その時『世界』は 一切の彩を失った

俺は 知らなかった

何も知らず 無知でいられた



俺は 知らなかったのだ

『罪』の甘美さを

『恋』の残酷さを





全てを知った時

俺の『少年時代』は 終わりを告げた――……










〜原罪回帰〜









 幼い頃から、物事に対して『執着』したことはなかった。
 学校の成績は常に首席だったから、その地位に固執しているんだろうと言われることもあったが、それは違う。
 俺はただ、『負ける』ということに耐えられなかっただけだ。

 相手が、優秀で。『こいつになら敵わないな』という相手に負けることに関しては、別に何の感慨も抱かないけれど。自分以下だと思われる連中に負けるのだけは、我慢できなかった。
 卑小と言うべきか、それともその反対か。『自尊心』と呼ばれるものが、他人に負ける俺、を許容できなかった。

 だって、俺は俺が一番大切だから。
 そうして首席であり続ける俺が、俺は愛しいから。次席に甘んじるなど、そんな俺は愛せないと思うから。自己愛が強い俺は、その自己愛で持って首席であり続ける道を選択した。それだけの話だった。

 ごくごく幼い頃は、俺も人並みの感情で以って他者を思いやることもできたのだろう、と思う。
 でもそれは、遠い過去の話で。そういう自分を思い起こすことさえ、難しい。
 けれど、覚えていることが、あったから。
 忘れない。決して忘れられない『真実』。
 『嘘』ではなく『偽り』ではなく。『真実』こそが、何よりの毒になり、この身を苛むものとなることを思い知った、日のこと。

 『従妹』と。公的にそう記載されている存在を、その母親を。殺してしまいたいと願った日の、こと。この手で、この世からその存在を抹消してやりたいと思った日の、こと。
 覚えている。
 決して忘れることを許さない、それは記憶だから。


「Blood relationship
Father:『Yzak』 Jule……か」


 小さく、呟く。
 IDカードには、簡単なパーソナルデータが記されている。
 氏名に住所、生年月日。父母の名前に市民ナンバー、そして軍人のものには血液型、といった具合だ。
 深く突っ込んだデータについては、IDカードに組み込まれた小型チップに記載されている。
 それだけ精巧に、事実だけを記したこのカードにも、記載されていないことは当然、あった。
 公的には『従妹』の関係にある彼女――イザーク=ジュール――の父親については、そのデータはどこにも残っていない。そのデータを記録しているのは、彼女の母親であるエザリア=ジュールの脳――すなわち彼女自身の記憶だ。


「何て、残酷」


 人事のように、俺は呟く。
 彼女の父親ともなれば、公的には俺にとっても義理の叔父になるわけだから、人事ではあってももう少し真剣みを帯びて考えるべき問題なのかもしれないが――そんな感慨は、欠片たりとも抱かなかった。

 口ではいくらでも言葉は紡げる。ただ俺の紡ぐ言葉には、滅多に心が伴わないというだけの話だ。
 聡い従妹はきっと、それに気づいているだろう。


「何て、残酷。……何て、愚か」


 叔母である人を、公人としては尊敬しているけれど。私人としては尊敬なんてしていなかった。
 まぁ、俺が人を尊敬するなんてことは、滅多にないことだから。それだけでも俺の叔母である彼女が、なかなかの人為りであることは周囲の人間にしてみれば容易に知ることができると思うけれど。


「あれは、『ジュール』の方の血……かな」


 そういう意味で従妹も、叔母によく似ていると思う。
 姿形の酷似は勿論だが、あの二人は何よりもその精神が非常に似通っている――娘であるイザークの方がまだしも、いざと言う時に理性を先行させるが。
 周囲の人間はイザークを、『苛烈』だとか、『自尊心が高い』とか、『激情家』だとか、およそイザークの感情的になりやすい性格を例に挙げる。エザリア=ジュールの方が理性的だ、と。
 けれどそれは、誤りだ。
 政治の場で生きてきたエザリア叔母は、本音を隠すのが上手いだけで。『真実』を『常識』というオブラートに包むことに成功しただけの人で。
 対するイザークは、感情を率直に表現する以外の道を知らないだけだな、と。事情を知っている俺は、あの二人をそう推測している。
 イザークの方がまだしも、理性的だ。
 ただ、感情には走りやすいけれど。

