幸せ、だった。

あんな嫌なことをしなくても、ご飯を食べさせてもらえる。

イザークは、優しくしてくれる。

もしも僕にお兄さんがいたら、こんな感じだったのかな――……。



どうして、この幸せが長く、続かなかったんだろう。






地上篇〜U〜





イザークと逢った日のことを、アスランは今でも覚えている。すごく、怖い人。それが、彼の印象だった。

あぁ言うことをしてお金を貰っていたから、アスラン自身、危険な目には何度かあったことがある。
変態プレイを好む客だとか、極端にサディスティックな嗜好を持つ男など、色々な人間がいた。
金のためならば、そんな男でさえも身を任せねばならなかった。

けれど、アスランのために怒った客など、イザークが初めてだったのだ。


「アスラン」


と、名前を名乗る以前にアスランの名前を紡いだその、声。
いつもイザークは、そんな風にアスランを呼ぶ。
大切で大切で堪らないとでも言いたげに、優しくその名を呼ぶのだ。
その声が、アスランは何よりも好きだった。

幸せだと、思った。
幸せで幸せで、堪らなかった。

だからこそ、彼には言えなかった。
小さなその躯が抱えた秘密は、あまりにも大きくて、重くて。言い出すことが、できなかったのだ。
今のこの日々を、壊したくなんてなかった。

それさえも、浅ましい自己保身からのものだと、分かっていたのだけれど。
もう少し、もう少しだけでいい。
もう少しだけ、この幸せな夢の中にたゆたっていたい。
もう少しだけ……。



けれど、破局はすぐそこに迫っていたのだ。


「アスラン、買い物に行こうか」
「一人で大丈夫だよ。イザークは今日も仕事をしていて、疲れているでしょう?ゆっくりしていていいよ」
「そういうわけにいくか。最近物騒じゃないか。いいから、一緒に行こう」


強引に差し出された手を、握った。
アスランよりずっと年上のイザークの手は、アスランのものより大きくて。
そして平熱はアスランより低いというのに、いつも温かかった。
ぎゅっと握ると、確かな強さで握り返してくれるから。
本当に、兄妹になったみたいだ、と思う。

イザークの稼ぎは、あまり多くない。
慢性的な不況に陥っているこの国では、いくら働いてもなかなか金にならないのだ。
そして、物価の高騰。
小さな国は疲弊し、まさに苦悶の声を上げていた。

それでも、さまざまな策を弄して、できるだけ安く食材を買い求める。
肉も野菜も、驚くほど高くて。
何とかやりくりをしながら、買い物を済ませる。
大きな荷物は、当たり前のようにイザークが持ってくれた。


「他に、買うものはないのか?」
「ないよ……パンも、買えないね」
「仕方ない。俺の稼ぎが少ないからな。お前には、苦労をかけるが……」


アスランの言葉に、申し訳なさそうにイザークが呟く。
それに、アスランは慌てて首を振った。
イザークを咎めているわけでは、ないのだ。
ただ、アスランは申し訳なかったのだ。
もともとは上流の、餓える思いなど一度たりともしたことがないであろうイザークに、そんな生活を強いてしまったことが。


「そうじゃないよ、イザーク。そうじゃないんだ……ごめんね?パンもないし、イザークは働きに出なくちゃいけないし……」
「それこそ、気にするな。アスラン。お前は、何も気にせずに笑っていればいい。……もっとも、嫌でも貧乏は思い知らされるかもしれないが」


軽口めいて、イザークは笑う。
けれどアスランの心にかかった靄が、晴れることはない。
いつもいつも、アスランは気になって仕方がないのだ。
自分がいたせいで、イザークは享受していた豊かな生活を、擲ったのだ、と。

俯きがちに歩くアスランの耳に声が飛び込んできたのは、その時だった。


「おい、何だ、あの女!」
「あぁ、ユダヤ人だってよ。警察に楯突いたらしいぜ」
「自分を知れ!ユダヤの豚め!」


人垣の向こうに、警官に拘束された女の姿が見えた。
腫れ上がった顔は、暴力によるものだろうか。
その眦には涙さえも浮かばせているのに、周囲の人間のかける言葉は、口汚い罵声だった。


