最初は、それが何を意味するのか分からなかった。 けれどその意味を知ったとき。 本当に、幸せだと思った。 自分が女であることに、心の底から感謝したんだ――……。 X ――――『じゃあな、イザーク。俺、出撃だから』―――― ――――『生きて帰って来いよ、ミゲル。お前に、話したいことがあるんだ』―――― 話したいことが、あるんだ。 ミゲル。お前の……。 幸せで、幸せで。 嬉しくて、堪らなくて。 目の前の男は、どんな顔をするだろうか。 喜んで、くれるだろうか。 きっと、喜んでくれるだろう。 なんだかんだいって、世話好きで子供好きだから。 喜んでくれるに、違いない。 琥珀の瞳を驚きに見開くミゲルの姿を想像すると、それだけで笑えてしまって。 でも、それすらも愛しくて。 知らず知らずのうちに、彼はこんなにも自分の心を捕らえてしまったのだ、と。 そんな己に苦笑した。 けれど、彼は帰ってこなかった。 イザークの知らないところで、ストライクの手にかかって殉職。 遺体すら、残さずに。 ミゲル……ミゲル……ミゲル……。 俺、お前の子供を、妊娠したんだよ……? 起き上がると、頭を抑えた。 頭が、痛い。 そっと目に手をやると、微かに濡れている。 どうやら、泣いていたらしい。 ミゲルが、いなくなった。 その頃、芽生えたばかりの命。 彼に、伝えたくて。 けれど、伝えられなかった。 「バカミゲル。貴様のせいだ」 『アイマンの姓を名乗って欲しい』そう言っておきながら、名乗らせてくれなかった。 イザーク=ジュール=アイマンになる覚悟もしていたのに。 彼は帰らず、イザークはシングルマザーとしてその子供を育てている。 「貴様のせいだ。バカミゲル」 こんなにもイザークの心に、己を残したままいなくなって。 これでは、イザークは何時までも彼を忘れられない。 現に、彼の記憶は風化する素振りすら見せず、イザークの中で確たる位置を占めている。 「満足か?ミゲル。……感謝しろよ。お前を忘れないでいる俺に」 勢いをつけて、ベッドから身を起こす。 手早く身支度を整え、顔を洗う。 そしてキッチンに向かうと、朝食を作り始めた。 トーストと、オムレツ。 彩り豊かなサラダ。 そして、ミルク。 自分用に、コーヒーまで沸かして。 支度を整えると、息子を起こしにいく。 「ミゲル、朝だぞ。起きなさい」 「……ん」 「起きないと、朝ごはんがなくなるぞ」 「……まって、ははうえ。おきるから」 眠いのだろう。 己と同じ色彩のアイスブルーの瞳を擦りながら、ベッドから身を起こす。 ミゲルの幼少時代まで、容易に想起出来てしまう。 父親に似すぎた、息子。 ミゲルも、こうだったのだろうか。 イザークの知るミゲルは、もう今のミゲルだったから。彼の過去なんて知らない。 幼少時代のミゲルなんて、出逢ってもいない頃のことは分からないし、そういえば写真すら見せてもらったことはない。 でも、容易く想像出来てしまうのは、息子の存在ゆえだろう。 こんな子供、だったのかもしれない。この子の父親も。 「着替えておいで。朝ごはんにしよう」 「はぁ……い」 眠そうな息子の返事に、微笑ましさすら感じてしまって。 イザークは思わず微笑む。 イザークは、朝は食べない。 軍に所属していた頃はきちんと食べていたのだが、こうして民間人になった今、食べることはなくなった。 なかなか、空腹にならないのだ。 そうでなくても、あれこれ口煩かったミゲルが死んで以来、食事はただの習慣になってしまった。 栄養を摂取するために、惰性で取るもの。 そう変わってしまったのだ。 「酷いやつだよ、お前は」 こんなにも自分の心に跡を残したまま。 黙っていなくなってしまうなんて。 酷い……酷い男だ。 こんなにも、彼を愛している。 こんなにもこの心は、彼を希求しているのに。 なのに彼はもう、何処にもいない。 この世のどこを探しても……その存在すらも、もう何処にも……。 その温もりさえ、手が届かないところに逝ってしまった……。 「おはようございます、ははうえ」 「おはよう。さぁ、朝ごはんにしよう。冷める前に」 「いただきます」 育ち盛りだから、だろうか。 幼いミゲルは、朝からよく食べる。 「美味しいか?」 「うん。ははうえのつくるごはん、だいすき」 ニコニコと、笑う。 そんなふうに微笑んでもらう資格なんて、ないのに。 そんなもの、捨ててしまったのに。 