いつの間にか、空は黄昏を迎えていた。

気を、失ってしまっていたらしい。

ひんやりとした床の上で迎えた覚醒は、肌寒さだけが意識にあって。

それが余計に、イザークの嫌悪感を助長する。

夕方なんて、嫌いだ。

大嫌いな、時間。

あいつを思い出さずにはいられない、時間。

夕暮れ時なんて、来なければ良い。

あいつがいないのに、あいつを思い出さずにはいられない時間なんていっそ。

いっそ世界が、初めから闇夜だったら良かった――……。






〜]C〜






目が、覚めた。
頭が、痛い。
いつの間にか、床の上で寝てしまっていたらしい。

掌の上には、いまだどす黒い色彩。


「……片付けなくては……」


片付けてしまわねば。
汚いものは全部、片付けて。
綺麗にしないと。
綺麗にしないと、ミゲルが心配する。
ただでさえ出来損ないの母親なのに、これ以上息子に心配をかけてしまう失態だけは、何とか避けたい。


「夕方……あいつ、昼飯は……!?」


昼食を用意することすら、忘れていたことに気づく。
慌てて、イザークはキッチンに向かって駆け出した。

アスランも、もう帰っただろう。
一人で、寂しい思いをしているかもしれない。
ああ、何て失態だろう。


「ミゲっ……夕食っっ!」
「ははうえ、おはよう。もう、きぶんは だいじょうぶ?」
「あ……あぁ、大丈夫だ」
「いまねぇ、お兄ちゃんといっしょに、ご飯つくってたんだよ」
「え?」


ミゲルの言葉に、イザークは凍りつく。
帰ったのでは、ないのか。


「あ、イザーク、おはよう。気分はどうだ?」
「……あ、あぁ。別に大したことはない」
「そうか。それは良かった。
……あぁ、すまない。冷蔵庫、勝手に開けさせてもらった。煩くしちゃいけないと思って、外で遊んでいたんだ。そのまま昼はミゲルと一緒に外で食べたんだが、イザークの具合が良くなさそうだったし、ミゲルがお腹が空いたと言ったから、勝手に作らせて貰った。……勝手にすまない」
「い……いや……すまん」


対面式のキッチンのコンロ付近では、アスランがお玉を握って立っている。
どことなくその姿は様になっていて、彼が昨日今日自炊を始めたわけではないことを窺わせた。


「とりあえず、イザーク。具合が悪いなら無理をしちゃ駄目だ。椅子に座って」
「いや、しかし……」
「良いから。これは俺が勝手にしていることだから、イザークが気にする必要はない。座って」
「あのね、ははうえ。僕、にんじん刻んだんだよ」



イザークと同じ色彩のアイスブルーの眸をキラキラさせて、ミゲルが言う。
それに、イザークは笑顔で頷いた……頷かざるを得なかった。

こんなにも楽しそうな姿は、初めて見た。
それに、言いようの無い痛みを感じている自分が、どこか滑稽だった。

本当に、出来損ないの母親だ。


「ミゲル、お兄ちゃんとは何をして遊んだんだ?」
「えとね。キャッチボール!」
「そうか」
「お兄ちゃんとね、しょうぶしたんだ。でも、お兄ちゃん強くて、でも、さいごは勝ったよ!」
「そうか。楽しかったか?」
「うん!でも、ははうえがいなかったから、ちょっとつまらなかった」


笑顔で話す息子の顔が、その時だけ少し寂しそうになった。


「何で?」
「だって、ははうえ いなくちゃ つまらないよ。ずっとずっと ははうえは 僕といっしょにいたでしょう?だからね、ははうえが いることが、僕のあたりまえなんだよ」


一生懸命良い募る姿に、胸が熱くなった。
出来損ないの母親なのに。
それなのにこの子はちゃんと自分を、母親として愛してくれているのだ……。
それが、何よりも幸せなことに思われた。


「じゃあ今度は、母上といっしょにキャッチボールしようか」
「えぇ〜?ははうえ、できるの?」
「失礼だな、ミゲル。母を甘く見るつもりか?あのお兄ちゃんに負けないぐらいの腕はあるぞ」
「じゃあ、今度はははうえとしょうぶだね!」