「イ……イザーク」
「見るな、アスラン。行くぞ」


アスランの足が、止まる。
がくがくと震えながら、イザークを見上げた。
厳しい目をして群集を見やっていたアイスブルーが、アスランに向けられる。

強い力で、引きずるように歩き出す。
彼はただ、見せたくなかったのだ。
小さな、幼い少女に。
人の持つ醜い部分など、見せたくなかった。
教えたくなかったのだ。

しかし、アスランの瞳はずっと、その女に注がれていた。
その理由など、彼には分からない。
物珍しさから見ているのであれば、彼は叱り付けただろう。
しかし、そうではないのだ。
翡翠の瞳に恐怖を張り付かせて、小さな躯が戦く。
その震えを、彼だけが知覚しえた。









住居にしているアパートに戻っても、アスランはいまだに震えている。
イザークはそっと、アスランの頭を撫でるように翳した。


「いやぁっ!」


しかし、アスランは拒絶の声を上げる。
そしてその手を、振り払った。


「アスラン?」
「や……怖い……やだ……」
「おい、アスラン。どうしたんだ?」


その顔を覗き込んでも、アスランは恐怖に戦くだけだ。


「僕……いつか、僕も……」
「アスラン?」
震え続けるアスランに、イザークは首を捻った。
一体全体、何がどうしてこうなったのか。彼には、分からなかった。
ただ、近い過去を遡行していくうちに、辿り着きえた事実に、驚愕した。


「お前……ユダヤ人か?」
「ひっ……!」


震えながら、翡翠の瞳を大きく瞠る。
知られたくなど、なかった。
その瞳に、侮蔑の眼差しを向けられたくなど、なかった。

罵りを覚悟して、アスランは瞳を閉じた。
でも。でも、自分が収容所へ送られたなら、イザークは家に戻るかもしれない。
こんな貧乏生活なんて、イザークには似合わない。
けれど自分がいなくなれば、それも終わる。
イザークはもとの……名門家の嫡男に、戻れるのだろう。
それは、良かったのかもしれない。
結局自分が、全ての災いの種であったのだ。

覚悟を決めて、アスランはかけられる言葉を、待った。


「アスラン?言ってくれないと、分からないだろう?」
「え……?」
「お前の口から、事実が知りたい。……話してくれないか?」


しかしかけられた言葉は、アスランの予測を裏切るものだった。
酷く優しい調子で。穏やかな瞳で、イザークはアスランを見つめている。


「イ……ザーク?」
「ん?」
「僕を、突き出さないの?」
「何故?」
「僕……僕は、ユダヤ人……だよ?」


キリスト教が広まるに連れ、ユダヤの民を迫害するものは増えていった。
ユダヤ人とは、神の子であるイエス=キリストを処刑した者たちであり、神の御心に背く者、と。
キリスト教が広まるにつれ、そのような言葉も囁かれ始めたのだ。
国を負われる彼らが生きるすべは、法外な税金を納めることだった。
故に、医者や弁護士といった社会的な名士、もしくは金貸しといった社会的地位は低いものの富裕な者にならざるをえなかったのだ。
そしてそれが、よりいっそう周りの反発を招く。
勤勉な努力によって得た富であっても、宗教という絶対のものを建前にした者たちに、その言葉は届かない。
彼らにしてみれば、その財もまた、彼らを不当に搾取して得たものに過ぎず。したがってユダヤ人の財など、没収してしかるべきものでしかないのだ。

そして、今の混乱がある。
国家事態が貧しくなった今の世にあってさえも、富貴を誇るユダヤ人たちへの風当たりは、日に日に酷くなっていった。
そして、国家の首班である男が、言ったのだ。


「我々が今貧しいのは、我々から不当に財を搾取するものたちのせいなのだ」
「我々は誇り高き民族である」



人々は、彼の力強い口調に酔った。
その唇が紡ぐものに酩酊し、その名を称えた。

内側から瓦解しかけていた祖国は、ユダヤ人という『敵』を作ることで急速に纏まりを取り戻したのだ。


「……そうか」
「母上が、アーリア人系のユダヤ人の、クォーターで……。僕の父上は、知らずに結婚したアーリア人……で。だから、僕……」
「お前はアーリア人系の、ユダヤ人の血を引いている、ということか?」


