この傷が、この刻印が。 己が犯した罪の証であることを。 一体誰に、言えるのだろうか――……。 〜]G〜 脱衣所の鍵を掛けると、服を脱いだ。 このマンションの部屋は、どれも脱衣所とトイレが別になっている。 脱衣所と洗濯場、そしてバスルームと繋がっているなっている点が気に入って、このマンションを借りることにした。 こうして人を泊めても、一応のプライバシーが保てる点は、非常に気に入っている。 もっとも、アスラン=ザラと言う男は何だかんだと言って律儀な人間なので、その点に関していうならば、イザークは彼を非常に信頼している。 いかに過去にただ一度の関係があろうとなかろうと、人の入浴を覗き見るような、そんな男ではないから、彼は。 だから、家に泊めることも許したのだ。 シャツを脱ぎ去ると、下着姿の躯が現れる。 その腹部に、手術痕。 いまだ生々しく遺されたそれを、イザークはそっと撫でた。 これが彼女の、罪の証だ。 摂理を捻じ曲げ、子供を引きずり出し、過酷な運命を背負わせる道を選んだ。 その、証だった。 「ごめん……な?ミゲル」 どちらのミゲルへの言葉なのか。どちらのミゲルへの懺悔なのか。それももう、彼女自身分からない。 どちらのミゲルへも、すまないことをした。 どちらのミゲルへも、赦されないことをした。 それだけは、彼女自身分かっている。 だから余計に、どちらのミゲルへかも分からぬ懺悔を、呟いてしまうのだ。 そして、アスラン。 彼にも、本当に申し訳ないことをした――している。 脱衣所を出ると、バスルームの扉を開く。 シャワーコックを捻って、頭からシャワーを浴びた。 温かいシャワーが肌に当たって、温まる。 けれど心は……心臓は、ぞっとするくらい冷たかった。 戦慄を覚えるほど冷たくて、その冷たさに慄《おのの》く。 その冷たさも、この罪故か。 アスランを傷つけてなおも、同じ轍《てつ》を踏み続ける、この罪故か。 覚える呵責さえも、独り善がりなことだと分かっている。 そうやって呵責を覚えることで、自分を赦そうとしているのだ。 こんなにも自分は、彼を傷つけることに痛みを覚えているのだから、と――……。 「汚いな、俺は……」 呟く声が、バスルームに反響する。 空しく響く自分の声は、ただただ虚ろで。 余計に、寂しくなっただけだった――……。 ひと月が過ぎた。 アスランは未だ、イザークたちと行動を共にしている。 小さなミゲルは、アスランに懐いて。イザークも時折、アスランに対し柔らかな微笑を浮かべるようになった。 呆けたように固まると、イザークはさもおかしいと言わんばかりに笑う。 あの戦争のときは考えられなかったような、そんな笑顔だった。 「そんなに笑わなくてもいいじゃないか」 不機嫌に言うが、イザークはなおも笑ったまま目頭を押さえている。 馬鹿笑いさえも絵になるのだから、いっそその美貌は反則的だ、とアスランは思った。 ただそのようにコーディネイトしただけだと言えば、それはそれでお仕舞いなのだが、それでもイザークは美しすぎた。 「そんな馬鹿面で固まられたら、誰だって笑うぞ」 「馬鹿面って、そんな言い方はないだろ!?」 「今の表情を馬鹿面と言わないなら、他にどんな言い方があるのか教えていただきたいほどだな」 「イザークだって、馬鹿笑いをしているじゃないか」 子供のように言い返せば、ミゲルもミゲルで嬉しそうに笑っている。 アスランは決して、父親ではない。 それは分かっていても、ミゲルはただ、純粋に嬉しかったのかもしれない。 休日、当たり前のように両親と過ごす子供。 ショッピングモールを父親に肩車してもらっている子供や、公園で父親とキャッチボールをする子供。 そんな、ごくごく当たり前の普通を知らなかった彼は、自分が手にしたそれに無邪気に喜んでいるようだった。 それに何よりも母親の、笑顔が多い。 ミゲルと一緒のときも笑顔でいた母親だったが、『お兄ちゃん』と一緒の時は、ミゲルと一緒の時にはついぞ拝めなかった類の笑顔を浮かべている。 意地悪そうな笑顔や、お兄ちゃん曰く『馬鹿笑い』まで。 生き生きとした様子の母の笑顔が、ミゲルはただ嬉しかった。 