ハイネさん、貴方、イザーク様と今日はご一緒なのですね?イザーク様を、お借りしてもよろしいでしょうか?」 「えぇ、構いませんよ」 「ハイネ!?」 ミーアの言葉にあっさりと頷いたハイネに、俺は思わず声を上げる。 何を……一体何を、考えている!? 「こちらこそちょうど良かった、歌姫。イザークに服買ってやろうと思ったんだけど、俺に女物は今ひとつ分からないから。歌姫さえ良かったら、イザークに服、見繕ってやってよ」 「それはとても素敵な提案ですわ、ハイネさん。私、お人形遊び大好きでしたのよ?」 「それは良かった。着飾り甲斐のある等身大のお人形だと思って、一つ遊んでください、ラクス様。そうそう。ラクス様さえよろしければ、その後一緒に食事でも如何です?」 「有難うございます。喜んで、ご招待に預かりますわ。 さぁ、それでは行きますわよ、イザーク様」 「え!?ちょっ……!」 大して抵抗するまもなく、がっちりとミーアに腕を掴まれた俺は、そのまま婦人服売り場に連行されることとなる。 いや、逃れようと思えば、逃れられたんだ。 本気を出せば、軍事教育を受けている俺が、ミーアを振り解くのは、容易い。 けれどどうにもそれは、躊躇われて。 躊躇われたのはきっと、彼女が軍事教育など何一つ受けていない、俺が守るべき存在だから、なのかも知れないけれど。 そのまま、ずるずると連行された。 「まぁ!とてもよくお似合いですわ!」 何度目かの試着を経て、ミーアがにっこりと笑った。 でも、どれを着ても『お似合いですわ』で、今ひとつよく分からない。 上に、ミーアが選んだのは悉く、ワンピースだった。 パンツスタイルと言う、俺にとって一番馴染んだ装いは、笑顔で却下され。 こうして延々と、仕立てのとてもよろしい、生地から素晴らしい服の数々に、袖を通している、と言うわけだ。 「そうですわね……やはり、こちらの方が良く似合っているのではないでしょうか」 「お客様は、肌の色がとても白くていらっしゃいますから、淡い色も良くお似合いですけど」 「肌の色を引き立てる、こちらのお色もお似合いですよ」 そして、俺で着せ替え遊びをするのは、ミーアだけでなく。 店の連中まで揃って着せ替えゴッコをする始末だ。 赤だの白だの黒だの。 桃色だの青だの緑だの。 いろいろな色をとっかえひっかえして、飾り気のない試着室のその一角だけ、ひどく華やかな色合いだった。 「イザーク様、こう言うのも似合うと思いますわ」 ミーアが差し出した、黒のワンピースだの。 店員が差し出した、白の綺麗目なワンピースだの。 次々と着せ替えられる。 ……さすがに、疲れた。 何だって女は、こうも買い物に意欲を燃やせるのだろう。 言っては何だが、訓練の方がずっと、楽だぞ!? 「どうしましょう、イザーク様」 「ラクス嬢、どう、とは?」 「どれを購入されます?どれもお似合いで、私迷ってしまいますわ……」 「ラクス嬢でしたら、そちらの白のワンピースがお似合いかと思いますが」 「私のことではありません、イザーク様。イザーク様のお洋服ですのよ。もっと真剣に考えてくださいませ」 そんなことを、言われても。 て言うか、そう言うくらいならいっそ、パンツスタイルを許可してくれ。 心の中でそう、ツッコミを入れた。 「どう?決まった?」 「どれもお似合いで、困っているところですの。出資者は、どれがお似合いだと思いますか?」 「そうだな……その黒のワンピースとか、いいんじゃないか?」 悪戦苦闘する俺たちの前に姿を現したハイネがそう言って、ミーアが差し出した黒のワンピースを指差した。 大きく襟ぐりの開いた、ホルターネックのワンピース。 身体にフィットするように作られているけれど、ウェストより上部に入った切りかえしが、ふんわりとしたラインを作っていて。 袖口も同じように、ひらひらとした作りのワンピースだった。 この中では一番、飾り気も少ない、シンプルな作りのワンピースだ。 「じゃあ、それにしようかな……」 「そうか。じゃあ、このワンピースにあうミュール、見繕ってきてくれないかな。サイズは……」 出資者の意向に従おうと口にした俺に、ハイネは頷き。それから女性店員に、ミュールを申し付けた。 あぁ、また長くなりそうだ……。 「ラクス嬢。ラクス嬢は、買い物はよろしいのですか?」 ふと気づいて、ミーアに声をかけた。 そうだ。もともとミーアは、自分の買い物をするつもりで、此処にきたのだから。 問いかける俺に、ミーアはにこりと笑った。 「気になさらないでください、イザーク様。私の買い物はもう、すんでおりますから」 「そう、ですか……それならば、よろしいのですが」 「えぇ。気になさらないで」 そうは言われても、気になるのだがな……。 心の中で、そう思う。 「あぁ、着て行くから、今まで着ていた服の方を包んでくれ」 「かしこまりました」 ぼうっとしているうちに、ハイネがさっさと清算を済ませてしまっていた。 確かに、彼は自ら『出資者』と名乗っていたけれど。 