 あの二人は、本当にそっくりだ。

 テロで最愛の人を亡くした叔母上は、ナチュラルへの徹底抗戦を打ち出したパトリック=ザラを熱烈に支持した。
 ヘリオポリスで恋人を喪ったイザークは、敵機の撃墜に執念を燃やした。
 あの母娘は、本当に。
 顔は勿論酷似しているけれど、その精神が非常に似通っていると、思う。


「まぁ、俺も人のことは言えないけどねぇ……。ねぇ、父上。これは貴方が俺に遺した、遺産なんでしょうか……」


 父のことを、俺は覚えていなかった。
 俺の父は、俺が1歳の時にテロで死亡している。
 いかにコーディネイターと雖も、10歳以前の何気ない記憶を、半永久的に保持し続けるなど不可能だ。
 まして1歳ともなると、記憶の殆どがあやふやだった。
 当然、父親の顔なんて覚えていないし、父親との思い出だって俺には存在していない。
 フォログラムで見た父は、双子だというのにエザリア=ジュールにあまり似ていなかった。――二卵性双生児ならば、それが当然かもしれないが。
 だから、エザリア=ジュールの私生児として生を享け、生まれながらに父親など存在しなかったイザークと俺は、そういう点で非常に似通っている、と言えなくもない。もっとも、軍に所属している連中や、ザラ議長失脚後に評議会の椅子についた連中の殆どが、イザークと俺が従兄妹同士だということを知らないのだが。


「まぁ、仕方ないな。俺とイザーク、似てないからね……」


 月光を思わせる銀糸の髪をした従妹に対し、俺の髪は赤みを帯びた金髪で。
 北の海を思わせる冴えた……メタリックな蒼氷の瞳の従妹に対して、俺の瞳は緑柱石の緑だった。
 似たところなど、殆どない。
 顔立ちはともに『怜悧』と評されることが多いが、パーツ自体にそれほど相似は見受けられない。
 つくづく、血縁関係というべきか、それとも遺伝子と言うべきか――の不思議を、思い知らされる。
 それともいっそ、『運命』と。そう呼んでみようか。この不思議な巡り会わせを。


「隊長」
「あぁ、報告か?カイト」
「はい。……ジュール隊長は、議長とともに“ボルテール”にて帰還の途につかれたそうです」
「最初の報告が、イザークのことかよ」


 小さな声で、俺は呟いた。
 他にもっと、重要な報告は山ほどある。
 地球への落下の軌道を辿っていたユニウス・セブンの動向だとか。最も重要な報告の一部だろうに。
 まぁ、俺の自身の本音を言えば、ユニウスが地球に落ちようがどうしようが、俺には関係ない、と答えるだろうが。


「隊長にとっては、最も重要な報告かと思いましたので」
「そーかそーか。……イザークは無事、と言うことだな。議長の席も、“ボルテール”に移った、と」
「とりあえず、プラントにとって最悪の事態は回避された、と考えてよろしいかと」
「プラントにとって……ね。それで?地球の方はどうなった。ユニウスの動向は?」


 本音を言えば、知ったこっちゃねぇ、と言いたいところだが。そうもいかない。
 俺に与えられた職責は、特務隊FAITH。
 一個部隊を率いている点ではイザークと変わらないが、独立権限を与えられている以上、その権限に見合った働きをせねばならない。
 自らを律することもできず、与えられた権限の力に溺れて酔い痴れるようでは、無能と変わらない。
 権力を与えられたなら、それに見合うだけの働きをしなくてはならない。
 本当に。俺はナチュラルなんて、どうでも良いんだけどね……。


「結論から申し上げれば、ユニウスは墜ちた」
「へぇ……ジュール隊が、よもや作戦を遂行できなかった、と?今現在のザフト軍内では、作戦成功率の高さで一、二を争う隊だろう?」


