さらさらと風に乗って。

ふわふわと揺れて。

そんな綺麗なものに、貴方が触れさせてくれた。






地上篇〜V〜






幼いと謂えど、アスランも年頃の少女だった。
幼いくせに施された化粧や、大きく胸の開いた服などは気に食わなかったが、それ以外の……ごく普通の装飾ぐらいは、買ってやりたかった。

今現在のイザークの稼ぎでは、アスランに服の一つも買ってやれない。
それでも……それでも、何か。
汚い世界だけを見て育ってしまった少女に、何か綺麗なものを見せてやりたかった。


「アスラン、これ。お前にやるよ」


イザークが差し出したものを見て、アスランは目を丸くした。
その掌に包まれていたのは、ビロードの白いリボン。
触れてみると、それは滑々とした感触を、アスランに伝えた。


「どうしたの、イザーク。これ……」
「ん?まぁ、たまにはいいだろう。一応お前も、年頃だろう?」


そういって、イザークは笑う。
けれどアスランの視線は、それ以上にイザークの異装に目が行ってしまった。

イザークの持つ、綺麗なプラチナブロンドの髪。
顎あたりで切り揃えられていたそれは、今では耳を隠す程度の長さしかない。


「髪、どうしたの……?」
「あ?
売った」
「う……売った!?どうして!?」


大したことではないと言いたげなイザークに、アスランは大きな声を出す。
実際問題、彼女にとっては『大した』問題なのだ。
イザークの髪は、彼女にとっても大のお気に入りだったのだから。


「長いと邪魔だし、ちょうどよかったんだ。あぁ、これ。余った金」


そう言ってイザークは、ポケットから何枚かの硬貨を取り出す。
イザークの日銭よりも多い金額の硬貨に、アスランは目を瞬かせた。


「何、このお金」
「だから、髪を売った金だ。結構いい値段になったぞ。男の髪だから、多少は値引きされてしまったが……」
「そんな……」


イザークの髪は、他に滅多にないほどの艶やかな銀糸で。
確かに、高く売れるだろう。
しかし、よもや売ってしまうなんて……。


「ほら、アスラン。こっちにこい。折角だから、結んでやるよ」


イザークに手招きされて、アスランはそちらに向かった。

癖のある藍色の髪を、イザークが手櫛で整える。
肩先に届くか否か。その程度の長さしかない髪なので、三つ編みなどと言ったアレンジは難しい。
そこでイザークは、アスランの髪のサイドを掬い取って、軽く結い、リボンを結んだ。


「ほら、見てみろ、アスラン。なかなか似合うぞ」


鏡などない部屋なので、くすんでしまった硝子越しに確認する以外に、自らを確認する術などない。
それでも、一応姿の確認だけは出来て。
面映さに、アスランは頬を染めた。


「どうだ?可愛いだろう?」
「……僕が可愛いかどうかは、あれだけど。でも、有難う。このリボン、すごく可愛い」
「そうか。気に入ったか?」
「うん」


イザークの問いに、アスランは元気に答える。
こんな綺麗なものに触れるのは、もう何年ぶりだろうか。
けれどこれを贖うために、イザークは髪を売ってしまったのだ。


「髪、勿体無いことをして……」
「別に、俺は男だからな。短くても構いはしないさ」
「僕が構うよ!イザークの髪、好きだったのに……」


さらさらしていて。
指どおりがよくて。
色は勿論だけど、その質感も気に入っていた。
大好きだった。


「また伸びるから、髪は。それより、そんな顔をしないでくれ、アスラン。せっかく、笑った顔が見れると思ったんだ。笑ってくれたほうが、嬉しい」


その言葉を受けて、優しい「兄」に、アスランは笑う。
うまく笑えているか心配だったが、問題なく笑えたらしい。
アスランの笑顔に、彼もまた、嬉しそうに微笑んだ。


「髪は、また伸びるしな。気にしないでくれ、アスラン」
「うん、分かった」


頷いて、アスランは何度も何度も硝子を覗き込む。
そんなアスランに、やはり幼くとも女の子なんだな、と。
イザークは思った。

服なんて、とてもじゃないが買ってやれない。
宝石の類など、問題外だ。
イザークが今、彼女にしてやれることは、この程度でしかない。
それでも、喜んでくれるのだ。
それでも、笑ってくれる。
その笑顔が、イザークは愛しかった。


「幸せか?アスラン」
「うん、幸せだよ?」


贅沢はさせてやれないし、食事にも日々困っている。
事欠くことはなくとも、粗末な……質素な食卓を囲むのが精一杯の日々。
しかし底辺の暮らしをしてきたアスランにとって、その程度は些細なことだったのだ。