イザークの言葉に、アスランは頷いた。
最早、隠しおおせるものではなかった。
ただ、イザークがあからさまな嫌悪を露わにしなかったことだけが、アスランの救いだった。

項垂れるアスランだったが、イザークが人を呼びに行くことはなかった。
アスランに対し、暴力を振るうこともない。
不思議に思って恐る恐るイザークの顔を見ると、イザークは明らかに怒っていた。


「ごめん……なさい。ごめんなさい。僕……」
「違う。そのことに怒っているんじゃない。……どうして何も言わなかった?」
「え……?」
「どうして何も言わなかったんだ、アスラン。どうして一人でそんな秘密を抱え込んだ?辛いことがあれば何でも言え、と。俺は最初にそう言った筈だぞ?」


イザークの言葉に、アスランは言い訳を口にしようとした。
言えるわけが、なかった。
幸せであればあるだけ、言えなかった。
この幸せが費えてしまうことが、怖かった。
口にしてしまえば、ジ・エンド。
端正な顔を嫌悪に歪めて、アスランを当局に突き出すだろう、と。そう思っていた。


「信じられないのは、仕方がないな。それだけの思いを、お前はしてしまったんだろう……まだそんなに幼いのに」
「イザーク……」
「だが俺は別に、嫌悪も何もない。現在の国家のありようを、むしろ憂えているほどだ。だから……気にしなくていい、アスラン」


大きな手が、アスランの頭を撫でた。
その時になって漸く、アスランは自分が泣いていることを知った。


「小さいのに、辛い思いをしてしまったな、アスラン」
「……ん」
「でも、もう一人で泣かなくていい。震えなくてもいい。俺が傍にいるよ」
「うん……」


イザークの言葉に、アスランは頷いた。
散々人の悪意に踏みつけられてきたアスランにとって、それは宝物のように響いたのだ。
だから、イザークに抱きつく。
兄のように、イザークは小さなアスランの躯を抱き上げた。
それにアスランも、妹のように甘える。


「お前が大きくなる頃には、戦争もきっと終わっている。ユダヤ人だろうがなんだろうが、臆することなく生きていける。だから、一人で泣くな」
「うん」
「それに、アーリア人系なら、うまくまぎれることもできるさ。何なら、友人に状況を聞いてもいい。大丈夫だからな、アスラン。お前は、俺が守ってやるから」
「うん……僕も、イザークを守るよ。……何も出来ないけど、でも出来るだけのことをするから」
「そうか。……有難う、アスラン」


お互いの温もりを欲して、抱きしめあった。
小さな躯に抱え込んだ精一杯の偽りごと、抱きしめる。
それは、あくまでも兄と妹のそれであったのかもしれない。
それでも、二人は認識した。
お互いにとって、お互いが欠かせないものへと変化していく。

イザークにとってアスランは、祖国の愚行による被害者の、その象徴となった。
彼はアスランを通し、戦争というもの――否、『正義』と呼ばれ『大儀』といわれるものの現実を直視していくことになる。
イザークにとってアスランは、この戦争の直接の『象徴』となっていたのだ。





離せない。
離れたくない。
お互いが抱いた、確かな認識。
それは、今はまだ淡いものであるに過ぎなかった。
兄が妹に傾けるような、妹が兄に寄せるような、そんな拙い想いの断片。
そうであるに過ぎなかった。






その時はまだ、予想だにしていなかったのだ。
抱いた想いの断片が、抱いた感情が、互いを引き離すものであったことを。
兄と妹のように、ただただ安らかに。
それだけを祈っていた彼らを押し流す運命の存在を。

彼らは、予測も出来ず、ただ互いの温もりを抱きしめていた――……。







『地上篇』は、幸せだった頃、をイメージしています。

なんかもう、イザークさんの性格違いすぎませんか?だとか、いろいろと自分でもツッコミを入れてしまいたいのですが。
どうもこう。年の差が出た上にパラレルだと、イザークは大人になってしまいます。
アスランは頼りないので、俺が守らねば、と思ってしまうみたいです。
ちょっと有り得ないだろうと思われそうですが……。
これもイザークだよね!と言っていただけるように頑張りたいです。
個人的には、大人イザークとロリアスランは、書いていて非常に楽しいです。
体格差って好きなんですよね……萌えます(←お前がか!?)。

ここまでお読みいただき、有難うございました。
今回のあとがき、ないほうがいいのではないかと思ったのは、私だけではないと思います。