「ミゲル、じゃあ、練習に行こう」 「うん」 「練習?そう言えば、何の練習をしているんだ?」 イザークの言葉に、アスランはごく普通に聞き返した。 しかしその言葉に、イザークは聞いて欲しくなかったとでも言いたげな……そんな表情を返す。 思わずきょとんとするアスランに、ミゲルが無邪気に答えた。 「しゃげき の れんしゅう だよ」 「射撃!?イザーク!」 アスランの強い言葉に、イザークがつい、っと視線を逸らす。 平和なこの時に、何も我が子に人殺しを教えるなどと。アスランの瞳は、確かにそう非難しているように感じた。 ザフトは、ほぼ解体している。 最低限の軍備以外保持せぬことが、平和条約を締結する際定められたのだ。 それでも、治安維持のために軍は存在しているし、戦時中に比べればアカデミー入学者は減ったとはいえ、未だ存在している。 もともとは市民軍的要素の強かったザフトは、今、職業軍人化しつつあった。 それでも、このような幼い時から射撃を教える親など、いない。 「こんな幼い子供に、人殺しを教えるのか?」 「違う!人殺しを教えるんじゃない。……いや、そうなってしまうかもしれないが……ただ私は、身を守る術を教えたいだけなんだ!」 身を守る術を、教えたい。 もしもその生まれを囃し立てられた時、もしもその生まれ故迫害を受けても、相手を叩き伏せるだけの、力を。 それにもしも圧倒的な力さえあれば、この子はそんな嫌な目に遭わなくてすむだろう。 そのためには、力が必要なのだ。 「教えられるのか?本当に。俺たちだって、分からないじゃないか。守る力と壊す力の違いなんて、誰だって分からないというのに!?」 「それでも、それでもこの子には必要だ!」 「それをミゲルが望むのか?」 アスランの言葉に、イザークが瞳を見開く。 ミゲルが望むか。 答えは、否だ。 おそらくミゲルは、望まない。 親友が死ななければ、あの男はザフトに……軍人になることなどなかっただろう。 友人が死んだから、無力なのが悔しかったから、彼は軍人になった。 それさえなかったら、彼は案外今も歌手のままだったのかもしれない。 否、彼のことだから、血のバレンタインの悲劇の後、結局は軍人になったかもしれないが。 彼は、赦さないだろう。 おそらく今もし生きていたとしても、彼はこの子に銃を持たせることを肯《がえ》んじなかったに違いない。 分かっている。 そんなことは、イザークが一番良く分かっている。 それでも、その時と今とではきっと、状況が違う。 もしもミゲルが生きていたら、イザークは一度戦列を離れて小さなミゲルを産んでいただろう。 おそらくそのまま、終戦を迎えたかもしれない。 普通に小さなミゲルを出産して、普通にミゲルと結婚して家庭を築いて。 そんな未来であったなら、この子に人殺しなんて教えない。 けれど、違うのだ。 イザークはもう、長くは生きられない。 ならばこの子に、自らを守る方法ぐらいは教えておいてやりたかった。 圧倒的な力を。 悪意も何もかも、捻じ伏せることの出来る力を。 それさえあれば、何者もいたずらにこの子を傷つけることはない。 「あいつが望まないことは、分かっている。それでも、この子にはそれが必要だ。自らの力で自らを守ることが、必要なんだ。どんな悪意にも負けないためには、力が必要なんだ」 「イザーク……」 「この子を、守りたいだけなんだ。だから、教える」 強すぎる力は、何者も生み出さない。 それは、喪ったことのない者の、喪うことのない者の理屈だ、ラクス=クライン。 強すぎる力を与えてなおも、親は子の幸せを望む。 この子の未来に幸あれ、と願う。 争いとは、戦争だけではない。むしろ日常にあるだろう悪意こそが、戦争よりも惨い争いなのだ。 それを、貴女はご存知か。 常に日のあたる場所にいる貴女は、それをご存知か。 だから、差別はなくならない。 だから、格差は埋まらない。 それを貴女はご存知か、ラクス=クライン。瑕《きず》のない、お綺麗な歌姫。 「必要以上のことを教えないと、約束できる?」 「……あぁ。アカデミー在学以上のレベルのことは、教えない。基礎中の基礎までしか、教えるつもりはない。