ヒラヒラと。 手に入れたいと切望した蝶は、他の男にその美しい翅を魅せる。 ワルイコ……だね。 そんなに俺を振り回して、愉しいの? -Y 絆- さし伸ばされた掌の中に己がそれを、重ねる。 その指先をしっかりと握り締める感触は、彼女がよく知るものだった。 だから、安心する。 彼は何があっても、裏切らないから。 『此処』は、安全なのだ。 理屈ではなく躯がそれを知っている。 「少しは顔色がよくなったな、イザーク。ディアッカのところにでも、戻るか?」 「あぁ……」 「どうした、イザーク。まだ少し、顔色が悪いな。あぁ……お前、人見知りするからな」 笑いを含んだ声で、彼が囁く。 やはり、お見通しなのだ。 けれど、さすがのハイネにも、真実の一端しか垣間見ることは叶わなかったらしい。 確かに、人見知りをしているのは、事実だ。 ひょっとしたら、寂しさも感じているのかもしれない。 ディアッカは、彼女の幼馴染みなのに。 その幼馴染みの、自分が知らない一面を知って、戸惑っているのだろう。 勿論、イザークの脳裏にあるのは、その一番大きな位置を占めるのは、アスランとの再会にあったのだが……。 「俺の姫は、本当に難しい奴だな」 「何だと!?」 「難しいよ、本当に……。何がそんなにお前を困惑させているんだ?」 「ハイネ……」 「気付かないとでも思ったか?エザリア様も、心配しておられた」 母の名を、ハイネは口にする。 けれどきっと、ハイネ自身も心配していたのだろう。 だからこそ、護衛に託つけてわざわざ追いかけて来たのではないだろうか。 確かに彼は、独自行動の認められる『特務隊Faith』だ。 しかし、だからこそ彼は公私の別をしっかりとしていたように思う。 一個人に対して、あまりにも大きな権限を与える役職にあるからこそ、彼は誰よりも自分を厳しく律していたように思う。 そんな彼が、任務に託つけて護衛の任に就くほど、彼にも心配をかけていたらしい。 「そうか……母上にもご心配を……。すまないな、ハイネ。迷惑をかけた」 「別に構わないさ。俺の大切な姫のためだったら、何時でも何処にでも馳せ参じるよ、俺は」 「有難う……」 「俺のせいでも、あるんだろう?俺は、お前を止められなかったからな……」 沈痛な面持ちのハイネに、イザークは息を呑んだ。 彼が気に病む必要など、何処にもないのだ。 「何で貴様が……貴様のせいなんかじゃない!!」 「だが……」 「違う!俺は俺の意思でこの道を選んだんだ!」 どうして、どうして。 『此処』は安全な場所だったのに。 どうして、ハイネはそんなことを言うのか。 どうして……!? 「そうだな。これは、お前の意思を無視することだった。俺が悪かったな」 「ハイネ……」 「でも、俺はやっぱりそう思ってしまうんだ」 ハイネの指先が、イザークに向けて伸ばされる。 楽器を嗜む、繊細な中に力強さを秘めた指先は、優しい。 「お前が幸せであるならば、俺は何も言わない。でも、そう見えないんだ。何時の間にお前は、そんなに悲しそうに笑うようになった?」 「ハイネ……」 「大事なんだよ、俺は。お前が、何よりも大切なんだ」 囁く声は、何処までも優しい。 甘やかな声に、確かな優しさに、心の何処かに穿たれた楔にも似たささくれが、解きほぐされていくのを感じた。 その瞬間だけ、確かに彼女は忘れられたのだ。 アスラン=ザラと言う、存在を……。 「この話は、今は終いにしておこうか、イザーク」 「ハイネ……」 「混乱させた……悪かったな、イザーク」 ハイネの言葉に、イザークはゆっくりと首を横に振った。 はっきりとした否定を、言葉だけではなく態度にまで表す。 そんなことは、ないのだ。 それが『偽り』と言う名の繭に包まれた束の間の安寧であったとしても、その温もりを求めずにはいられなかった。 結局、一番罪深いのは自分かもしれない、とイザークは思う。 「行こうか、イザーク。ディアッカの奴をからかってやんないとな」 「災難だな、ディアッカも」 「違いない」 イザークの言葉に、冗談めかしてハイネが言葉を重ねる。 その関係が、好きだ。 少し気安い、この距離がいい。 