 イザークの気持ちを考えれば、彼女は今もナチュラルへの憎しみを完全に捨て切れてはいない、と思う。
 ただ、いつまでも憎しみに目を曇らせるタイプではない、と言うだけの話だ。
 そんな彼女ならば、ユニウスの落下先が地上であっても、作戦を遂行しようとするように思えるのだが。


「途中経過を報告します」
「あぁ、頼む」


 コンソールには、先ほどの戦闘の光学映像が提示された。
 漆黒の海を滑るように駆け巡るスカイブルーの機体が、真っ先に目に付く。
 ビームアックスを振り上げ、火花を撒き散らして戦うさまは、『華麗』の一言に尽きるだろう。
 残念ながら、他の機体には特に関心を抱かなかった。中にはかなりの技量を要する機体も混ざっているようだが、その殆どの動きが固い。
 よくもまぁ、パイロットとして卒業することができたもんだ、と。呆れることが殆どだった。
 件の“ニューミレニアム”シリーズに“セカンドステージ”シリーズにしても、際立っているのは機体性能のよさぐらいで、パイロットの腕は今現在、大したことはない。機体性能のよさに助けられていることが殆どで、正直頭を抱えたくなる。
 これからの成長に期待、と言うところだろうか。


「ん?」
「どうしました、隊長」
「カイト、この“ザクウォーリア”に乗っているパイロット、誰だか分かるか?」
「エルスマンかホークのいずれか、でしょう」
「違う。汎用タイプの“ザクウォーリア”だ。これのパイロットは?」
「汎用タイプ……?そのパイロットの報告はまだ、こちらには来ていないようですが……エルスマンでは?」
「ディアッカにこれほどの腕はない。……このパイロット、イザークに勝るとも劣らない。……ディアッカではありえない」


 断じると、カイトは小さく頷いた。
 できる限り調べてみる、と確約を寄越す。
 それに頷いて、再び目の前で展開する戦闘データに意識を戻した。

 敵機は……改造“ジン”に、奪われた“セカンドステージ”シリーズ――“カオス”、“ガイア”、“アビス”――だ。

 先の大戦からこっち、当時主力機に移行しつつあった“ゲイツ”も、こうしてみれば最早、時代遅れの感が否めなかった。
 “ゲイツ”にしたって、先の大戦の折からすれば格段に改良の手が加えられているというのに、だ。それは、今のプラントの技術力の高さを示すものであったのかもしれないが――こうしてプラントの威信をかけて製造された“セカンドステージ”シリーズを奪われてしまった今となっては、何とも心許ない気がして仕方がない。


「しかしこの“ジン”、なかなかやるな。改造してあるとはいえ……」
「はい。おそらく、先の大戦の頃のMS部隊の生き残りでしょう」
「現政権に――というより、クライン派の連中に納得できず、ザラ前議長を支持する一派、かな」


 誰に言うともなく、呟く。しかし口にした瞬間に、その言葉が酷く現実味を帯びているように感じられた。
 ラクス=クラインのお綺麗な――そして無責任な『お言葉』に『真実』を感じられないものは、ひょっとしたら先の大戦を生き残った者たちにこそ、多いのかもしれない。
 クライン派の連中は、ラクス=クライン擁護の姿勢だけは崩さずに。他の軍人全てを、処刑台に送ろうとしたのだから。

 そんなにも生き残った軍人を処刑したいのならば、まず最初に自分たちのほうこそ示すべきであっただろうに。祖国を裏切り、その機密を敵に齎した『裏切り者』の処刑を行うことで。


「ザラ前議長……ね」
「どうされました、隊長」
「別に。……俺はあの人は、嫌いじゃなかった、と思ってね。あの人はただ、コーディネイターをあまりにも愛しすぎただけなのに。それなのに……今の現状は、あまりにも哀れだな」


