暖かな場所。 日の当たる、それだけの世界。 そして隣に、君。 地上篇〜T〜 肌を晒す服はやめろと言って、年相応の服を与えた。 幼いくせに施す化粧が気に食わないから、そう言ったものは全て破棄した。 幼い彼女は、太陽の下がいい。 太陽の下で、笑っているといい。 それが酷く、相応に思える。 「お帰りなさい、イザーク」 「あぁ。ただいま、アスラン」 「ご飯の準備、出来てるよ。今日はね……」 曇天の続く現実。 戦争へとひた走ろうとする祖国。 その中で、『彼女』だけが美しいものに思えた。 現実離れした……そうであるが故に尊いものに。 粗末なアパートに、疲れきった躯を引きずるようにして家路に着く。 生活のために金を稼ぐなど、それまでの彼からは考えもつかないことだった。 困窮したことなど、なかった。 ジュール家の嫡男として、欲しいものは全て手に入った。 そんな生活を擲ってでも、彼女を守りたいと思った。 ただ、昔出逢った事がある。それだけの少女を。 守ってやりたい、と願った。 「イザーク、疲れてるのか?」 「あ?……あぁ、ちょっとな」 「大丈夫?ご飯、食べられるか?」 「せっかく作ってくれたんだろう?有難くいただくよ、アスラン」 それはおそらく、幼稚な反抗心もあったのだろう。 ずっと、母親の敷いたレールの上をひた走ってきた。 だから、心のどこかで背きたいと願っていたのかもしれない。 敬愛してやまない母親に、心のどこかで鬱屈したものを抱えていたのだろう。 反対されればされるほど、自棄になった。 反対されればされるほど、少女を手元に置いておきたいと願った。 浅ましい感情の齎したこの結末を、けれど少女は喜んでくれるのだ。 笑ってくれるのだ。 綺麗な、透明な笑みを浮かべて。 それだけが、救いだった。 単純に生活のレベルをいうならば、あのまま路上で客引きをしていたほうが、いい生活も出来たかもしれない。 ジュール家の嫡男として与えられていたものを全て、捨てた。 イザークのものとして言えるものなど、いまや彼自身だけしかない。 住む家は、粗末なアパートの一室。 ベッドの一台も置けばそれだけでいっぱいになってしまうような、狭い部屋。 イザークがジュール家の嫡男として生活していた頃。召使の部屋だってまだ広かったと思う。 洗濯をして清潔とはいえ、シーツとはとても呼べないようなお粗末な布をひっ被せただけのベッド。 ガタの来たテーブル。 それが、今の彼が営める生活だった。 思い知る。 今まで何の疑問もなく享受してきた全てのものが、『ジュール』という家名に与えられていたものだということを。 その名を失えば、かつての生活など望むべきもないことを。 思い知らされて。 ただ、原始的なまでの悲しさで、生きるために働く。 好きだった研究も、すっぱりとやめた。 生きるためには、働かねばならない。 親の脛を齧って続けてきた研究など、続ける余裕などない。 生きるために。ただそれだけのために、身を粉にして働く日々……。 「今日は、ロールキャベツにしたんだ」 「そうか。それは楽しみだ」 「お肉はちょっとしかないけど、いっぱいキャベツ巻いたんだぞ」 胸を張るように、自慢げに言う少女に、愛しさが募る。 同時に、酷く申し訳ない気がした。 こんな生活しか、させてやれない。 ジュールの名を失った自分では、この程度が関の山でしかない。 椅子はないから、テーブルをベッドの近くまで持ってきて、ベッドに腰掛けたまま食事をする。 傍らには、ちょこんと少女が腰掛けて。 必要最低限のものしかない部屋に、余分の食器などないから、使い勝手のいい食器を二枚、中古で購入した。 それに、アスランお手製のロールキャベツを盛る。 「……美味しい?」 「あぁ、美味い」 「よかった」 おずおずと尋ねるアスランに、正直に美味いといってやる。 それだけで、和むように翡翠が揺れるから。 「アスラン。そういえばお前、いくつになった?」 「14。イザークと逢って、そろそろ半年になるよ」 「そうか……」 13歳で、路上で客引きをしていた。 