天と、地と。 天に住むは、神より恩寵篤き天使。 地に住むは、神の御心に背き堕天し者。悪魔を。 左には<輝ける者> 右には<堕ちし者> そうして神は、この世を創造した――……。 夢幻の弧光 〜T〜 人の世に序列があるのと同じように、天使にもまた、階級がある。 否、天使の方がよほど、厳しい階級社会の中にあったのかもしれない。 上から順に、まずは上級三隊 熾天使(セラフィム) 智天使(ケルビム) 座天使(トロウンズ) 次に、中級三隊 主天使(ドミニオンズ) 力天使(ヴァーチューズ) 能天使(パワーズ) 最後に、下級三天 権天使(プリンシパリティーズ) 大天使(アークエンジェルズ) 天使(エンジェルズ) と続く。 その中に、彼はいた。 神の恩寵篤き、天界において最も輝ける天使として。 彼は、いた……。 「イザーク!」 「何だ?アスラン」 「どういうことだ、これは!こんなこと、俺は聞いていないぞ!」 「当たり前だ。いっていないからな」 「イザーク!」 藍色の髪をした天使が、銀髪の主人に苦言を申し立てる。 恐ろしいほどに整ったその美貌を歪ませ、彼は言葉を紡ぐ。 「臣下に、いちいち許可を取らねばならないとでも?」 「それは……お前の決定は、天界全ての総意ととることは分かっている。しかし……」 「分かっているなら、下らんことをいちいち言うな」 「しかしこれではあまりにも……もう少し、慈悲を与えるべきではないのか?神の恩寵に背いたとはいえ……」 必死に言い募る藍色の天使に、彼はついっと視線を向けた。 ぎくり、とアスランが身を竦ませる。 それはそこに、彼の本気を感じ取ったからだった。 天界において最も輝けるもの。イザーク。 天使を束ねる天使長たる彼に対し、否やは許されない。 そして天界において最も美しい輝ける者は、情け容赦の欠片もないことで有名だった。 ただ美しいだけでは、天界を束ねることなど出来ようもない。 美しいだけの飾り人形、と。イザークを目にすれば誰もがそう思う。 けれどそれは、誤りだ。 確かに、些少のことはアスランが採決しているが、それでも最終的な決定の全ては、イザークによってなされているのだ。 彼は、美しいだけではなかった。 そしてその魂は何よりも、苛烈を極めた。 「神の恩寵に背きし者に、慈悲を与えろ、と?」 「それは……」 「神の恩寵は、絶対だ。自ら与えられたものを擲つような輩に、慈悲などかけようとは思わない。……悪魔などと馴れ合うつもりなど、毛頭ない!」 いって、イザークは不敵に笑う。 鮮やかなその、笑顔。 アスランは一瞬、その微笑に我を忘れた。 美しいその微笑はいつも、アスランの心を攫っていく。 何時から、だったろう? 己が仕えるべき筈のその人のそのささやかな感情の変化を好ましく思い、愛しく思いはじめたのは。 向けられる微笑に、胸を熱くするようになったのは。 何時から、だっただろう……? それはもはや、アスランにも判然としないものだった。 永遠とも言うべき悠久の時を、イザークの隣で過ごしてきた。 そして、これからも。 イザークの隣に在るべきは、常に自分である筈だった。 だから、耐えられた。 手を、伸ばして。 伸ばせばすぐ触れられるところにいる人に、手を伸ばして。そしてこの思いを遂げる。 そんな刹那的欲求を、だからこそ堪えることが出来た。 イザークは永遠に、アスランの傍にいる。 この世に生を受けたとき、そう宿命付けられた。 熾天使長、イザーク。 そして熾天使長の傍近くに使える側近である、アスラン。 運命は二人を、決して離れざる一対としてこの世に生を与えた。 それが……それだけが、アスランにとって慰めだった。 想い遂げようと強引に迫れば、無理矢理関係を結べたかもしれない。 熾天使長で在るイザークは、アスランより先に生を受けた。アスランより年上であり、アスランより背は高いが、アスランよりずっと華奢だった。 アスランが本気にさえなれば、イザークを組み伏せることくらい、わけのないことだった。 けれどもしもアスランがそのような行動に奔れば……そしてそこに何がしかの関係を結べば、誇り高いイザークは命を絶っただろう。 それは、神の恩寵に背くこと、と。 神は、姦淫を禁じている。 全てに対し平等で在るべき彼らにとって、姦淫は、そして謙譲以上の情愛は、禁止とされてきた。 決して犯してはならぬ、戒め。 