その誕生を、望むものはいなかった。

唯一母親だけが、彼女の誕生を望み。

唯一母の友人夫婦が彼女の誕生を赦し。

誰よりも憎む権利のある母の義理の姉だけが、その誕生を祝福した。



廻り廻る時の中で、運命の歯車は流転し続ける。

安らかなひと時さえも、追憶に沈めて――……。










-Prologue/一度崩れ落ちたエデン-









「イザーク」


 母親に名を呼ばれ、イザークは顔を上げる。
 その顔を構成するパーツ、その一つ一つが、母親と酷似しており、逆に相違点を探すことの方が難しかった。
 唯一異なるとすればそれは、瞳の色であっただろうか。
 エザリアの瞳の色は、深海を思わせる深いブルーであり。イザークの瞳は、メタリックな色調を帯びたアイスブルーだ。
 この母娘に共通する震えがするほど冷たい美貌に、エザリアの瞳は一抹の温かみを添え、イザークの瞳は、更にその冷たさを引き立て。
 そこだけが、酷似した美貌を誇る母娘の中で唯一の相違点と言えた。


「イザーク」


 母が、彼女の名を呼ぶ。
 けれどきっと、呼びたいだけのような気がして、イザークはならない。
 『イザーク』それは、イザークの父親の名であるから。
 母が誰よりも愛し、誰よりも大切に想っていた、ただ一人の人。
 それが、『イザーク』という名であり。母はその名を、自分と自分の愛する人との間に出来た唯一の娘に名付けた。

 愛しそうに母は、イザークを見つめる。
 何処にも父親であり、母が愛した人の面影は、イザークにはないけれど。
 そのメタリックな色調を帯びた瞳に、確かにその証は眠っている。
 それは、同時に罪の証でもあるけれど。
 けれどイザークはまだ、自分がどんな生まれであるのか、それを知らなかった。
 けれど、自分の出生に複雑な事情があるのであろうことは、分かる。

 生まれた時から、イザークに父親はいなかった。
 唯一の肉親である母は、ありったけの愛情を注いでくれたけれど。


「私の父上は、どなたなのですか?」


 そう問うイザークの言葉には一度も。一度もエザリアは、満足のいく回答を返してはくれなかった。
 いつしかイザークは、理解するようになっていた。
 父親のこと。それは、禁忌なのだ、と。
 自分たち母娘にとって、聞いてはいけないものなのだ。問うてはいけないものなのだ。その存在からは、目を瞑らねばならないのだ。
 いつしかイザークはそう、学んでいた。


「母……上」


 息苦しさを感じて、イザークはそれを誤魔化すように最愛の母を呼んだ。
 美しい貌に慈愛の笑みを刷いて、エザリアが微笑みかける。
 美しい美しい、母。
 大切で、誰よりも敬愛している。
 けれど時折感じるのは、妙な息苦しさだった。

 テロが横行している。
 国防委員長パトリック=ザラがテロリストの襲撃を受け、その一人息子を、身分を隠して月に留学させた。その一人息子とやらは、今度は月でテロ行動が活発化したため、再びプラントに戻ってきたのだが、それが、いい例だ。
 テロが、横行している。
 プラントは武装せざるを得なくなり、自衛のための軍隊を設立。かつてプラント独立のために活動した地下組織、黄道同盟の名称をそのまま軍は譲り受け、『ZAFT』と称している。
 その昨今の情勢を鑑みれば、母が神経質になるのは確かに、頷けるのだけれど。
 それでも妙に思うくらい、母のイザークへの干渉は、行き過ぎていた。

 学校へ通ったことなど、ない。
 それはプラントの上流の子息の殆どは、横行するテロのために通信教育で教育は賄っているらしいから、おかしな話ではないけれど。
 ディアッカ以外の同じ年の子達と、イザークは話をしたこともなかった。
 広い広い邸宅で。広い広い部屋で。いつもいつも、ヒトリ。
 外出は、許されない。


「庭に……出てもよろしいでしょうか」
「えぇ、勿論、イザーク。構わないわ。お庭に出るなら、一向に構わないわ。でも、外に出ては駄目よ」
「……はい」


 母の、エザリアの念押しに、イザークは頷く。
 いつもの、こと。外に出ては、いけない。
 分かりきっていることだったし、母がそのことに関しては決して自分の意志を曲げないことも知っているから、イザークは頷いた。

 広い広い、ジュール家の邸宅。
 付随する庭も、当然広いのだけれど。
 外に出られないのならばそれも、大きな箱庭に過ぎない気が、する。
 それでも、母の命に背くことなど、思いも寄らなくて。考えてみたことも、なくて。
 分厚い書物を一冊、手にして。イザークは庭の四阿へと向かった――……。



**




 四阿に設えられた椅子に腰を下ろし、イザークは軽く身体を伸ばした。
 疲れるとは、言わない。息が詰まるとも、言わない。
 それが、彼女が生まれた時から慣れ親しんでいる、『世界』だったから。
 箱庭の中しか知らない彼女に、外へ出たい、と。空を飛びたいのだ、と。自分籠の鳥ではないのだから、と。そう希求する願望が目覚めることは、ない。
 時々息が詰まりそうになる……雁字搦めの愛情が苦しくなる、箱庭。
 それが、イザークの世界だった。