笑顔のミゲルに、イザークも笑顔で頷く。
一生懸命一生懸命、この子を愛そう。
残された日々はもう、長くは無いのだから。


「そのうち、祖母様(おばあさま)のところにも行こうか、ミゲル。祖母様にお目にかかりに行こう」
「おばあ様?僕の?」
「あぁ、そうだ」


いざと言う時には、母に頼るより他あるまい。
だからこそ、子供を産むのは反対したのだ、と母は恐らく言うだろう。
そもそも父親の方のミゲルが挨拶に言った時だって、初めは頑として受け入れなかった人だ。
いきなりこの子が孫です、などといっても受け入れてくれるとは思えないし、恐らく家の敷居も跨がせてもらえないだろう。
それくらいの仕打ちは、十分以上にイザークも覚悟の上だ。

それでも、母以外に頼れる人を、イザークは知らない。


「おばあ様ってどんなひと?」
「そうだな。顔は、お前の母に似ているよ、ミゲル」
「ははうえに?」
「あぁ。昔は、一卵性親子とか不名誉なことを言われたな。母上は喜んでおられたが……こんなに大きな娘がいるのに、そっくりってことね。まだまだ私もいけるわね、とか言って……」


突然母の前からも失踪して、早4年の月日が流れようとしている。
その間、一度も母親に手紙は出さなかった。
頼り一つ寄越さぬ薄情な娘を、母はどう思っているだろう。
元気でいてくれているだろうか。



思い返せば、母には不義理ばかりしていた気がする。

母が勧める縁談を蹴って、どうしてもミゲルと一緒になるのだと言い張って。
そうこうしている内に子供を身籠って、堕ろせと言う母に猛反発した。
婚前に身籠っただけならまだしも、相手の男は殉職。
母がそう言うのも、恐らく世間一般の親としては無理なからぬ意見だったのだろう。
誰だって、自分の子供が不幸になる姿など、見たくないのだから。

けれど自分にとっては、その子だけが縁(よすが)だった。
堕ろすくらいなら死んだほうがマシだと言い張って、喉元にナイフを突きつけた。
イザークの本気を悟ったのだろう。母は結局根負けして、イザークの意志を受け入れてくれた。

親孝行の一つもろくにせずに、迷惑ばかりかけて……。


「イザーク、食事が出来たぞ」
「あ……あぁ、すまない。本当に、何から何まで迷惑をかけてしまって……」
「何を言うんだ、イザーク。気にするなんて、イザークらしくも無い」


そう言って、アスランが笑う。

スープ皿の上には、温かいポトフがよそわれていた。
人参にジャガイモ、玉葱のなどの野菜に、鶏肉。
上からみじん切りにしたパセリまでかけられていて、見るからに美味しそうだ。


「お前が料理が出来るなんてな。……意外だ」
「ははは。俺の方こそビックリしたよ。今朝の朝食、ミゲルが一口くれたんだけど、美味しかったから。イザークが料理が出来るなんて、思わなかったからな」
「それは……」


ミゲルといっしょに母の元へ挨拶に言った時。
反対していた母が結婚を前提とした交際を認めてくれたとき。
その時、練習しようと思ったのだ。

イザークが料理が出来なくても、ミゲルはそれこそプロ級に料理は上手い。
けれど、それはイザークが嫌だったから。
だから、練習して……。


「あっちのミゲルのために、練習した?」
「それは……」
「いいよ、そんな気を遣わなくても。イザークは怒りっぽいし短気なくせに、優しいから。今でも君に想いを寄せる俺を思いやってミゲルの名前を出さないようにしてくれたんだろ?でも……」
「……がう


言いながら、アスランがイザークの向かいに腰を下ろした。
いつもならミゲルの定位置であるそこを、どうやらミゲルが譲ったらしい。
ミゲルは、イザークの隣に腰掛けて、母が近くで嬉しいのだろうか。終始笑顔でご機嫌のようだ。