愛情は、美徳とされる。 けれど過ぎた愛情は目を曇らせ、愛するものとそれ以外の者に対する接し方に平等性を失わせてしまう。 故に、愛情は……情愛は禁断とされてきた。 にもかかわらず、アスランは愛してしまったのだ。 自分の上に君臨する、美しすぎる天使を。 天界の至宝とも言うべき、その存在を。 深く、愛してしまった……。 「話はそれで終わりだな?」 「あ……ああ。出かけるのか?」 「ニコルと約束をしている。生まれてきたばかりの天使にこの世の理を教えるのも俺の役目だ」 「気をつけて行けよ?最近、悪魔たちの行動が活発に……」 「悪魔如きの手にかかるような俺かどうか、一度確かめてみるか?」 うっすらと笑むそれに、本気の色を見出してアスランは慌てた。 熾天使たちを束ねるイザークに喧嘩を売るなど、神に喧嘩を売るも同然だ。 それに……そう、それに心配するまでもないのだ。 イザークは、強い。 並みの悪魔では、イザークを害することはおろかその髪一筋に触れることさえ出来ない。 「じゃあ、出かけてくる。後のことは頼んだぞ?」 「あ……あぁ。気をつけて」 出かけるときは必ず身に纏う白の長靴。そして肌身離さずその身にある、神から贈られた黄金のロザリオ。 腰まである長い……月光を紡いだような銀髪をはためかせ、飛び立つ。 その背にあるは、白の三枚の羽根。 熾天使の証。そして力の象徴でもある三枚の羽根を撓らせ、飛び立つ。 目を細めて、アスランは光に溶けるようにして消えていくその影を見つめた。 愛しい愛しい、ただ一人の天使。 ほかのどの存在も、アスランにとっては取るに足らぬものだった。 アスランの心を捕らえて離さぬのは、後にも先にも、彼だけ。 天界の至宝ともいうべき熾天使長。 美しすぎるその存在。 彼だけ、だった……。 いかに天界と地界が戦争をしていようとも、安全地帯とも言うべき非武装地帯が存在していた。 そこでは、何があろうとも武器を手にしてはならない。 その暗黙の了解のうちに、悪魔と天使が共に在る場所。 それは、『オーブ』と呼ばれていた。 「すみません、イザーク様」 「何がだ?」 「連れ回してしまって……イザーク様は忙しいのに……」 「気にするな。それよりも、ニコル。俺はお前に、『イザーク』と呼べと言った筈だぞ?」 イザークの言葉に、ニコルは人好きのする笑顔を浮かべる。 生まれてきたばかりの天使というのも勿論だが、それ以上に。 ニコルは、守ってやりたいと思わずにはいられない、そんな天使だった。 「でも……」 「階級は同じ、熾天使だろう?別に構わん」 「では、イザークと呼ばせてもらいます」 ニコルが言うと、イザークは満足そうに笑みを浮かべる。 不思議な人だ、と。ニコルはイザークを見るたび思わずにはいられない。 奇蹟のように美しい姿に、苛烈な魂。 天使を統べるものとしてこの世に生を受けた、輝ける存在。 それなのにイザークは、時折淋しそうな顔をする。 ひょっとしたら、普段の振る舞いも、寂しさの裏返しなのかもしれないが。 どうしてイザークが淋しそうにするのか、ニコルには分からなかった。 天界一、輝ける存在。 この世で最も祝福されて生を受けた。 それなのに……。 それなのに彼はいつも、哀しそうにその表情を曇らせる。 淋しそうに……。 そのわけが知りたい、とニコルはそう思ってしまう。 生まれたばかりの彼に出来ることなど、碌にありはしないことくらい、分かっている。 それでも……。 「あの……ちょっとあそこに行っても良いですか?」 ニコルの問いに、イザークは顔をあげた。 ニコルには、この世の全てが珍しくてたまらないのだろう。 すでに永き時を生きているイザークには、その感覚はない。 微笑ましく思い、イザークは頷きかけた。 しかし、思いなおす。 アスランは出掛けになんと言っていた? ――――『ここ最近、悪魔の動きが活発に』―――― アスランは確かに、そう言った。 いまだたいした力もないニコルを、一人で出歩かせて構わないものか。 だが……だがここは、非武装地帯。 何人たりとも武器もつは赦されぬ場所。 問題、ないか……? 問うてくるヘイゼルの瞳を見つめながら、イザークはゆっくりと首を縦に振った――……。 「おい、オロール。アレを見てみろよ」 主人の指差した場所に目をやって、オロールは思わず瞠目した。 