 あまりにも不当に貶められ、その真実の姿さえも歪められているような気が、する。
 それが、政権を追われた者の常とはいえ……同じように政権を追われ、命を落としたシーゲル=クラインと比べてしまうのだ。
 シーゲル=クラインは、命を奪われはしたものの、その名誉は一応は守られていた。――彼の名誉を不当に貶めるきっかけを作ったのは、あくまでも彼の娘の所業ゆえのことだ。
 彼女があの時、あえて監視カメラにその姿をさらし、ザラ議長を挑発するようなことさえしなければきっと――シーゲル=クラインの名誉は、彼の政敵にして盟友であったパトリック=ザラの手によって、守られたことだろう。
 しかしその全てを、あの女が無に帰した。その姿を監視カメラに晒し、挑発したことで、ザラ議長はそれをシーゲル=クラインの指示だと認識した。

 シーゲル=クラインに『裏切り者』の汚名を着せたのは、彼の娘の行動の是非によるものだ。
 軍事機密を強奪し、傍若無人に戦場を荒らしまくった『勘違いの平和の歌姫』。強奪した機密は一切返還せず、挙句自分はのうのうとオーブとか言う偽善の国に亡命して、男と同棲しているというのだから、まったく恐れ入る。


「非公式ですが、アーモリーには、アスハ代表もいらしていた、とか」
「へぇ……またぞろ、人的資源の返還でも要請してきたのか?懲りないやつだな」
「会談は終始議長ペースで、殆ど二の句も告げなかった、とか」
「当たり前だ。そもそも、政治家としての器が違う。……英雄だかなんだか知らないが、先の対戦終結後、お飾りに持ち上げられた『代表』と、比べられるわけがない。どうせまたぞろ、ただ還せの一点張りだったんだろう?移住してきた同胞たちの方が、オーブになんぞに帰りたくない、って言っているのにな」


 くっくっく、と肩で笑うと、醒めた目をした副官の視線とぶつかった。
 あぁ、そういえばこいつも、『移住者』になるのだろうか。
 もっともこいつの場合は、ヘリオポリスからの移住者、になるのだが。


「一応、かつての祖国だ。気になるのか?」
「別に……。もうあそこを、『祖国』だなんて思えない。今の俺には、プラントこそが、『祖国』になってしまいましたから。ただ……いまだにあの国で生活しているであろう同胞が、哀れなだけです」
「そうか」


 一般的に、コーディネイターの仲間意識は、非常に強い。
 ただでさえ迫害され、搾取され続けてきたコーディネイターにとって、『同胞』意識は切っても切れないものだった。そうやって、内に纏まろうとするのが、コーディネイターの常なのだ。
 内に纏まり、団結することで現状からの打破を目指すのは、コーディネイターならではといっても良い。割と個人プレーに走る傾向もあるのだが……良くも悪くも排他的なのが、コーディネイター社会なのだ。


「ジュール隊は、帰還の途についている、って?」
「はい。本部に、そう報告があったそうです」


 作戦成功率で、現在ザフトでも1、2を争うジュール隊を以ってしても、ユニウス・セブンの残骸は地上に降り注いだ。
 ユニウス・セブンの件に関して言えば、そのそもそもの原因は地球側にあるから何も言えないとはいえ……その犯人がプラントの人間というのは、厄介な話だった。
 よもや、この情報が流出するとも思えないが……用心に越したことはないだろう。

 そうだな。俺は、ナチュラルなんぞは別に、本音ではどうでも良いけど。
 でも、コーディネイターは……俺の同胞は、愛しい、と思っているよ。万物に平等に注ぐ、『無関心』の謗りを免れない種類の、愛情で以って。
 だからこそ、危惧を抱く。
 この事態が、プラントに不利に運ぶことに、危惧を抱かずにはいられない。


「アーモリーでは地球軍の襲撃。非公式に訪問してきたオーブの代表殿に、ユニウスの落下……急に身辺がキナ臭くなってきた、感じだな」
「えぇ」
「イザークの帰還、楽しみだ。ひょっとしたら何か、面白い話が聞けるかもしれない。……カイトも、オーブの情勢は気になるだろう?もうあの国はお前の国ではないけど……一応、かつての『祖国』だし?」
「まぁ、それは……」


 小さい声で、副官は呟いた。
 それは権利を主張するというよりも、義務ゆえに頷くと言った感じの、言葉。
 彼の中で、かつての祖国は『権利』ではなく『義務』を実感させる国に零落れたと言う、それはある種の変化だったのかも、知れない。
 それは、哀しいことだな、と思った。