「幸せだよ?イザークが拾ってくれて、幸せだよ」


囁く小さな躯。
抱きしめて、その額に口付ける。

守ってやらなくては、この少女を。
ユダヤの血を引く、小さな少女。
たくさんの辛酸を舐めて生きてきた少女を、今度こそ。
この手で、守ってやるのだ。

決意を込めて、イザークは抱きしめる腕に、力を込めた――……。



**




井戸端で洗い物をしながら、時々手を休めて、アスランは自分の顔を水鏡越しに覗き込んだ。
真っ白なリボンは、アスランの藍色の髪によく映えた。


「あら、アスラン。どうしたの?」


声をかけられて、アスランは振り向いた。
同じアパートに住む、若夫婦。
その、奥さんだ。


「あ、こんにちは」
「こんにちは。どうしたの、アスラン。ご機嫌ね」


散々辛酸を舐めてきたアスランは、よく人を見る。
この若奥さんは、アスランが知る中でもなかなかの善人だった。
貧しい暮らしの中で、孤児が物乞いに来れば僅かばかりの食事を分けてやるような、そんな人だった。


「あのね……」


照れくさそうに笑いながら、アスランは顛末を話した。
周囲の人々には、二人は『兄妹』だと言ってある。


「お兄さんが、そのリボンを買ってくれたの?」
「うん!……でも、そのせいで自分の髪、売っちゃったんだ……」


そのことを考えると、アスランの顔も沈みがちになる。
好きだった。
綺麗だな、と思っていた。
自分とは違う髪質の、彼の髪……。


「まぁ、アスラン。貴女がそんな顔をしていたら、お兄さんはかえって気を遣ってしまうでしょう?」
「分かります、けど……」
「貴女が笑顔でいることが、一番だと思うわ」


女性の言葉に、アスランは曖昧に頷いた。
イザークも、それを望んだ。
それが一番だと言うことは、アスランにだって分かる
しかし、アスランは気になるのだ。

イザークは、アスランがユダヤ人であることを知ってなおも、アスランの面倒を見てくれる。
当局に連絡することもせずに、アスランを匿ってくれている。
そんな人にさらに負担を強いているようで、アスランは心苦しいのだ。

アスランの母がユダヤ人のクォーターと言っても、祖父がなかなかに先見の明のある人だったらしく。
母に、ユダヤの教義を教えず、キリスト教の教義のみを教えたらしい。
アスランだって、キリスト教の教義しか知らないし、割礼とてしていない。
それは、母も同じだった。
しかし、それでも純粋なアーリア人ではないことに変わりはない。
純粋なアーリア人ではなく、古くはユダヤの血を引く者であることに、かわりはないのだ。

純粋なアーリア人とは、3代前から純血のアーリア人を指す。
アスランの3代前は、アーリア人とユダヤ人のハーフだ。
とても、純粋なアーリア人とはいえない。


「でも、僕は何もしてあげられないのに……」


アスランにできることなど、微々たるものだ。
食事を作って、家事をして。それぐらいのことしか、できない。
名門家の嫡男である彼に慣れぬ労働をさせ、こんな暮らしをさせていると言うのに。
彼に、感謝を伝える術すらないのだ。


「じゃあ、私が何か一緒に考えましょうか?」
「本当に!?いいんですか?」


勢い込んで尋ねたアスランだったが、次の瞬間視界が歪んだ。
地面に膝をついたアスランに、若奥さんが声をかける。


「大丈夫?アスラン」
「大丈夫です」
「あら、風邪かしら?ちょっと、熱っぽいけれど……」
「大丈夫です」
「お兄さんに、言ったの?」
「だって、心配するもん……」


小さく呟く。
風邪など引いたなどと知れたら、彼がどれだけ心配するか分からない。
それに、少々痰が絡まる程度、微熱程度だ。
たいしたことはないだろう。


「私から、お兄さんに言っておきましょうか?」
「大丈夫です」
「そう……?でも、無理はしちゃだめよ?」


心配してくる女性に、アスランは頷いた。
ただの、風邪だろう。
大人しくしてさえいたら、きっとすぐによくなる。
咳だってないし、熱も、ほんの微熱程度だ。
大したことは、ない。

過ぎる、不安にも似た感情を、アスランは押し込めた。


大丈夫。
まだ、この日々は続くに決まっている。
恐れていた秘密さえも、イザークは受け入れてくれた。
そんな彼ならばこそ、きっと。
そんな彼であるからこそ、信じられる。
そんな彼が一緒にいてくれるのだ。
この幸せは、まだまだ続く。
たとえそれが永劫に続くこと叶わぬものであっても。
もう少しだけ、アスランは夢を見ていたかった。
もう少しだけ。
もう少しだけでいい。


もう少しだけ、夢を見させてください……。



**




「お帰りなさい、イザーク」


日雇いの仕事から帰ってきたイザークに、アスランは声をかける。
少しでもアスランが元気そうにしていることを、イザークは喜ぶ。それぐらい、アスランだって知っていた。
だからアスランも、小さな躯にいっぱいの秘密を抱えて、それでもまだ微笑むのだ。