「あれは……」 「熾天使、だな。珍しいもん見たぜ……しかもあれ、生まれたばかりだぞ」 「ここは非武装地帯だぞ、ミゲル。面倒は……」 「バ〜カ。ちょっとからかって遊ぶだけだろ?しかもあの様子じゃ、お目付けも一緒だぜ?面白いことになりそうじゃないの」 楽しそうな主の声に、オロールは溜息を吐く。 面白いことが、大好き。 気持ちのいいことが大好き。 凡そ悪魔の持つそのような特質を兼ね備え、遺憾もなく発揮してくれる彼の主人は、言い出せばなかなか言うことを聞かない。 いい加減慣れたとはいえ、さしものオロールも渋い顔をする。 「分かった、分かった。誓うよ、オロール。ちょっとアレで遊ぶだけだ。苛め倒したりはしないさ」 「遊ぶのもやめていただきたいものだが……」 「あのな、オロール。……俺に逆らう気じゃ、ないだろうな?」 低く囁かれ、オロールは目を見開く。 陽気なだけが取り柄と思われがちな彼の主人は、ともすれば他の誰よりも残忍だ。 極上の響きを持つその声は、だからこそ余計に無慈悲にオロールの心に響いた。 「逆らう気など、俺には……」 「だよな?……いいじゃないか、どうせ今、天界と地界は戦争中だ。多少のことは、親父も目を瞑ってくれるよ。……寧ろ、宣戦布告の手間が省けて喜ぶんじゃねぇ?」 ククッと笑う。 太陽の煌きを宿す金髪も、金にも見える琥珀の瞳も、愉悦の色に染め上げて。 面白い玩具が見つかった、と。まさしく子供のように瞳を輝かせながら、残酷に。 「アレでは遊ぶだけだ。そうだな……目付けの天使は、苛め倒して遊ぶと楽しいかもな」 「……勘弁してくれ」 「大丈夫だ、オロール。……バレねぇように遊びゃあ、いいんだよ。協定破ったって、バレなけりゃいいんだから」 俺は遊んでくるから、お前はその辺で適当に時間潰してな、と言い残すと、ミゲルは軽く地面を蹴る。 一瞬のうちに、ミゲルは空の人となっていた。 しなやかな漆黒の皮膜の翼が現れて、それを力強くはためかせる。 主の気紛れに、オロールは渋い顔はそのままに、溜息を吐いた――……。 生まれたばかりの天使であるニコルには、この世の理など分からない。 この世には天使と悪魔の二つの種族が存在することを知識として知ってはいても、実感など湧かない。 だから、『彼』が現れた時、その気配に寒気を感じても、それが何故か、理由は分からなかった。 「いくら非武装地帯とはいえ……一人は危ないんじゃないかな?熾天使には特に……ね」 「あ……貴方は……」 「面倒かけなければ、殺しはしない。……ちょっと遊ばせて貰うだけだ。そう特に……お前のお目付けの天使とね」 バサリ、と漆黒の翼が翻る。 天使とは違う、しなやかな皮膜の羽根。 立ち込める気配は、まさしく悪魔のそれだった。 「さて。お前の目付け役は、何処だ?」 「あ……あ……」 「大丈夫。お前には何もしない。そう……少し、人質になってもらうだけだ」 「あ……」 「ニコル!」 呼んではならない、と。ニコルは本能的に察知した。 天使たちを統べる、熾天使長であるイザークは、他のどの天使よりも悪魔から憎悪を買っている。 そんなイザークを、この男の前に呼び出しては、ならない。 かかるプレッシャーに耐えながら、ニコルは唇を引き結ぶ。 しかし間の悪いことに、異変を察知したイザークが、来てしまった。 「へぇ……熾天使長様か」 「貴様、その子を離せ!ここは非武装地帯だぞ。そんなことをして、ただで済むと思っているのか!?」 まさか、熾天使長自らが目付け役を買って出ているとは思わなかったミゲルは、一瞬瞠目した。 それは寧ろ、その天使のあまりの美しさにこそ、その原因はあったのかもしれない。 神の恩寵を「美」に限定するなら、まさしくその天使は、神の恩寵を一身に受けた存在だった。 月光を紡いだかのごとく、艶やかに流れる、銀の髪。 灼熱の炎をそのまま密封したかのごとく煌く、アイスブルーの双眸。 玉の如き、白皙の美貌。 あまりにもその存在は、美しすぎた。 そう。穢してしまいたい、と。 そう思わずにはいられないほど……。 「そんな口利いて、いいのかな。……こっちには、人質がいるんだぜ?――……おっと、失礼。天使質か」 「貴様……!」 「この子殺されたくなかったら、こっちに来な」 「駄目です、イザーク様!!」 ミゲルの言葉に、ニコルは悲鳴をあげる。 