私はこの子を、殺人者にしたいわけじゃない」 「……分かった」 溜息を吐いて、アスランが答えた。 「俺は見守ることにする。その子の親は君だ、イザーク。それが君の教育方針ならば、俺はそれに従う」 「……そうか」 「だが、その責任は取れよ?イザーク」 「分かっている」 もしもこの子が犯罪を犯したとき。 強すぎる力が害にしかならなかったとき。 その力が、息子自身を灼いたとき。 その時は、責任を取れ、と。 アスランは言った。 その厳しさが、らしくなくてイザークは笑う。 共に時を過ごして、アスランはかなりミゲルに情が湧いたらしい。 その言動など、まるで父親のものではないか。 父親になりたいわけじゃないと言っていたのに。 それが、少しおかしい。 そう言えば、自分たちは周りの人間の目からどう映っているのだろう。 ふと、そんなことを考えた。 親子と言う割には、ミゲルはアスランには似ていない。 イザーク自身にすらそこまで似ず、顔のパーツなどはミゲル似の息子。 その歪《いびつ》さに、笑えた。 「俺は真剣な話をしているんだぞ、イザーク」 「勿論だ、アスラン。真剣に聞いている」 「どこがだ、どこが!」 「私はこの上なく真剣だ、アスラン=ザラ」 けらけらと笑いながら、イザークが答える。 あの戦争の最中、アスランが拝むことの出来なかった……手にすることの出来なかったもの。 それを、今では惜しげもなくイザークは与えるようになっていた。 それは確かに、嬉しかったのだ、アスランも。 目頭を押さえながら、イザークが顔を上げた。 くすくすと笑うその様は、まさしく絵画のように麗しい。 しかし顔を上げたとき、イザークの顔から笑いは消えていた。 アスランを見る目は、真剣な色を湛えていて。 その瞳に、アスランは言葉を失う。 「責任は取るさ、必ず。この子は、私の子供だ」 「じゃあ俺も、護身用ハロでもカスタマイズするよ。レーザー砲とか、どう?」 「貴様、言っていることとやっていることが違うぞ」 散々イザークを諌めた男が紡いだ単語に、イザークは溜息をつく。 レーザー砲などと。それこそまさしく『超《す》ぎた力』ではないか。 呆れてモノも言えないとばかりに溜息を吐くイザークに、アスランは声を潜めた。 「オーブは、間違いなく動いている、イザーク」 「分かっている」 「君がミゲルに射撃なんかを教えようと思ったのも、それが原因だろ?」 「……そうだな」 確かにそう、言えるかも知れない。 オーブが動いている。 彼らは、手段を選ばないだろう。 あの国にとって重要なのは、最高権力者――つまり元首――の意思だ。 元首が望めば、いかなる障害が存在しても彼らは目的を遂行しようとする。 それが彼らの『役割』だからだ。 まったく、器量のない人間に下手に権力を持たせたら碌なことにならないと言う、これは好例であるのかもしれない。 イザークにとって最大の弱点《ウィーク・ポイント》は、幼いミゲルだ。 精神的にもそうだが、物理的にもそうと言える。 もしも幼いミゲルを人質に取られたなら、赤を纏う軍人にしてアカデミー次席卒業のイザークであってさえも、諸手を上げて降伏するよりほかない。 イザークにとって、何よりも大切なのは、幼いミゲル――死んだ彼との間に遺された、ただ1つの『絆』なのだ。 「オーブ兵は、コーディネイターも多く在籍していると言う。いかに君がアカデミー次席卒で赤を纏った軍人と言えど、実戦を離れて久しい今の状況では、ミゲルを守りきれるとは限らない」 「だから、教えるんだ」 「相手が赤の軍人で多勢でもない限り、俺だけで君たちを守りきれるとは思う。でも、もしもの時がある。俺たちが目を離した隙に、幼いミゲルに害をなすことも考えられる」 「そうだな」 「ミゲルにも、少しの武装をさせたほうがいいのかも知れない。ハロなら、敵だってまさか武装しているとは思わないだろう。 ミゲルに銃を持たせることに反対した俺が言うのもおかしいかもしれないが……その方が安心に繋がるような気は、する」 アスランの言葉に、イザークは頷いた。 それこそが、イザークが一番案じることだった。 傍にいれば、守ってやることは出来る。 