 別にプラントのために!と暑苦しくわめく趣味など毛頭持ち合わせていないが……俺にとってやはり、この国にあることは『義務』というよりもある種の『権利』の執行のように思われるから。
 そう。俺は、『プラントで生きる権利を有している』と――……。


「世間では、『平和の歌姫と黄金《きん》の戦《いくさ》姫ある限り、この平和は潰えない』なんて、馬鹿みたいな流言蜚語が出回っているらしい。これからこの情勢がどう転ぶか、見物だな」
「あまりお言葉が過ぎると、目をつけられますよ。どこに盗聴器が仕込まれているか、分かりませんから」
「はん。……これで『平和の象徴』ね。全く以って、その面の皮の厚さには、恐れ入るよ。いくらでも目をつければ良いさ。……『黄金の姫』だが『平和の姫』だか知らないが、俺にとっては『純銀の姫』のほうがはるかに重要だし、得難いと思っているだけの話だ」
「……隊長らしいですよ、えぇ」


 呆れたように呟く副官に、笑みを一つ、送る。
 『純銀の姫』が誰を表しているか、なんて。まともな想像力を持つ人間ならばすぐに見当がつくだろう。
 俺の従妹にして、一部隊を率いる隊長。コーディネイターにあってさえ発現の難しい銀糸の……。


「ただ、ユニウス落下に関わったのが旧ザラ派、というのは厄介な話ですね。下手をすれば、かつてのザラ派に属していた議員たちに、疑惑の目が向けられることになる」
「そうだな。……議長に関して言えば、そんな愚かな真似はなさらないと思うが、問題はそれ以外の馬鹿ども、だな」


 人差し指を唇に当てて、軽く歯を立てる。
 『ザラ派に属していた議員たち』……当然、叔母上もそれに含まれるだろう。
 しかし、そこまで愚かな真似をするだろうか。
 まぁ、世界は今、再び混迷の時代に逆行しようとしている。愚かな流言蜚語を巻き散らかした連中にしてみれば、そのような時代の到来は迷惑以外の何者でもないだろう。

 『平和の歌姫』ラクス=クライン。
 『黄金の戦姫』カガリ=ユラ=アスハ。
 その二人を持ち上げ、神格化しようとも、世界がそれを拒んでいるのだから。にも拘らず二人に聖性を与えようとするならばそれは、罪亡き者を冤罪に陥れ、犠牲の羊《スケープゴート》とする以外ない。


「特務隊FAITHの権限で以って、かつての『ザラ派』と呼ばれた議員方の警護を命じる。ユニウス落下の犯人と、あの方々は全く面識はない筈。血迷った馬鹿どもから、守るよう。ヴェステンフルス隊、全員に通達しろ」
「はっ!」


 敬礼をし、命令を伝達するために副官が退室すると、俺はデスクに突っ伏した。
 疲れているわけでは、ない。
 ただ、そういう衝動に駆られた。

 ややもして身を起こし、髪をかきあげる。
 アラームで時刻を確認すると、帰還まで、あまり時間がないことは分かった。
 議長が戻られるまで、軍本部の殆どは国防委員長ならびに国防委員会の下、機能している。
 慌しく行き交う人の群れは、束の間の『平和』が終わったことを、確かに暗示していた――……。



**




 着艦した“ボルテール”と“ルソー”に、目立った損傷は特に見受けられなかった。
 だからといって、決して手を抜いたわけではなく。彼女は彼女なりに、彼女と相容れないナチュラルどもを守るために必死だったことは、想像するに難くない。葛藤しながらも、前を向き続けていたのだろう。
 らしいな、と思う。


「イザーク」


 艦から降りてくる純白の人影に、声をかけた。
 しかし、その瞳はこちらを見ない。
 怪訝に思って、床を蹴った。
 低重力下での動きには、慣れている。あっという間にイザークの元に辿りつき、壁に手をついた。