自分のせいでイザークを危険に晒すなど、冗談ではない。 けれどニコルを人質に取られたイザークは、躊躇うことなく歩を進める。 イザークは、仲間思いなのだ。 ニコルだってそれは、分かっている。 けれどこんなときは、イザークのそんな性質に歯噛みしたくなるほどの焦燥を感じた。 「これでいいだろう。さぁ、ニコルを離せ!」 「そんなにこの子が大事?天使長様は」 「貴様に答える義理など、ない。さぁ!さっさとニコルを離せ!」 ニコルを抱えたままのミゲルに、イザークは命じる。 非は、何処までもミゲルにあった。 非武装地帯。戦うことなど、赦されていない場所。 そんな場所で、争いの芽になるようなことをすれば、それはすなわち非とされる。それが道理だった。 「熾天使長様は、バカ正直だな」 「何っ!?」 「ほら」 ニコルを返す素振りを、する。 イザークがニコルにその意識を向けた、まさにその瞬間。 イザークの鳩尾に、拳を叩き込んだ。 「ぐぅ……」 「イザーク様!」 殴られたそこを抑え込みながら、イザークの痩身がゆっくりとミゲルの方へ崩れ落ちる。 どうやら、気を失ったらしい。 「イザーク様!……貴方、イザーク様に何を!?」 「お前、うるさい」 パチン、とニコルの耳元で、指を鳴らす。 意識が剥がれ落ちるほどの強烈な眠気を、ニコルは知覚した。 相手が、何か術をかけたのだ。 抗うことすら出来ず、ニコルは深い闇の底にその意識を沈める。 睨み上げた視線の先で、男はくつりと笑みを浮かべた――……。 意識を失った天使を二人、その腕に抱える。 込み上げてくる哄笑を、ミゲルは必死に噛み殺そうとした。 運命は、彼に味方した。 神の最も愛したもう天使は今、この腕の中。 己が最も愛した存在を、悪魔に穢される。 高処で、それを指を咥えて見ているといい。 この手が、神の最も愛でたもう存在を、堕天させる。その様を……。 くくっと、ミゲルは、笑った。 「運命というものがもしも本当に存在するなら、感謝してやろうよ」 面白いものを、手に入れた。 それを与えた、『運命』という存在に。 心から感謝してやろう。 口元に笑みを湛えたまま、ミゲルは側近の名を呼んだ。 「オロール!」 「帰還するのか、ミゲル」 「勿論だ。遊びは終わった。……いや、これから、だな」 くつり、と笑って。 柔らかな緑色の髪を持つ小さな天使の体を、ぽんとオロールに投げてよこす。 それを受け取ったオロールが、さすがに非難の声を上げた。 「ばれないように遊ぶだけじゃなかったのか、ミゲル!?」 「ガタガタ煩ぇよ」 「ついでに。それは何だ!」 オロールの指先が、真っ直ぐとミゲルが荷物担ぎで抱えた天使と分かる存在に向かう。 遊ぶだけ。ばれないように、遊ぶだけ。 確かにミゲルは、そう言った。 けれどそれだけじゃ、面白くない。 面白い玩具を、見つけたのだ ならば飽きるまでそれで、遊びたい。 「これ?……見てわかんねぇのか?オロール」 「分かるから、聞いている!」 「小鳥だよ」 「鳥?バカか、お前は」 どう見ても、天使だ。 それも、かなりの高位に属する。 そんな存在を拉致するなど、条約違反もいいところだ。 「小鳥だよ。……三枚羽根の綺麗で可愛い……俺だけの、小鳥だ」 だから精々、可愛い声で啼いてもらわないとな。 くすくすと、笑う。 指どおりのよい、銀の髪。 掬い上げれば、囚われることを嫌ってか、するりとミゲルの手から逃れる。 まるで、持ち主の気性そのままだ。 「陛下になんと報告するつもりだ、お前は」 「ペット飼うのに、いちいち親父の許可はいらねぇよ。……これは俺だけの可愛い、愛玩物なんだからな」 頬に、触れる。 その仕種は、何処までも優しい。 けれどその瞳に宿る光が、その全てを裏切っていた。 愉悦に満ちた、暗い双眸。 残酷な愉しみに、興じて。 そっと、その額に口付ける。 刻印を残すように、そっと。 傷つけて、踏み躙るために。 「愛してやるよ」 ミゲルが、囁く。 神には到底不可能なやり方で、愛してやろう。 壊れるまで、愛してアゲル。 あぁ、違う。 くつり、と笑みが深まる。 壊すために、愛してアゲル――……。 ……ここまで走りますかい、緋月翠。 趣味に突っ走ってみました。 て言うか、今まで培ってきたミゲルイメージは、一体何処に?? ……書いてて楽しかったですけど。 ここまで読んでいただき、有難うございました。 |