それだけでは、いけないのか。 「行こう、イザーク」 差し出された掌に、自分のそれを滑りこませる。 エスコートするように、ハイネの片腕がイザークの腰を抱いた。 それが、彼女たち二人の、『当たり前』なのだ。 それに、いい加減戻らなくては、ディアッカも心配する。 ハイネに手を引かれ、イザークはガーデンパーティーの様相を呈しているそこに、戻ったのだった――……。 「ゲッ!?ハイネ!」 「久しぶりだな、ディアッカ。……その『ゲッ!?』って言うのは、どういう意味だ?」 「何であんたが、こんなとこに……」 「俺の大事な姫を、一人でこんなとこに来させるわけがないだろ。姫の護衛だよ、ご・え・い」 「あんた、いくら何でも過保護過ぎ……」 ハイネの言葉に、ディアッカが呆れたように溜息を吐く。 今回のオーブ訪問は、全くのプライベートなのだ。 いくらイザークが評議会議員であっても、その地位を抜きにした訪問である。 まして、友好国への訪問だ。 特務隊が任務に就く必要など、どこにもない。 そうである以上、ハイネのオーブ訪問もまた、任務に託つけたプライベートなのだろう。 そう結論づけて、ディアッカは溜息を吐いたのだ。 「何考えているんだよ、あんたは」 「何を言っているんだ、ディアッカ。これは、任務なんだぞ。ジュール議員の護衛は、俺の任務だ。任務は遂行するのが当たり前だろ?」 「イザーク……?」 「俺は知らん。こいつが勝手に母上から言いつかって、俺を追いかけて来ただけだ」 「安心しろ、ディアッカ。ちゃんとお前の結婚式用のイザークのドレス、エザリア様から預かって来たから」 こいつってば、式にスーツで出席するつもりだったんだぜ? なんて。 笑いながらハイネが言う。 「あんた、まさかそのためにオーブまで来たんじゃ……」 「ディアッカ、すごいな。ご名答だ」 「あんた、馬鹿だろう!?」 「イザークのエスコートは、俺の役目だ。……な?俺の可愛いお姫様」 「……いっぺん病院行って来い、貴様」 嗚呼、漸く。と、イザークは思う。 漸く普段の自分に戻れた。 傍らに、信頼出来る人が、いる。 それが、何よりも心強い。 「相変わらずだ、ハイネ」 「お前だって、相変わらずイザークの下僕だろう?ディアッカ」 「あんたはどうなんだ、あんたは!?」 あっはっはぁ、と笑いながら。相変わらずハイネはディアッカをからかって遊ぶ。 イザークを呼んだ時点で予測可能な事象だっただろうが、これでは立つ瀬もないだろう。 「イザーク?」 「ア……アスラン」 横合いからかかった声に、躯が強張る。 アスランは、ニコニコと微笑んでいた。 しかし、ハイネと同色でもある翡翠の瞳は、笑ってなどいない。 暗い翳を落とし、冷たい光を宿している。 「紹介してくれないのか?イザーク……ディアッカ。俺は彼とは初対面なんだが……」 「アス……」 「誰だ?お前」 挑戦的とも取れるアスランの態度に、ハイネが面白がるように問う。 それでも瞳は、敵を値踏みするような冷酷さを宿していた。 「俺は、アスラン=ザラ。イザークの……『元同僚』かな。ねぇ?イザーク」 「お前が、アスラン=ザラか。……ハジメマシテ。ハイネ=ヴェステンフルスだ。イザークの……『婚約者候補』……かな」 「ハイネ!?」 「事実だろ、イザーク?」 ハイネの言葉に、イザークは慌てる。 その男に、冗談は通用しない……!! 案の定、アスランはその口許にうっすらと笑みを刻んだ。 冷酷な……冷たい笑みを。 「ヘェ……?」 バラしても、いいんだね? 彼の瞳は確かに、そう告げていた――……。 「何て言うか。ちょっと意外だったかな……」 「え?」 宿泊用にリザーブしたホテルで、床に就く支度を整えているイザークに、ハイネがそう言った。 式が終わった後もしばらく、ゆっくりして来いとカナーバにもエザリアにも言われた。ディアッカとイザークは親友同士だし、此処最近休みも取らず仕事をしていたイザークへ、二人からのささやかな贈り物らしい。長逗留になることもあって、取った部屋はスウィートルームだ。これなら、部屋にいて息が詰まることもないだろう。