「イザーク、どうした?何か、あったのか?」


 イザーク自身に、外傷は見受けられなかった。
 かつては、戦闘の度に生傷が耐えなかったが、今はそんなことは殆どない。怜悧な美貌を痛々しく飾っていた額の傷も消しているし、さらに大きな外傷も、目に付く限り見受けられなかった。


「部下、が……」
「イザーク?」
「守れな……かっ……」


 その瞳に、涙はなかった。
 ただ、傷ついていることだけは、すぐに分かったから。


「ハル、も……」
「ハル?……“フリーダム”お得意のコックピット外し戦法で、兄貴を亡くしたって、あの隊員か?」


 俺の言葉に、イザークは頷いた。

 部下の身を、心の底から案じる。それは、技量以上に重要な、人の上に立つ者の資質であっただろう。感情に走ることも多いし、それによって傷を負うことも多いイザークではあるけれど。
 「ジュール隊の名誉のために!」と。シホ=ハーネンフースが口にするのは、それだけイザークが、彼女にとって何よりも大切な得難い上官である、ということだ。


「『隊長……!』って、言ってたのに。それなのに、俺は……」


 ともに作戦の遂行に当たった“ミネルバ”の隊員たちも、死傷者は結構な数になったという。ジュール隊は、それよりもいち早く、敵機と交戦したのだ。
 同程度の死傷者が、出たのだろう。
 そして、隊員たちの末期《まつご》の言葉が、『隊長……!』だった……。

 助けを求めてのものでは、なかっただろう。
 ただ、護符のようにその唇が、紡いだのだろう。
 自分たちの精神的支柱となっていた人の、名前を。


「また、守れなかっ……」
「イザーク」


 慰めてあげたい、と思う。ドロドロになるまで、慰めて、甘やかしてやりたくなる。
 抱きしめて、頭を撫でて。
 けれど、それではいけないことも、分かっていた。

 こういう事態が訪れるより先に、イザークを除隊させたかった。
 そうすれば、もう二度と戦場に出るようなことは、しなくてもよかった筈。
 しかしそれが叶わない以上、イザークはこれからも、戦場で生きるより他ない。

 心のどこか冷めた部分で、認識しているのだ。この『平和』は、終わる。また、混迷の時代が再びやってくる。
 先の大戦は、何一つ解決手段を講じる間もなく終結して、突き進むように講和が成立した。何一つ、先の見通しなど立っていないというのに成立した講和は、『何一つ変わっていない』という事象を生み出した。

 ナチュラルはまだ、コーディネイターを『宇宙《ソラ》の化け物』だと認識している。
 コーディネイターにとってナチュラルは、サルと変わらない。

 そうした認識の差を、埋めることができなかったのだ。
 そうである以上、戦争は再びナチュラル対コーディネイターの縮図に陥るだろう。
 理事国の優位を押し付けようとしてくるだろう。
 そうなれば、コーディネイターは再び、自らの尊厳をかけて戦わねばならなくなる。

 そのような情勢で、除隊など許される筈が、ない。
 まして、彼女の母親は元ザラ派だ。
 この情勢は、下手をすればどのように転がるか分からない。血迷った馬鹿どもを押さえつけるためにも、『母の罪を償い、プラントの為に戦う娘』のスタンスを崩すことは、できないだろう。
 格好のプロパガンダだ。

 だから、甘やかせないのだ。
 そうやって甘やかして、大事に大事にしてしまえば、俺はそれで良いかもしれない。でも、イザークは戦場に立てなくなってしまう。
 除隊できない以上、イザークはこれからも戦場に立ち続けなければならない。
 ……なんてそれは、矛盾。


「ハイネ……」
「ん?」
「『好き』は、分からない……」
「イザーク?」


 彼女の唇が紡ぐ言葉の真意が分からず、俺はイザークの顔をまじまじと見つめた。
 顔を伏せているから、イザークの表情は俺には、読めなかった。


「俺は、まだミゲルが『好き』だ」
「知ってるよ……」
「また、戦争になるんだろう?また……」
「そう、だな……」


 口先だけの言葉を連ねて、言い逃れをしようとは、思わなかった。
 普段の俺ならば、舌先三寸で相手を騙くらかしていただろう。その程度で簡単に騙されるようなやつは、その程度の対応さえすればいいのだ。
 けれどイザークは、そうじゃない。その程度で騙されて丸め込まれるような……生来の人のよさはある。しかしそれと同じだけ、彼女は聡い。
 真実以外を、彼女が受け入れるとは、思えなかった。


