これは、一体何の悪夢だろう。 逢いたくなど、なかった。 もう二度と、この目にするのも厭わしいと。 そう思っていたのに――……。 W 逃走 「久しぶりだね、イザーク」 「アス……ラン……」 「何?その幽霊でも出たような顔は。久しぶりに逢ったのに、喜んでもくれないの?」 くすくすと、笑いながら。 笑顔を崩さない男をこの時、本気で殺してやりたいと思った。 殺して、しまいたい。 逢いたくなど、なかった。 もう二度と……もう二度と逢いたくなかった。 アレは、夢なんだ。 だから、傷つく筈がない。 アレは、夢。 戦場で見てしまった、飛び切りの悪夢。 でも、夢だから。 忘れて……忘れて……忘れて……忘れよう……忘れさせて……。 アレは、夢なんだ。 あんなことは、起こらない。 起こっては、いけなかった。 イザークがイザークであるためには、アレは起こってはいけなかった。 だから、夢なんだ。 だから、忘れろ。 母上。 尊敬してやまない、敬愛してやまない母上。 俺は、何も悪いことなどしていません。 確かに、ナチュラルを殺しました。 俺の両手は、決して綺麗なモノじゃない。 血塗れのこの手でも、貴女のためなら。 貴女が望むなら、貴女の益になるのなら、結婚だってしてもいい。 だから、お願いします。 俺を……俺を軽蔑しないで。 蔑まないでください。 俺は、貴女の望まれるがままに、貴女の望むままに。 そうやって生きてきたから。 何の汚点も曇りも、ないから。 だから、軽蔑しないで。 俺を捨てないでください、母上。 父上亡き後、俺を育ててくれた母上。 貴女に蔑まれたら、貴女に疎まれたら、俺はもう生きていけない。 青褪め、イザークはガタガタと震える。 熱があるわけでも、寒いわけでもないのに、無様に躯は震えて。 翳ったわけでもないのに、世界が彩りを失う。 視線の先にある翡翠の瞳の彩りだけが、やけにリアル。 「どうしたの?イザーク。そんなに震えて」 手が、伸ばされる。 身を捩ろうと、して。 反射的に躊躇したのは、その瞳が逃れることを許さなかったからだ。 アスランの手が、イザークの細い頤を掴みあげて、上向かせる。 「酷いよねぇ、イザーク。俺はイザークに逢いたくて逢いたくて堪らなかったのに」 「ッッ……」 「イザークは、再会を喜んでもくれないんだねぇ。酷いなぁ」 残念そうに、残念そうに囁きながら。 さり気なく、毒を。 イザークの精神に腐臭を浴びせる、致死量の毒を。 「あんなに愛し合ったのにねぇ、イザーク」 「違ッッ……!」 「何が違うんだ?イザーク。俺に抱かれて、悦んでただろう?」 悦んでなど、いない。 厭わしくて、厭わしくて仕方がなかった。 ただ、躯が。 快楽を無理矢理教え込まれた躯が、イザークの精神を裏切った。 恋を覚えるより先に、アスランに出逢った。 初恋を知る前に、無理矢理蹂躙された。 胸を焦がす甘い衝動を知るよりも先に、快楽を教え込まれた。 ココロは、拒絶していた。 いつも、いつも厭わしくて、嫌で堪らなかった。 「違う!違う!違う違う違う違う違う!!」 「違わないだろう?イザーク」 手を、振り解いて。 外聞もなく喚き散らす。 そんなことは、ない。 そんなことは、あってはならない。 嫌わないで、母上。 愚かな娘、と。 恥をかかせた娘、と。 俺を嫌わないで。 蔑まないでください。 穢れてなど、いないから。 穢されてなど、いないから。 だから、どうか。母上……。 「これを見た何人が、イザークの言葉を信じるだろうね?」 薄く笑って、取り出された茶封筒。 中身は、知っている。 写真。 被写体は、イザークだ。 「取り戻そうとしても無駄だ、イザーク。ネガは俺が持っている。これを廃棄しても、いくらでも焼き増しできる」 「卑怯者……!」 「何とでも。イザークが強情なのがいけない。ほら、見てごらんよ」 ぐい、っと。 手を、引いて。 見せ付けるように、写真を。 薄紅に染まった、頬。 快楽に染まった、躯。 嬉しそうに、アスランを咥えこんで。 その欲望を、受け入れて。 浅ましい、己の姿が。 「何顔を背けてるんだ?ほら、ちゃんと見ろよ」 ぐいっと、顎を掴まれて。 無理矢理直視させられる、正視に耐えられない浅ましい己の姿に。 ただイザークは、首を、振って。 否定の叫びを上げることしか、出来なくて。 「違う。そんな筈、そんな筈ない!何かの間違いだ、違う!これは違う!!」 振りほどいて。 手を、振り解いて。 逃げよう。 逃げなくては。 あんなことは、起こらなかった。 あれは、何かの間違い。 戦場で見てしまった、とびきりの悪夢。 でしょう……? ……でしょう? ……そう、でしょう? 逃げて、逃げ出して。 間違いだから。 逃げて。 もう、あんな痛い思いは、嫌なんだ。 「今夜、君の部屋に行くよ、イザーク」 「なっ……!?」 「勿論、部屋の鍵は開けておいてくれるだろう?」 ひらひら、と。 写真が。 ひらひらと。 絶望が。 無言の、脅しが。 痛い……。 「もう何ヶ月と君に触れていない」 「……」 「確かめなきゃ。イザークに他の男の癖がついていないか、確かめておかないと」 「アス……っ!」 「君はねぇ、イザーク。一生、俺のものなんだよ」 髪を、掴む。 月光を紡いだ、銀糸の髪。 掴んで、その顔を仰のかせる。 美しい、薔薇の花にも似た思い人。 手に入れるためなら、何だってする。 脅してでも、ほしいと思った人だから。 絶望に打ちひしがれながら、イザークは頷く。 頷かざるを、得ない。 愛する母。 敬愛してやまない母。 もしも断れば、この男は母の元に注進に走るだろう。 「ジュール家の名誉のためにも、俺には口を拭っていてほしいだろう?イザーク。だったら、俺の言うとおりにしてもらわないと」 「……あぁ。約束、する」 「いいこだねぇ、イザーク」 小馬鹿にしたような口調で、呟いて。 ちゅっと、イザークの額に唇を寄せる。 目を瞑って、厭わしさに耐えて。 立ち去る彼を見送ると、絶望に打ちひしがれる。 逃げられない。 逃げることなど、出来ない。 捕らえられたまま、自由になることさえ許されない――……。 ずいぶんと長くお待たせいたしました、『Precious Rose』第4話をお届けします。 黒ザラを降臨させないよう、とにかく気を張った回でした。 結果は、まぁ、受け取り方しだいでしょう。 この程度はまだ、ザラのレベルかなと思いつつ。 黒ザラだけは、降臨させないよう頑張りたいと思います。 ここまでお読みいただき、有難うございました。 |