ついでに、スウィートを取っていたおかげでハイネの部屋まで確保できたわけだから、結果オーライ万々歳だ。 何だかんだで、ディアッカの自宅は息が詰まったし、これでよかったな、とイザークは思う。 あの中で、異分子はイザークだけだった。幾ら感じる必要はないと念じても、疎外感を覚えるのは致し方のない話だ。幾ら親友の結婚式とは言え、帰ろうかと本気で思ったりもした。 少々気疲れしたイザークに、ハイネが紅茶を淹れて。もともと気の置けない二人だから、ティータイムを楽しんだ。 「意外って……何が?」 「んー……アスラン=ザラのこと」 「……アスラン?」 ハイネの唇から飛び出した固有名詞に、心臓が跳ねたような気がした。 最もそれは気のせいで、まさか物理的に心臓が跳ねるわけはないけれど。 思わず声を上擦らせるイザークを、ハイネは鋭い眼光で見定める。 「ア……アスランが、どうかしたのか?」 「いや……俺が軍本部で聞いた噂とは、全く違うタイプの人間に見えたからさ」 「そうか……」 軍本部での、噂。 きっと、悪い噂ではないのだろう。 彼の父親であるパトリック=ザラは戦犯の汚名を着せられてしまったけれど、その息子であるアスラン=ザラは、戦争を終結に導いた英雄として名高い。 まして、現在の議会のトップは、クライン派の一人アイリーン=カナーバなのだ。ラクス=クラインの業績を誇示するためにも、アスラン=ザラに追及の手を伸ばすようなことは、しない。その父親をどれだけ貶めても。 「それに……」 「それに?」 「それに、イザーク。お前の反応も、不可解だ」 「ぇ……?」 ハイネの言葉に、イザークは目を白黒させた。 どうしてそんなことをハイネが言い出すのか、分からなかったから。 何故、そんなことを言い出すのだろう。 「イザーク、アスラン=ザラとお前、何かあったんじゃないのか?」 「何……を」 上擦りそうになる声を、必死に普段どおりに保つ。 ハイネは、鋭い。その上、自分にとって『大切』な部類に入る人間のことに関しては、非常に目敏いから。 気づかれてしまう……気づかれては、いけない。 「馬鹿なことを……ハイネ」 「そうかな」 「そうだよ」 馬鹿なこと、馬鹿なこと。何かある筈、ないのに。一体何が起こると言うのか。 第一、イザークの母はザラ派で、イザーク自身もザラ派であったのだ。その嫡子であるアスランと、何がしかのいざこざが起こる筈が、ない。 そう、イザークは眼差しで訴える。 何も、ない。何も起こっていない、と。 けれどそれをハイネが信じるとも、思っていなかった。 案の定、ハイネは『でも……』と、逆接の接続詞を口にする。 それに、声を荒げてしまった。 「何なんだ、さっきから!母上に頼まれたのか!?」 「イザーク?」 「放っといてくれればいいだろう!?俺は、何もなかったと、言っているじゃないか!!」 嗚呼、駄目だ。 これでは、何かありましたと言っているようなものではないか。 これでは、駄目だ。ハイネが、納得する筈がない。ハイネを納得させる、どれほどの効力も持ちはしない。 「イザーク!」 喚き散らすイザークを、ハイネがその懐に抱き込む。 優しい声が、囁く。その耳元で。 そのまま抑え込まれるのは、癪で。でもそれ以上に、どうしようもない激情を抱えて。イザークはギリギリとハイネの胸に爪を立てる。 軍服の、硬い布地ではない。 今回のハイネの、イザークの護衛は、あくまでも特務だ。まして、ザフトの人間が関わっているとは、知られないに越したことはない。一応、プラントとオーブは友好条約を結んでいるのだ。それなのに、議員の護衛にプラント防衛軍であるザフト兵を派遣したなどと、決して知られてはいけないこと。 何故ならそれは、オーブを友好国として認めていない、と。そう示す行為でもあるから。それだけが全てではないにしろ、それがまぁ、大人の事情……政治的事情、と言うものだ。 布越しとは言え、軍服の硬い布地とは違う柔らかい素材のシャツは、大した緩衝材にはならず。 爪を立てられた箇所はぴりぴりとした痛みを、ハイネに訴えた。 それでも、抱きこむ腕の力は、緩めない。 一体、何があったと言うのだろう。