 広い広いジュール家の邸宅と、広い広いジュール家の庭。箱庭のように美しく、微温湯のような安寧に満たされた、それがイザークの『世界』だった。


「『世界』……」


 ポツリ、と呟く。
 不満は、ない。
 それでもまだ、友人はいるのだ。
 幼馴染とも、性別を超えた親友とも言える、友人が。だから、狭い狭い箱庭から、広い広い空を希求することは、なかった。

 持参した書物を広げることなく、イザークは四阿の椅子に腰掛けて空を眺めた。
 真っ青に何処までも広がる空は、作り物の贋物の空。
 本当の空を、見たことはない。
 けれどコーディネイターにとって本物の空は、この贋物の空だ。特にイザークのような二世代目にとっては、生まれた時からずっと傍にある空は、この贋物の空なのだから。彼女の感覚で言えば、こちらが本物になってしまう。
 あぁ、何だか分かり難い。
 贋物が『真実』で。本物が『偽り』で。何が真実で何が偽りだというのだろう。
 彼女の感覚では、贋物の空は間違いなく、『本物』なのに。

 小さく笑って、持参した書物に漸く視線を落とした。
 邸内よりもまだしも屋外の方が、気持ちがいいかもしれないと思って持ち出したけれど。この陽気では、眠ってしまいそうだ。
 そう、思って。小さく、笑った。
 その笑みが凍りついたのは、次の瞬間のことだった。

 こつり、と。後頭部に何か硬いものが押し当てられる。
 冷たく冷えた金属の質感が、するようで。
 けれどもっと冷たいのは、それを為しているであろうイザークの後部に立つ人間の、寒気がするほど冷たい殺気だった。


「ぁ……何を……?」
「その銀髪……お前が、エザリアの娘だな」


 それは、問いの形さえも形成していなかった。そう語る声は、むしろ自らの回答に確信を持っていた。……そうだろう。流れる清流の如きと謳われる銀糸は、ジュールの人間にしか発現していないのだから。
 そして、ジュール家の人間は、イザークとエザリア、二人のみだ。
 言葉を紡ぐ声は、涼やかに低く。落ち着いたハイヴァリトン。
 けれどその声に潜むのは、殺意と。隠しようもない、冷酷。


「殺す……のか?」
「お前が、エザリアの娘である以上」
「何……で」


 何をしたと、言うのだろう。
 誰にも迷惑なんて、かけていない筈だ。そうやって断じられるほどの罪を、犯してなどいない筈だ。
 イザークの『世界』は、狭い箱庭の中に存在している。
 その箱庭の中で一体、どれだけの罪を犯すというのか。

 普段の勝気さも気丈さも鳴りを潜めて、息が詰まる静謐にイザークは喘いだ。
 何で。何で。何で。
 一体自分が、何をしたと言うのだろう。
 どんな罪を犯したというのだろう。
 殺されるほどの憎悪を買った覚えなど、イザークにはなかった。


「何で?お前、知らないのか?」
「……何を?」
「例えばそう……お前に遺伝子の片割れを寄越した、父親のこととか」
「知らない……」


 父親のことなんて、知らない。
 聞いたことも、ない。
 母も、話してはくれなかったのに。
 それをどうして、自分を殺そうとする男が口にするのか、それさえも分からない。

 けれど、分からないと口にするイザークに、相手は勢いを殺がれたのか。後頭部に押し当てられていた銃口が離れるのを感じた。


「知らないなら、今は殺さない」


 諦観を滲ませて、男は言った。
 ほっとイザークが胸を撫で下ろしたのも束の間、口調に僅かの変調さえも来たさず、男は空恐ろしい言葉を口にした。


「俺が覚えたのと同じだけの絶望を、思い知らせてから殺してやる」
「……っ!?」


 分からない。何故、そこまでの憎悪を向けられるのか、分からない。
 振り返って、相手の顔を拝もうとしたけれど。
 逆光になって、その顔立ちは分からなかった。
 ただ、その纏う服は。


(ザフト兵……!?)


 真紅の、ザフトの軍服。
 長く裾を翻す独特のデザインと、鮮やかな真紅。それだけが、イザークの眼裏に残された。




 それはまだ、彼女が全てを知る前の、話。



**




 自棄になる後輩を後押ししたのは、多分、気紛れ。
 そしておそらく、同じように安心したんだ。
 同じ闇に堕ちてきたね。
 そう、安心したのだろう、と。ハイネは思う。

 堕ちてきたね。同じ闇に。二人とも、堕ちてきた。
 堕ちたね。堕ちてきたね。
 同じ闇を、ともに抱いて。堕ちてきた。
 それが、嬉しかった。
 自分と同じ血脈に連なる者が、同じ場所に堕ちてきたのが、嬉しかった。
 それなのに綺麗な『彼女』が憎らしくて。愛しかった。