けれど、もしも傍にいることが出来なかった時――そんなことは無いよう努めるとはいえ、絶対を確約することはできない。何が起こるか、わからないのだから――ミゲルは、彼自身の力で身を守らなければならない。 それならば、あえて教えることも辞さない。 人殺しの方法。 忌むべきその方法を、まだ幼い我が子に教える。 それは、どれほどの葛藤だろうか。 「だから、教えるんだ」 ハロに特殊装備を備えさせ、それで人を殺せば、確かにミゲルの心に傷は付かないだろう。 だが、それではいけないと思う。 人を殺す感触を。その手で、肉を絶つ感触を知らぬ間に武装することは、殺すことへの不感症を招くのではないか。 モビルスーツに搭乗し、何時しか敵の機体に命が搭乗することを忘れ、闇雲に力を振るい続けた、イザークのように。 それでは、いけないと思う。 そこに命が存在することを。 そしてその命を絶つことに惑う自身が存在することを、教えなくてはならない。 殺さなければ助からない命が存在する一方で、殺すことで傷つく者がいることを。 教えなくてはいけないのだ。 守る力と、壊す力と。同じものではあるが、違うものであることを。 この幼い我が子に、イザークは出来る限り教えなくてはならない。 「そうか……」 「そうだ。じゃあ、練習に行ってくる。最近職業軍人化が進んでいるからな。近所のスポーツジム内にも、射撃訓練用の台が置いてあるんだ」 「そうか。……気をつけて」 「一応変装はするさ。余計な気苦労はやめろ、アスラン。禿げるぞ」 「……イザーク!!」 冗談めかして言うイザークに、アスランが怒鳴りつける。 やはり、生え際のことをアスランも気にしているらしい、と。イザークはけたけた笑いながら思った。 意地悪なニヤニヤ笑いを浮かべたまま、傍らのミゲルの背を押す。 外を出歩くにも、変装をしなくてはいけなくなった。 カガリ=ユラ=アスハの爆弾発言以降、世情は荒れている。 クラインはの連中はなんとしてもアスランとイザークを捕らえることに躍起になっており、逆にイザークたちに同情的な者たちは、それを阻止しようと躍起になり、衝突を繰り返しているのだ。 変装のひとつもしなければ、町などで歩けるものではない。 そしてただ変装するだけでは見破られてしまう恐れもあるため、イザークは男装するようになっていた。 さらしで胸を縛って、男物の衣服に身を包み、金髪のウィッグを被る。 中性的な美貌ゆえ、男にも女にも見えないことはないのだが……いかんせん男と称するには美しすぎる、そんな美貌の青年が生まれた。 「いいか?ミゲル。外では……」 「『ちちうえ』でしょ?」 「そうだ。いい子だな、ミゲル。……じゃ、アスラン。行ってくる」 「行ってらっしゃい。ミゲルも、気をつけて」 「うん。お兄ちゃん、行ってきます!」 手を振るミゲルに、いってらっしゃい、ともう一度。 笑顔を浮かべて、アスランは言った。 どうしてだろう。 この状況を、アスランは何時しか幸せだと思い始めていた。 イザークの心は、アスランにはない。 そんなことは、百も承知だ。 それなのに、幸せで堪らない、と思う。 あの頃、手にすることの叶わなかった笑顔。 あの頃、手にすることの叶わなかった場所。 それを手にしているから、なのだろうか。 所詮ミゲルはアスランの血を分けた子供などではない。 それなのに、愛しいと思う。 イザークも、ミゲルも。愛しいと。 そんな自分に、アスランは苦笑した。 この幸せが、続けばいい。 何時までも、何時までも。続けばいい。 傍にいて、笑って。 それだけで、いいのだ。 それだけで、幸せだ、と。そう思えるから。 贋物の青い空を窓越しに眺めながら、アスランは呟いた。 このままの幸せが、続きますように、と――……。 練習を終えて、イザークとミゲルは家路についていた。 やはり遺伝とでも言うべきか。幼いミゲルは、そこそこそういったセンスがあるらしい。 あちらのミゲルは、ナイフ戦は苦手だったようだが、モビルスーツ戦や射撃は人並み以上にこなしていたし、イザーク自身は射撃は首席だ。 そんな二人の遺伝子を継いだ子供は、飲み込みも早かった。 