己の腹を痛めることなく、この世に誕生してしまった、子供。 何て何て、それは重い罪だろう。 コクリ、と表情を消すためにマグを傾けて、中のものを啜る。 苦い苦い、コーヒーの味。 ブラックで淹れたコーヒーは、苦くて。 本当は、苦手だ。 けれどミゲルが……彼が好んで飲んでいた。 だから、だろうか。 彼が死んで以来、明らかにコーヒーの摂取量が増えた。 それも、ブラックで。 「酷いやつだ……」 「ははうえ?」 「なんでもない、ミゲル。ほら、ここにケチャップついてるぞ?」 頬についたケチャップを、拭う。 照れたようにはにかみながら、ミゲルはトーストにジャムを塗って、かぶりつく。 子供だから、だろうか。 息子のミゲルは、父親のミゲルと味覚の好みが異なる。 あちらのミゲルは、甘いものは苦手だった。 トーストにジャムなんて、あいつはしない。 それともこのミゲルも、大きくなったら煙草を吸って、コーヒーはブラック。酒を呑んで、女遊びの一つや二つ、するのだろうか。 あの男のように、成長するのだろうか。 父親の顔を知らなくとも、父親のように。 そうなってくれればいい、と。切に思う。 自分には、似ない方がいい。 似るなら、父親に似るといい。 その身に纏う色彩と同じ、真っ直ぐで太陽のようだった、ミゲルに。 彼に、似るといいのだ……。 「ミゲル。引越しをしようと思うんだ」 「おひっこし?なんで?」 「お前の父上の育った街に行きたくなった」 「ちちうえの?」 「そう。……だから、引っ越そう?」 一番の理由は、明かさなくてもよい。 そう。それに、今口にした言葉は決して嘘ではない。 ずっと考えていたことだ。 あいつの生まれ育った場所に行ってみたい、と。 せめてその空気だけでも感じてみたい、と。 行けば余計に辛いだけかもしれないが、それでも望んだ。 「うん、ひっこす。ははうえといっしょに、ちちうえのまちにいってみたい」 「じゃあ、支度をしよう。まぁ、そう大した物はないけどな」 ジュール家のご令嬢とは思えないほどの、質素な暮らしぶり。 彼女が望みさえすれば、どんな贅沢も望みのままだったというのに。 けれど彼女は、それを望まなかったから。 望んだものは、ただ一つ。 そしてそれは、永遠に叶うことのない……。 決まりだな、と言ったところで、ドアフォンが鳴った。 こんな朝から珍しいものもあることだ、と。何の注意も払わず扉を開ける。 「おはよう、イザーク」 「……アスラン!?どうしてここに……!」 そこに立っていたのは、アスラン=ザラ。 あまりの行動の早さに、イザークは歯噛みする。 こちらが手を打つ前に、先手を打たれてしまった。 唇を噛み締めるイザークに、アスランは微笑みかける。 穏やかな翡翠の瞳の中に強い意志の力を見て取って。 イザークはそっと、肩を落とした――……。 漸く見つけた、想い人。 その人の姿が、脳裏から離れない。 四年という歳月、姿を見かけない間に、彼の人は美しくなっていた。 元々人間離れした美しさを誇る女性だったが、それ以上に。 彼女は、美しくなっていた。 その、迂闊に触れれば傷を負いそうな、激しい気性のままに。 「キラ……!手伝ってくれ、キラ!」 「どうしたの?アスラン」 「お前の力が必要なんだ」 「僕の?」 小首を傾げる幼馴染の肩を、掴む。 望むものを手に入れるためならば、いくらでも頭を下げて構わない。 「見つかったんだ、イザークが!漸く、見つけた……漸く……」 「そう……見つかったんだ」 喜ぶアスランとは対照的に、キラは複雑な思いだった。 何故ならキラの双子の姉であるカガリは、アスランに恋しているから。 だからキラは、アスランの喜びに便乗することが、出来ない。 それは、双子の姉の失恋を意味するから。 「でも、どうしてイザークさん、姿を消してたわけ?お嬢様育ちで行方を眩ますなんて、よっぽどのことがあったんだね」 話題を変えようと、口にした言葉。 それに、アスランは目に見えて顔色を変えた。 苦しそうに、溜息を吐く。 「……こどもだ」 「え?」 「イザークは、母親になっていた。ミゲルの……死んだ恋人との間に、子供が生まれていた」 「え?ちょ……ちょっと待ってよ、アスラン。どういうことなのさ」 キラが思わず、声を上げる。 想い人が、見つかって。 でもその人は、既に子持ちで。 というか、それでは計算が合わない。 アスランから、彼の想い人が恋人をヘリオポリスで亡くしたことは、聞いていた。 