「お腹空いた?」
「あぁ。今日は何だ?」
「今日は、ポトフだよ」
「そうか」


かすかに笑って、それから。
あぁ、とイザークが言葉を継いだ。
思わずイザークを見返したアスランに、笑みを深めて。


「『ただいま』、アスラン」


囁く声に、アスランは大きく翡翠の瞳を瞠る。
父親に捨てられ、置き去りにされたアスランにとって、それは嬉しい言葉なのだ。


「うん……うん、お帰りなさい」


はにかむように笑うと、アスランは小さな包みをイザークに差し出した。
ん?と、問いかけるような視線を投げてよこすイザークに、開けてみてと頼む。
請われるままに、簡素な包みを開けると、飾り紐が現れた。


「どうしたんだ、これ」
「ブックマークに、使えないかなぁ。イザーク、いつも本を読んでいるでしょう?」
「そうだな。ブックマークに使うにはちょうどいい……って、違う。どうしたんだ、アスラン。まさか……」
「ち……違うよ!」


表情を険しくしたイザークに、アスランは慌てて否定の言葉を紡ぐ。
躯なんて、売っていない。
そんなことをしたら、どれくらいイザークが怒り狂うか知っている。
まして、そんなことをして購った品など、イザークは決して受け取ってくれない。


「奥さんに、分けてもらったんだ」
「ん?」
「奥さんに、糸を分けてもらって、自分で縒り合わせたの。イザークが嫌がるようなことは、してない」


小さくアスランが呟くと、イザークはそうか、と頷いた。
それが分かれば、いいのだ。
アスランに躯を売らせるようなこと、金輪際して欲しくなどない。

知人の娘で……あんなにも日の光の似合っていたアスランに、そんなことをさせたくはないのだ。

よもや、あの日紹介された女性がユダヤのクォーターなどと、イザークとて思ってもいなかった。
それを知ってしまったその夫君の驚きは、いかほどのものだったのだろうか。
そういえば、アスランの父親は、誰だっただろう。
彼女の父親にはそういえば、会った覚えがなかった。

まして、イザークは興味のないことを覚えることが、殊の外苦手だった。
煩わしいだけの人間関係など、その極致とも言える。
むしろ、イザークがアスランを覚えていたことの方が、珍しいくらいなのだ。

それに、アスランがそれからどうやって生きていたかを考えれば、おのずと彼女の父親の辿った運命の検討はつく。
死んだか……アスランを捨てたのだろう。

思案に耽るイザークだったが、間近で見つめてくるアスランの翡翠の瞳に、我に返った。
不安そうに、見上げてくるのを、抱き上げる。
その年の割りに、アスランは十分以上に幼いし、華奢だ。
14歳の年のわりに、アスランはあまりにも線が細い。
だから、イザークには容易に抱き上げることもできるのだ。


「い……イザーク!?」


地が足から離れて、アスランが上ずった声を洩らした。
それに構わず、抱きしめる。


「有難う……」
「イザーク?」


イザークの肩口に顔を埋めるような格好で、アスランは恐る恐るイザークに声をかける。
イザークは、逆に、アスランの肩先に顔を埋めて。
耳元で、低い声で囁く。


「有難う、嬉しい。かえって気を遣わせて、すまなかったな、アスラン……」
「イザーク……」


耳元に感じる吐息に、どきどきした。
早鐘を打つ心臓の鼓動が、イザークに聞こえてしまいそうで、困る。

嗚呼、そうだ。
こんな接触は、久しぶりなのだ。
母がいなくなって、父はアスランを捨てた。
幼い頃何の疑いもなく享受してきた温もりを、今久しぶりに与えられたのだ。


「いいよ、イザーク。僕の方こそ、いつも有難う」
「それこそ、余計な気を遣わなくていい、アスラン」


抱きしめた温もりは、確かな質感を互いに伝えた。
確かな生の息吹を、お互いに感じさせた。
それが、何よりの幸福だった。

愛しかった。
幼い、拙い感情。
拙い想いの断片を、互いに寄せ集めて飾った。
触れ合えば、すべては夢と思えるほど儚いこの現世《うつしよ》で。
ただ、互いの温もりを抱きしめあった。
抱いた微かな想いごと。
拙い感情ごと、全てを抱きしめて。















そして、二人は知るのだ。
残酷な神の存在を――……。



Ragnarok-神々の黄昏-
地上篇
Fin.








『地上篇』はこれにて終了です。
次回は、『煉獄篇』へと話を移します。
酷い……といいますか。想う故に酷薄な態度を取るジュールに絶えられる方のみ、どうぞ。

しかし、14歳と23歳の恋愛ごとは少々書きづらいです。
ともすれば、イザーク犯罪者!
接触ひとつとっても、これってまだ健全だよね?犯罪じゃないよね?
と、自分の理性に問いかける日々でした……(←理性なんてとうに灼きれているだろう!)。

ここまでお読みいただき、有難うございました。