「戦争に、きっとなるだろう。……目に見えるようだと、思わないか?」
「……ユニウスの破砕作業に、失敗したから……?」
「それも理由の一つには、あげられるだろうがな。それだけじゃない、きっと」
「精神的な問題……か?」
「連中にとってコーディネイターは、いつだって『宇宙《ソラ》に住む化け物』さ」


 投げやりに言うと、イザークは微かに頷いた。
 心の中で抱く感情は、どうやっても矯正できないものだ。コーディネイターはやっぱり、何をやらせても自分たち以下のナチュラルを、どうしても見下してしまうものだから。
 ナチュラルだって、一緒だ。受精卵の段階で人為的に遺伝子を弄って生まれたものを、同じ『人間』だなんて、思えないだろう。
 どれだけお綺麗な理想論を紡ごうと、それが現実だ。
 その状況を一体、どうやって打破しろというのだろう。洗脳でも、するつもりなのか。


「戦争に、なるんだな……」
「なるよ……なると、思う。ならないように願っている、けれど。この状況では、どうなることか……」
「ハイネ、俺は……分からない。分からない、けれど……」
「うん?」
「お前がいなくなってしまったら、寂しいと、思う」


 イザーク=ジュールという人間は、俺と違って言葉を飾ることなど滅多になかった。ありのままの感情と、ありのままの言葉をぶつけてくる。それが、イザーク=ジュールという人間。
 そうであるからこそ、紡がれた言葉は真実なのだ、と。てらいもなく感じる。
 その言葉が、ストン、と。あるべき場所に落ち着くような、そんな安堵さえ、感じて。


「傍に、いて欲しい……」
「イザ……」
「お前が望む感情では、ないかもしれないけど。でも、傍にいて欲しい。ミゲルみたいに、いなくなってしまったら、耐えられない」


 心が、弱くなっている。理性が、俺にそう教えていた。
 仲間想いの彼女。部下を喪って、心が弱くなっている。
 それにつけ込むのは、卑怯者のすることだ。……そんなことは、分かっていた。
 でも、欲しいと思ったから。ずっとずっと、その渇望を胸に抱いていたから。
 思いがけずめぐってきたチャンスに、縋り付かずにはいられなかった。


「何言っているか、分かっているのか?」
「……勿論」


 滑稽なほど震えそうになる声を叱咤して、尋ねた。
 メタリックな色味の蒼氷の瞳が、まっすぐに俺を見上げてくる。

 そのまま小さく、イザークは頷いた――……。



**




「本当に、いいのか?」


 尋ねると、彼女はこくりと頷いた。
 ロックを開けて、官舎の……俺の部屋の扉を開く。


「ここまできたら、もう止められないけど……?」
「いいと言っているだろう、ハイネ」


 ぞんざいな感じの口調で、イザークは言った。
 ヴェステンフルスの……実家の方にはもう、殆ど帰っていない。
 それに、あの家ではイザークのほうがきっと、気詰まりするだろう。その管理が使用人の手に委ねられているとはいえ、未だ亡き女主人――要するに、俺の母親だ――の存在が、色濃く残っているから。

 殆ど帰ることのない官舎に、生活の匂いは皆無といっても良い。
 落ち着かな気に、イザークはきょろきょろと辺りを見回した。

 華美な装飾など皆無な部屋は、官舎というだけあって実用性と機能性に重点を置かれている。それでも、特務隊の身分を反映してか、一般兵の部屋などとは比べようもない広さが、許されているわけだけれど。

 リビングに通して、ソファーで寛ぐよう声をかけると、チョコン、とイザークは腰掛けた。
 どこか、借りてきた猫の雰囲気に、思わず笑みが零れる。
 とりあえず紅茶を淹れようとキッチンに向かうと、お情け程度にリビングに置かれているフォトフレームを、イザークは眺めていた。