やはり筋力などがしっかりとしていないから、大きな銃では反動で後方に吹っ飛ばされかけたりするのだが、ショックガン程度のものであれば、すぐにも扱えるようになるかもしれない。 家路につきながら、本日の夕飯のことを考える。 家にはアスランもいる。三人分の食材を、買わなければ。 「ミゲル。夕飯は何がいい?」 「ロールキャベツが食べたいな」 「ロールキャベツ?」 出てきた単語に、イザークは首を傾げた。 イザーク自身は嫌いではないのだが、それをミゲルに作ってやったことはない。 なのに何故、ロールキャベツと言う単語が出てくるのか、分からなかったのだ。 「うん。お兄ちゃん、好きなんだって」 「ロールキャベツか?……そういえば、そんな話を聞いたことがあるような気もするが……」 「食べてみたいな」 「分かった。あいつには世話になっていることだし、たまにはいいか」 頷いて、イザークは食材を求めて歩き出した。 キャベツに、ひき肉に……と確認をしながら買い求めていく。 さすがにロールキャベツだけでは足りないだろうから、サラダと……ガーリックトーストでも作ればどうだろう。 イザークの手に掴ったミゲルも、ニコニコとしながら母を見上げている。 大人しいいい子だから、こういう時手がかからないのが、イザークとしても有難い。 お菓子が欲しくて、駄々をこねるようなこともないし、疲れたといってべそをかくわけでもない。 ただ、あまりにも大人しいところが、イザークとしても気になる点だった。 もう少し、我侭を言ってもいいのに……。 「ミゲル、ついでにお菓子を買おうか。どれがいい?」 「おかし?えぇっとね……チョコレート」 「チョコだな。……食べたらちゃんと歯を磨けよ?」 「分かってるもん」 子ども扱いをする母親に、ミゲルが頬を膨らませる。 それに、イザークも笑った。 まだまだ子供の癖に、変に肩肘を張ろうとするところは、案外自分に良く似ているのかもしれない。 「それでいいのか?こっちに、おまけ付きのチョコもあるぞ」 「これでいいんだってば!」 どこまでも子ども扱いをする母親に――実際子供なのだから致し方ないのだが――ミゲルも大きな声を出す。 憤慨して膨れても、子供だなぁと言って笑われて、おしまいだ。意味がない。 膨れっ面をする子供に笑顔を送りながら、イザークはふと思う。 ひょっとしたら今、自分は幸せなのだろうか、と。 小さなミゲル以外に食事を作ってやることなど、そんな日がくることなど、考えてみたこともなかった。 他人のいる家に帰って、同じ家で眠りについて、暁を迎える。そんな、日々。 そのことに、何時しか少しずつ安堵を見出している自分を見て、イザークは戸惑わずにはいられない。 ずっとずっと、ミゲルだけを想っていた。 ミゲルのことだけを、想っていた。 けれど少しずつ、別の影がそれを払拭していくような気が、する。 愛した想い出も何もかも、別の面影が覆い尽くしていくようなそんな、錯覚。 それに、戸惑う。 アスランに、気持ちなんてない。 友人として、仲間として情は持っているが、それ以外の感情など――男女の感情など、断じて持っていない。 ――筈だ。 「どうかしたの?」 「どうもしていない。帰ろうか、ミゲル。あいつも待ってる 「うん」 笑顔で頷いて、手を繋いで。 鼻歌を歌いながら、家へ。 帰ればきっと、心配して気を揉んでいたアスランがほっとしながら玄関先へ出てくるだろう。 夕食のメニューを聞けば、案外あのポーカーフェイスの男の喜ぶ顔でも見れるかもしれない。 それを思うと、ちょっと愉快で。 胸に萌しつつある想いから、目を背けた。 ずっとずっと幸せだった。 この子がいるから、幸せだった。 どうして、気づかなかったのだろう。 どうして、言葉にしてやらなかったのだろう。 破局は、すぐそこまで迫っていたと言うのに――……。 『Misericorde』第18話をお届けいたします。 いよいよ本編も残すところ、後2話となりました。 イザークとアスラン、それぞれの気持ちが迎える終焉を、見守っていただけましたら幸いでございます。 ここまでお読みいただき、有難うございました。 |