その時点で子供がいたなら、アスランが気づかないはずがない。 そして何よりも。 アスランは、どうするつもりなのだろう。 自分ではない、他の男との間に儲けた、子供。 その子を、どうするつもりなのか……。 「どうするつもりなの?アスラン」 「決まっている。イザークを、迎えに行く」 「迎えて、どうするの?」 「父親になれるように、説得する。俺が、イザークと一緒にあの子を育てる。決めたんだ、もう」 「アスラン……」 翡翠の双眸にあるのは、明確な意思の輝きだった。 彼は、決めたのだ。 彼は、決断した。 そして決断した以上、彼は己の意思を容易には翻さないだろう。 ならば、カガリはどうなる? アスランに恋している、カガリは? 「アス……」 「どういうつもりだ、アスラン!」 「カガリ」 「お前、本気か?本気で……」 「あぁ、本気だ。彼女の子供を、彼女と一緒に育てる。その許しを貰いにいく」 「どうして!?」 駄々っ子のように、カガリはアスランにしがみつく。 アスランが、好きだった。 一緒にいたいと思った。そしてこの四年間ずっと……ずっと一緒にいた。 それなのに?それなのにアスランは、離れるというのか。 「どうして、他の男との間に子供を作った女のところに、行くんだよ!」 激情。 留まることを知らず、負の感情が吹き荒れる。 傍にいて欲しい。 愛して欲しい。 でも彼の心に自分は、いない。 それが、辛くて。 「愛しているから」 「え?」 「彼女を、愛しているから。俺には、彼女しかいないから」 「アスラン……」 唇を、噛み締める。 悔しい……悔しい……。 死んだとはいえ、愛する人との間に子供まで儲けておいて。 自分からアスランまで奪い取ろうとする、女。 悔しい。ねたましい。 幸せなくせに。 愛する人との間に子供までいて。アスラン以外何も持たないカガリからアスランまで奪い取ろうとする。 そんなこと、許せなくて。 「嫌だ……嫌だ、私は認めない!」 「分かってくれ、カガリ」 「嫌だ!私は絶対に、認めない!」 そう言って、カガリは喚き散らす。 けれどそれすらも、アスランを止める手段には、なりえない。 それが、酷く悔しい。 ばたん、と扉を閉めて、カガリは勢いよく部屋を出て行く。 あとに取り残された二人の間には、重苦しい空気が流れた。 「アス……」 「協力して欲しい、キラ。俺には、彼女が必要なんだ。彼女だけなんだ、俺が愛しているのは」 「僕……双子の姉さんまで傷つけちゃったよ、アスラン。僕がストライクに乗ったことで、イザークさんの恋人を殺して……その上、カガリまで傷つけた……」 「それは違う、キラ」 項垂れるキラに、アスランは首を振る。 そんなことは、理由ではないのだ。 確かにミゲルが死ななければ、イザークは彼と結婚しただろう。 アスランは、カガリと結婚したかもしれない。 けれどそれは、あくまでも仮定だ。 そしてアスランは、カガリと結婚することはあっても、イザークを忘れられない。 そちらの方が、カガリをより深く傷つけただろう。 だから、これでいいのだ。 少なくともこれで、アスランは己を偽ることはない。 「……分かった、手伝うよ。何をすればいいの?」 「有難う、キラ。感謝する。 住んでいる街は、分かったんだ。でも、住んでいる家が分からない」 「コンピューターにハッキングして、住所を割り出せばいいんだね?でも、偽名を使ってる可能性もあるよ?」 「いや、それはない」 彼女の性格上、それはない。 己を偽ることを、彼女は嫌っていた。 例え逃げるときでも、彼女は堂々としているだろう。 堂々と、顔を上げて。 偽名を使うなど、考えもつかないだろう。 彼女は、そう言う人だ。 何処までも潔く、誇り高い人。 そうして、アスランはイザークの場所を突き止めた。 そして今、焦がれた人は目の前に立っている。 至高の輝きを放つアイスブルーの瞳を、見開いて。 見開かれたアイスブルーの瞳に、絶望が過ぎった――……。 こんな展開、ありですか? て言うか、カガリこんな扱いですよ。すみません、カガリ好きな方。 嫌いなキャラって、どうも扱いがぞんざいですね、私。 さて、迎えに来たアスランに、イザークはどうするんでしょう。 て言うかこのイザーク、ミゲルのことしか想ってないですよ。 どうやってこれをアスイザに持ってくんですかね、緋月さん。 アスイザ派の方、本当にすみません。 これ、幸せなお話じゃないんです。 |