「父と母だ」
「そうか」
「父の写真、お前の家には……目に付くところには、置いていないだろうな。見れば分かるだろうが、あまり、お前の母上とは、似ていないだろ」
「そうだな、似ていない」


 雰囲気も何もかも、俺の父と彼女の母親は似ていない。
 その身が纏う色彩は同じ。でも、それ以外の相似性を見出すのは、難しかった。


「お前、変なやつだ。別に俺じゃなくても、よかっただろうに」
「ジュールの血だな、きっと。……それに俺は、ある日を境に、他人に関心を抱けなくなった。だからこの結末は、俺にとってはごくごく当たり前のことだ。憎むだけ憎んだら、愛する以外に道はなくなる」
「……そうか」
「だから、気にしなくて良い。俺とお前の感情の差なんて、初めから理解している。今、出て行っても良いんだ、イザーク」
「……同情で身を委ねようとは、思わないな。そんなに安くないんだよ、俺は」


 ふっと、挑発的に、イザークが笑った。
 目にすることの少なくなった笑みは、だからこそ貴重で。
 そうであるからこそ、見つめることしかできなかった。阿呆のように、呆然と。


「さっきも言ったことだが、俺は『好き』なんてよく分からん。でも……こうして、また戦争になろうとしている時。部下を喪って、嘆くしかできなかった時、思った。このまま、お前を喪いたくないって、思った。だから……」
「いいよ。同情じゃないなら、俺と同じ『好き』じゃなくても」


 それ以上の言葉は、いらないと思った。
 細い腰を抱いて、口付ける。
 イザークの腕が、俺の首に回された。
 背筋を伝って全身を駆け巡る愉悦が、酷く頽廃的で背徳的な余韻を伴って、延髄を灼く。
 かき抱いた華奢な躯は甘やかで、胸がいっぱいになった。


「ハイネ……異母兄、上《あにうえ》……」


 その唇から零れ落ちた単語に、笑みを誘われて。
 うっとりと、俺は哂った。

 あぁ、やっぱり。お前は知っていたんだ……。
 知っているよ、俺も。勿論、知っていた。
 だから俺は、血の繋がらない人間を、愛せない。血の繋がった人間しか、愛せない。

 蒼氷のメタリックな瞳が、全ての『闇』を物語っていた。

 だから俺は、愛したんだ。
 イザークを。彼女が俺の……異母妹《いもうと》だから。



 ねっとりと、『闇』が滲んだ。
 深まる吐息に、『闇』だけが色濃く、あたりを満たしていく。
 華奢な指先に、誓いのように口付けを落とした。

 罪と知りつつも、焦がれずにはいられなかった。
 罪と知っていたからこそ、愛さずにはいられなかった。
 俺たちは、同じ『原罪《つみ》』を背負って、生まれたのだから――……。












その時『世界』は 一切の彩を喪った――……

『禁忌』と分かっているからこそ 触れずにはいられなかった

ねっとりとした甘い……甘美な腐臭を放つ

『罪』という名の 『禁断の果実』に――……



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 また同じパターンかよ、って言われそう……。
 恋愛の機微が全く描けていない気が、する……いつものことか。

 ところにより、今回は早いうちから種明かししてましたねーといわれました。要するに、そういうこと。
 そういう意味で、『原罪』って。キリスト教的に考えると、『生まれながらに持って生まれた罪』ってことになるのでしょうか。
 ミッション系の学校にいたくせに、この辺の考え方はいまひとつ実感を持って認識できなかったのですが。

 ハイネ様はどうしても自己愛の強い人だという認識を持っているため、『自己愛』故の『近親相姦』ということになってしまいました。
 自分が一番大切であるからこそ、『自分と血の繋がった人』しか愛せない、という……。そういう倒錯がハイネ様って似合うよねーで済ませていただくわけには……いきませんか、そうですか。
 頽廃とか背徳とか、ハイネ様って似合いますよねー(死んでこい)。

 ここまでお読みいただき、有難うございました。
 うん。今回、後書きはなかった方が良かったですねー。
 後日。裏をこっそりひっそり更新したいと思います(敬礼)。