一体イザークに、何があったと言うのか。 知りたい、と思う。大切だから。知りたいと、思う。その心が抱える重荷を。 けれど、イザークが拒む以上、これ以上踏み込むこともまた、躊躇われた。 それは、他人の心に土足で踏み込む行為であるから。 大切で親しいからこそ、守るべき一線はまた、守らねばならない。その心が思うことを、誰にも規制することは出来ず。そして覚悟などと言う、金メッキを塗りたくった言葉で肯定して踏み込んでいいものでも、ないから。 これ以上は、踏み込めない。 守らねばならない一線を、少女は確かに引いている。彼の目前で、引いた。それ以上は踏み込むな、と。立ち入るな、と。そう言って、彼女は線を引いたのだ。 「分かった……分かったから!」 本当は、分からないけれど。何も、分からないけれど。理解したから。 これ以上踏み込んではいけないことを、理解したから。踏み込まないから。そのラインを、守るから。 だからどうか。どうかどうか、これ以上。これ以上……。 こ れ 以 上 、 傷 つ か な い で 欲 し か っ た 。 「唇を噛み締めるのは、やめろ」 「ハイネ」 「もう、何も聞かない。……お前が望むなら」 ハイネの言葉に、躊躇いもなくイザークは頷く。 これ以上、踏み込むな、と。ラインを超えるな、と。そんなことは許さない、と。 言葉にはせず態度で、彼女はそう訴える。 それに、頷くしか、出来ない。 「分かった。だが、イザーク」 「何だ?」 「何か、話したいことがあれば、いつでも言ってくれ。何でもいい、聞くから。ちゃんと、聞くから」 「……分かった」 話すことなんて、永遠にないだろう。 自分が抱えた屈託を、ハイネに明かすことは絶対にない。 彼との間にある絆が本物だと思えばこそ、明かせないと思う。失望されるのも、絶望されるのも、侮蔑されるのも、嫌だから。 傍にいて欲しいから、何も言えない。 結ばれた絆は、本物で。 だからこそ、尊いものだけれど。 それが全てを救えるなどと、そんな。 そんな傲慢なことを、ハイネは信じていなかった。 彼の手も、イザークの手も、小さい。 守れるものも、救えるものも、限られている。 そしてハイネは、自分にとって大切と思うもの以外、救おうとも思わないし、守ろうとも思わないから。 出来るわけはない、と。そう、決め付ける。それが、ハイネ=ヴェステンフルスだった。 大切だよ。 大切だよ。 大切だよ。 君を、大切に思っているよ。 君との間に結ばれている絆を、愛しく思っているよ。 だからこそ、これ以上は踏み込めない。 嗚呼、愛が全てを救えるとは一体、誰の言葉であっただろう。 傷ついているのに、救えない。 結ばれている絆が、彼女の唇を噤ませる。 彼女は、信じているのだろう。 口にした真実に、俺が蔑みを浮かべる、と。 だから、彼女は何も言わず。唇を噤み続ける。 大切な人を救えない絆は、呪いでしかないのだと言うことを、知った――……。 随分とお久しぶりです。 『Precious Rose』第6話をお届けいたします。 ブログでのっけていたものに、少々加筆修正いたしました。 私、本当にハイネ好きね、って思います。 確か、この連載を始めたときは、ハイネ=ヴェステンフルスなんてどこにも存在していなくて。だから彼が登場する余地なんて欠片たりともなかった筈なのに。 いつの間にか登場しています、ヴェステンフルス隊長。 ディアッカの位置づけを、ハイネが担うことになるようです。さすがに妻帯者を親友のことで引っ張り出すわけにも行かないので、それはそれでよかったのかも。 ハイネとアスランのプチS対決とか言うのも、面白いかもしれませんねー。あ、アスランじゃないか。ザラか。 修羅場書きたいのに、予定が延びまくっていますが。 次ぎあたり、修羅場の予定。ほら、誤解が生まれそうなシチュエーションが作れた!有難う、ハイネ様!素でエロい貴方が傍にいれば、ハツカネズミのアスランならずともきっと、誤解してくれます。 此処までお読みいただきまして、有難うございました。 最近、私の小説は後書きがないほうがいいような気がしてなりません……。 |