自己完結したアスランだったが、イザークが小刻みに震え続けるのを見て、顔を上げた。
その唇が小さな声で、何事か呟く。


「違う……違うんだ、アスラン……違う。私は、優しくなんか無い!」


キッチンに立つアスランに、想起されたのはミゲルの姿だった。
まだ彼が存命だった頃。
イザークはまだまだ料理音痴で。
休みの日に彼の家に遊びに行くと、食事を作ってくれるのはいつもミゲルだった。
黒に近いカーキ色のエプロンをして、鼻歌交じりに食事を作ってくれた。
キッチンに立つアスランに、思い起こされたのは彼の姿だった。
間違いなくイザークは、アスランにミゲルを重ねた。
自分を愛していると言ったアスランに、死んでしまった彼を重ねて……。

その時確かにイザークは思ったのだ。

どうして此処にいるのがミゲルじゃないのだろう、と。

それは何て、酷い言葉だろう。


「イザークがミゲルを想うのは、仕方が無いよ。だって、君たちは恋人同士だったんだから。そして子供まで授かったんだから。忘れられなくても無理は無いよ。それに俺は、君に忘れろ何て言わない」


静かな声で、アスランが語りかけてくる。
それに、イザークは目を見開いた。

秀麗な美貌は、憤りと自己嫌悪に歪んで、くしゃくしゃになって。
それでもアスランは、綺麗だと思った。


「ただ俺は、君の……君たちの傍にいたい」


息が止まるかと、思った。
真剣な色を讃えた翡翠の双眸が、イザークを真っ直ぐと見据える。


「その許しが、欲しい」
「アス……ラン……」
「忘れろ何ていわない。君の夫になりたいとか、小さなミゲルの父親になりたいとか、そんなことは望まない。――ただ、君たちの傍に置いて欲しい」
「どう……して」


どうして、そんなことを望むのだろう。
アスランには、オーブの姫がいる。
彼女と一緒になれば良い。
その方が、アスランは幸せになれる。
彼を愛する見込みなど望めない自分などではなく、彼女の元へ行けばいいのだ。
それなのに、何故。
何故、彼の瞳はこんなにも真剣にイザークを見つめるのだろう。


「どちらにしても、暫く此処に置いてくれないか?イザーク」
「何故?」
「小さなミゲルと約束してしまった。暫く一緒にいると。……父親の話が聞きたいと言われた」
「そう……か。私も、あまり話していないからな。父親のことは。寂しいんだろうか、この子は」


ミゲルのほうに視線を流すと、無邪気にニコリと微笑む。
その笑顔も、もう全面的には信じられない。

我慢して、我慢して、我慢して。
母親のためだけを思う、優しい子。
その笑顔に安心していた自分は、やはり母親として失格だと思う。
その裏にある寂しさを、見抜けなかった――……。


「少しの間だけで良い。ミゲルが気が済むまでで良い。俺を此処に置いて欲しい」
「アスラン……」
「それ以外の何も、俺は望まない」


翡翠の瞳が、真剣にイザークを見つめる。
抗えない何かを感じて、イザークは頷いた。
確かに、頷いたのだ。













心が、弱っているのかもしれない。
普段のイザークであれば、決して頷かなかっただろう。
彼女は、一度決めたことは何があろうと遣り通す潔さを持っている。

しかし彼女は、頷いたのだ。






その変化に、アスランは気づくことが出来なかった。
漸く彼が手にした『答え』が、あまりにも鮮明に彼の願望を映し出していたから――……。







『Misericorde』第14話をお届けいたします。
何とか20話を目処にお話の方も終わりそうですが。
入れたかったエピソードとか、かなり端折っています。
これは、後々番外編が登場することになるかもしれません……。

甘いミゲイザと、痛々しいアスイザをご希望の方は、教えて下さい。
ぜひとも書かせていただきます。

次回あたり、某C嬢にもご登場願おうかなぁと思います。
かなり嫌な女なので、C嬢がお好きな方は問答無用で回避行動をとって下さい。

それでは、ここまでお読み戴き、有難うございました。