そうしなければ食事が出来ないから、と。 そうしなければ生きていけないものがいることが、イザークには新鮮な驚きだった。 良くも悪くも、彼は自分の属するクラスのものしか、知らなかった。……無知だったのだ。 哀れだったのだ。 その年で、そんなことをして生活をする少女が。 哀れで、仕方がなかったのだ。 「あの……イザーク」 下を向いたアスランが、切り出す。 どこか躊躇いがちの言葉に、目を見開いた。 「僕のせいで……ごめんなさい」 「何を言っている、アスラン」 「僕がいるから、家を捨てなきゃいけなくなったんでしょう?」 アスランを引き取ってやりたいといったイザークに、彼の母であるエザリアが猛反対した。 名門家の嫡男として、彼には既に婚約者が宛がわれていた。 そんな存在がいるにも拘らず、どこの馬の骨とも知れぬ者を引き取るなど罷りならぬ。 彼の母が言ったことは、ひどく現実的で合理的な『真実』だった。 彼も、漠と考えていたのだ。 酷く非現実的ではあったけれど。 美しく聡明な婚約者とおそらく一生を誓うことになるのだろう、と。 それを擲ったのは、他ならぬイザーク自身だった。 それならば、と家を出た。 いまや、勘当同然の身の上だ。 それでも、そんなことを重荷に思って欲しくなかったから、イザークは言葉をつむぐ。 「違う、アスラン」 「でも……」 「違う、アスラン。お前はどう思っているか分からんが……俺は、今のこの生活も中々のものだと思っているぞ?」 冗談めかして言うと、アスランも幾分安堵したような笑顔を見せた。 完全には納得していないだろうに。 「俺のほうこそ、すまないな。こんな生活しかさせてやれなくて」 「ううん!」 心底すまないと思って言うと、アスランは弾かれたように首を横に振る。 「そんなことない。すごく嬉しい……本当に、嬉しいよ?あんなことしなくてもご飯が食べられて……こんな生活が出来るなんて、僕思ってもみなかったから。本当に、嬉しい。イザークには本当に……本当に感謝しているんだ」 笑って。にっこりと微笑んで、囁く。 はにかんだような笑みは、それでもイザークの心を暖めるのに十分すぎるほどだった。 負い目に思っていた。 彼女にこんな生活しかさせてやれないことに。させてやれない自分自身に。 それでも、彼女は幸せだというのだ。 幸せだといって、笑ってくれるのだ。 それだけで、十分だと思った。 「ご飯食べたら、寝よう?明日も早いんだろう?」 「あぁ、そうだな」 「僕も、働けたらいいんだけど……」 「子供は大人に頼っていればいい、アスラン」 シュン、と項垂れるアスランの頭を、イザークはぽんぽんと撫でる。 顔を上げて、アスランは笑った。 自分が笑うと、イザークも笑ってくれるから。 狭い部屋。 灯の乏しい部屋。 それでも、アスランは幸せだと思った。 お客を取らなくても、ご飯が食べられる。 イザークは、アスランを大事にしてくれる――まるで、兄のように。 食べるだけで精一杯の生活ではあるけれど。 それでも、幸せだ、と。 そう思った。 洗い物や寝る準備を済ませて、ベッドに行く。 既に寝る体制に入っていたイザークが、ベッドに横になりながら本を読んでいた。 どうしても手放せない本を数冊、イザークは持ち込んでいた。 それもまた、アスランの胸を痛めるものの一つだ。 自分のために、好きだった研究も学問も捨てたのだ、イザークは。 ぎりぎりまで落としたランプの下で、無心に本を読み耽っていたイザークだったが、アスランに気付くと顔を上げた。 「おいで、アスラン」 まだ寒い季節だ。 暖房器具のない、隙間風の吹くアパート。 それでも、二人一緒に寝れば、互いの体温で温まるから。 ごそごそと、アスランはイザークの隣に入り込んだ。 イザークが、アスランのために場所を空けてくれる。 小さなアスランの躯は、すっぽりとイザークの腕の中に納まった。 空いているほうの手で、イザークがぽんぽんとアスランの躯を撫でるように叩く。 「寒くないか?」 「大丈夫。平気……」 でも、と。