 同じ血脈を繋ぐものが三人。
 箱庭の中で、自己愛にも似た愛で、互いを愛した。
 螺旋でかたどられた、塩基室の箱庭の中で、三人。同じ血脈を繋ぐもの同士、同じ遺伝子を受け継ぐもの同士、互いに紡いだ愛の言葉は、呪いじみていて。何処までも何処までも、自己愛に似ていたけれど。
 それは擬似恋愛にも似ていたけれど、それでも。大切だった。

 祝福したいと思ったよ。
 同じ血脈と遺伝子を共有する大切な二人の、拙い恋を。
 祝福したいと思い、祝福したよ。
 でも、いなくなった。
 ミゲルは、いなくなった。
 残されたのは一片の、『約束』だけ。
 だから、ハイネは誓う。


「戻ってこいって言ったのに、戻ってこなかった……救いようのない馬鹿だ」


 設えられた墓に、呟く。
 花は、飾ってあるけれど。
 多分、ミゲルが誰よりも愛した少女は、此処には来ていないのだろう。
 彼女の傷はそれだけ、深く。彼を失ったハイネが抱いた喪失もまた、大きかった。
 同じ箱庭に、いたのに。

 同じ呪われた箱庭に、三人一緒だったのに。
 一人、欠けてしまった。少女は、知らないけれど。

 その、救いようのない馬鹿に、彼は呟く。誓う。


「貰うからな、ミゲル。俺が、貰う。俺が、愛する……それが、約束だっただろ?」


 こんな未来が待ち受けているとは、思ってもみなかっただろうけど、遅い。もう遅い、ミゲル。少女は、貰う。
 だから、とりあえず。
 さしあたり。

 裁判の仕切り直しを求めて立て籠もる乱暴者のお姫様を、懐柔することにしよう。
 そう、ハイネは呟く。
 彼女の『楽園』は、崩れ落ちてしまったから。
 ミゲルがいて、当たり前のようにミゲルがいて。それでもって構成されていた彼女の『世界』は、崩れてしまったから。
 崩れ落ちた箱庭の中で、箱庭のエデンで、彼女は泣いているだろうけど。
 泣かなくて、いいよ。まだ君は、一人じゃない。まだ君は、孤独じゃない。
 まだ、俺がいるから。
 そう、ハイネは思う。

 同じ罪を背負って立つ、原罪の箱庭。原罪の楽園。
 狂ったエデンの、彼も住人。
 同じ闇を背負って立つ、罪びと。

 崩れ落ちた箱庭で。
 崩れ落ちたエデンで。
 喪失と崩壊を嘆く君を、抱きしめよう。






















 失楽園――パラダイス・ロスト。
 旧約聖書に曰く。

 蛇に唆されたエバは、アダムに禁断の果実を与え。
 神は蛇を呪い、ヒトを呪った。
 アダムには、労働の苦しみを。
 エバには、出産の苦しみを与え。
 ヒトは、『死』を与えられた。

 そして神は、楽園からヒトを追放した。
 ヒトは原罪を持って生まれ。
 生きるたびにその罪は蓄積されていく。
 そう、聖書は伝え。その宗教を信仰した思想家たちは、言葉を綴る。

 かつて、螺旋で織り上げられた塩基室の箱庭には……エデンには、三人がともに在った。
 一人が欠け、二人が残った。
 それでもまだ、孤独ではなかった。
 孤独ではなかったから、『彼女』は祈れた。願えた。

 最愛のヒトの命を代償に支払った、血塗れの『平和』を。腐臭の漂う『平和』をまだ、彼女は祈った。その永続を願った。

 螺旋で織り上げられた、塩基室の歪んだ箱庭。
 歪んだエデン。
 もう一人が欠けたとき、『彼女』は目覚める。
 その身に闇を纏い、復讐を誓う修羅として。
 『彼女』は、目覚めるのだろう。

 それでも今はまだ、おやすみ。
 歪んだ箱庭の中で、今は静かに。
 眠れ――……。



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 『Elysium』全ての始まりのお話、でした。
 エピローグを入れるために急遽序章を書く、とか。相変わらず計画性の無さが透けて見えてイヤンな感じです。
 が、仕方がない。
 もともと序章を書く気がなかった上に、途中経過が大分過ぎてから書き出した序章なので、序章の癖に序章くさくないですが。
今後書こうとしているものとか、そう言うのは詰め込んだ感じです。

 旧約聖書のアダムとイヴですが、ミッション系の高校に通っていた緋月は、アダムとエバで習いました。
 ので、そちらで統一しています。
 アダムとイヴの方が多分、通りはいいのでしょうが……。
 此処は一応、ミッション系の高校の方に合わせて。

 失楽園のエピソードは、割と好きです。
 そこからキリスト教の男根主義的思想が透けて見えるといわれますが、禁断の果実とか、そう言う小道具がすごく好き。
 パラダイス・ロストって言う言葉も、好きなんですけど。

 此処までお読み戴き、有難うございました。
 完結まであと少し、お付き合いいただけましたら幸いです。