けれど彼に支払わせるのは何だか、申し訳ない。 カードを取り出そうとしたけれど、それはハイネの手で押し止められた。 「男に恥じかかせる気?イザーク」 「そんなつもりは、ないけれど……しかし!」 「いいから、いいから。お前がこう言うの嫌がるのは、ミゲルも言ってたし知っているけど。でも、いいだろ?たまには……一度くらい、兄貴らしいこともさせろ」 小声で、ハイネは囁いた。 ハイネの言葉に、一瞬虚を突かれたけれど。 俺は、頷いた。 「あぁん、何なのよ、急に!」 ショッピングモール内のレストランで、食事をすることにした。 それなりに格式ばったところをチョイスしたのは、ハイネとミーアが俺に気を遣っているから、だろうか。 もっとカジュアルな店もあったのだが、二人はそれでいいと言ったのだ。 まぁ、さすがにランチの時間帯だから、ディナーの時間帯に比べれば幾分、カジュアルな印象であるけれど。 そして食事を楽しんでいるさなか、ミーアの携帯が鳴った。 マナーを気にして携帯に出ないミーアだったが、さすがに彼女の場合は仕事もある。いくらオフとは言え、急に仕事が入ることもあるだろう。ハイネと二人で促すと、ミーアは奥にある電話コーナーに姿を消した。 そして戻ってきて、開口一番そう、言ったのだ。 「何かあったのか?」 「今から、レッスンですって……」 「大変だな……」 ハイネの言葉に、ミーアが答えて。 それに俺は、そう呟いた。 俺やハイネは、自分で軍人であることを選択したけれど。 でもミーアは、ラクス=クラインの代わりとして選択して。 多分、そこまでの覚悟は、なかったんだろうと思う。 けれど戦時下ともなれば、ラクス=クラインの存在が必要となるのは、確かで。 今のような時間をとることもきっと、難しくなる。彼女はもう、その覚悟は決めているみたいだけど。 「何時?」 「2時に迎えに来るらしいんだけど……」 「今は……1300か。デザートまで、食べれそうだな」 「そうね!デザート食べていこうっと!イザーク様は、何になさいます?」 ハイネの言葉にはしゃいだように、ミーアは声を上げた。 デザートメニュー片手に、嬉しそうだ。 何に、しようか……。 考え込む。 ハイネは、どうせ今回も紅茶なんだろう。 甘いものは好まないみたいだから、スコーンか。 「ん〜。どれも美味しそう!あたし、イチゴのミルフィーユにしようっと!イザーク様は?」 「ラテと、ティラミスにしようかな」 くるくる変わる表情が、可愛い。 初めは、思ったんだ。ラクス=クラインの真似をするなんて、と。 おかしいな。俺は、あの女なんて大嫌いだったのに。 それなのに俺は、本物と贋者と言う視点にとらわれて、ミーアのすることに……ミーアの役割に、軽い嫌悪を感じていた。 そんな視点、それ自体が愚かしさの表れだ。 そんな目で見ること、それこそが愚の骨頂ではないか。 本物ならば常に正しいことをいい、贋者ならば常に間違っているのか。 本物は、守るべき祖国を、捨てたのに。 彼女こそが、プラントの歌姫だ。 少なくとも、本物よりずっと、彼女はプラントを憂えている。 そして議長によって作られたとは言え、彼女はプラントのために立ち上がる覚悟がある。 ならばミーアこそが、プラントの歌姫となるのだろう。 そう予感して、俺は笑った。 「歌姫を見送ったら、俺たちも出ようか」 「どこに行く気だ?ハイネ」 「……墓参り。父上と母上と、それからミゲルたち」 デザート攻略中に、ハイネがポツリと呟いた。 父上……公式には、俺の伯父。 そして、伯母上。 ミゲルの墓参りも、久しぶりだ。 まだあの場所の空気には、馴染めない。 彼がいない冷たさだけを、思い知るから。 でも……。 「そうだな。……逢いたい」 ミゲルに逢いたい。 ラスティに逢いたい。 ニコルに、逢いたい。 もう、夢の中でしか逢瀬は叶わないけれど。 逢いたい……逢いに、行こう。 そう、思って。 ミーアを見送るとそのまま、ミゲルたちの墓が設えられた墓地に、エレカを走らせた――……。 夢を見たよ、君の夢を 君が、笑っている 何て哀しい夢 君を喪ってたくさんの夜を 迎えて たくさんの朝を、呪った もう一度、夢を見ていいですか? もう一度、誰かに愛されてもいいですか? 願いは、儚い夢に滲んで 淡く消えた――…… -------------------------------------------------------------------------------- 今回は、今までとちょっと、トーンの変わったお話になりました。 いえ、もともと『Elysium』のテーマは、幸せだったはずなんですけど。 思いもかけず、幸せとは程遠くなりましたが。 日常の中の微かな幸せ……日常ではないかもしれないけれど、大切な人がいる中で、幸せになれたらな、と思います。 そこ、この後のデスティニーを言わない。 此処までお読みいただきまして、有難うございました。 |