アスランはイザークに身を寄せる。 肌蹴た胸元に顔を寄せると、イザークの匂いがした。 ずっとずっと、アスランを守ってきてくれた人の匂いだ。 それに、落ち着く。 「まるで幼い子供のようだぞ、アスラン」 「違う。子供じゃない」 「子供だろう?」 憤然として言い返すアスランだったが、イザークに笑っていなされてしまう。 子供じゃない、と呟きながら、同時に、子供だからイザークも自分に触れようとしないのだろうか、と思う。 娼婦として身を立てていたのは、実際のところ一年にも満たない。 それでもその間、アスランは身体を売ってお金を稼いでいた。 イザークに引き取られて、せめてものお詫びにとイザークに抱かれようとしたアスランだったが、イザークがそれを拒んだ。 それ以来、イザークはアスランに指一本触れようとしない。 まるで兄の妹にするような接触は、してくれる。 けれど、それ以上はしてくれない。 今もそうだ。 こうして同じベッドに横たわっているというのに、イザークがアスランに触れる気配は、ない。 イザークの手は、優しくアスランを撫でるだけだ。 「どうした、アスラン。眠れないのか?」 「違う……」 「だったら、早く寝(やす)め」 眠れいないのは、君のせいだよ……。 薄っぺらい毛布に埋もれるようにしながら、アスランは心の中でつぶやく。 どうして、触れてくれないんだろう。 アスランがそうやって生活してきたことを知っているはずなのに。 今更惜しむような躯じゃないから、好きにしてくれて構わないのに。 やっぱり、彼にとって自分は妹でしかないのだろうか。 9つも歳が離れれば、そう言う対象にはなりえない? 幸せだ、と思う。 大事にしてもらって、身体を売ることなく食事をさせてもらって。 いつも、傍にいてくれて。 それは本当に幸せなのに。 小さな躯に詰め込まれた貪欲な欲求。 触って欲しいと、思う。 この綺麗な顔は、愛しい者を見る時どんなに情熱的な輝きを宿すのだろう。 この綺麗な瞳は、それとも他の人をそんな目で見るのだろうか。 アスランではなく、他の人を? 傍においてくれるのはアスランが妹みたいだからで、だから、他に大切な人が出来れば、またアスランを置いてどこかに行ってしまう? 所詮この生活も、イザークの気まぐれ。 イザークがただ、アスランを哀れに思って、拾ってくれた。 ならば飽きればまた、イザークに捨てられるのだろうか。 また、身体を売って、ご飯を食べて。 好きでもない人に、身体を捧げて。 動物みたいに、生きるだけ? 父親に捨てられたように、この人もアスランを置いてどこかに行ってしまうのだろうか。 「アスラン?」 暗い眼をするアスランに、イザークは声をかける。 擦り寄る体温が愛しくて、温もりが心地よくて。 もっと傍においでと言わんばかりに、その胸に抱き込む。 小さな躯で、生きようとしている。 その小さな命が、愛しい。 以前アスランが、イザークに抱かれようとしたときのことを、イザークは時折痛ましい思いで思い出す。 こんな小さな少女なのに、それでしか生活できなかったから。 そんなことしたくないだろうに、義理堅くイザークに恩を返そうとして、抱かれようとした少女。 痛ましい……本当に、哀れだ。 そんな風でしか、他者から見られることのない……顧みられることのなかった少女が。 ここでは安心していいのだ、と。 教えてやりたい気持ちでいっぱいになる。 ここでは安心していいのだ。 俺はお前を、肉欲の混ざった目で見たりはしないから、と。 安心して、子供のままでいればいい。 まだ、幼いのだから。 このときはまだ、アスランを誰よりも愛することになるなんて、思っても見なかった――……。 『地上篇』第1話をお届けいたします。 ロリコンが楽しいです。 ヘタレイザークが楽しいです。 9歳年が離れると、この男はこんなに紳士になれるようです。 プラトニックなのかなぁ、この二人。 細かいところまで設定詰めているくせに、その辺の設定だけは出来ていません。 プラトニックのほうがいい……ですかね? |