この手で、幸せにできると信じてた。

それは、ただの思い上がりだったのかもしれない――……。






煉獄篇〜T〜





真っ白なリボンを髪に飾って、アスランは部屋の掃除をしていた。
確かに、襤褸なアパートだ。
そこ以外に、アスランとイザークでは店賃を払うことができなかったのだから、仕方がない。
しかし、襤褸い部屋であっても、掃除をしっかりすればまだしも、落ち着いて生活も営めるだろう。
外で日雇いの労働などをして働くイザークにアスランができることは、それくらいだ。
だから、いかに襤褸い部屋とはいえ、アスランは今日も一生懸命掃除をしていた。


「イザーク、今日は早いのかな……?」


身に着ける衣服も、古着だし、毎日洗って清潔とはいえ、決して上等なものとはいえない。
それでも、今の生活が幸せだと思った。
跪いていた状態から、アスランは勢いよく上体を起こした。
さぁ、今度は食事の支度をしてしまおう。
そう思った、まさにその時。


「ぇ……?」


急に、視界が歪んだ。
ぐらぐらと、陽炎のように霞む。


「ぃざ……」


戸口に向かって、アスランは手を伸ばした。
その唇が、ここにはいない『兄』の名前を呼ぶ。

ブラックアウトしていく視界の端で、アスランは懸命に、その名を呼んだ――……。



**




「イザーク」


裏通りを歩いていた彼を呼び止める声に、イザークは足を止めた。
聞き覚えのある、声だ。
警戒心を滲ませて、相対する。
背にしていた壁から、相手の男は身を起こした。

薄暗い頼りない明かりの元、相手の輪郭が描き出される。
間違いなく、知り合い……それも、彼にとってごく近しい存在を。


「ディアッカか?……何の用だ?」
「久しぶりに会った幼馴染に、そう言う態度とるかよ、普通」
「……悪かったな。どうして俺の居場所が分かった?」


下手は、打っていないつもりだ。
生家からの追っ手は、ないだろう。
母は、彼を勘当した。
イザーク自身、ジュールの名など名乗っていない。
そんな息子に、母が頓着するとは思えなかった。

だが、アスランのことがある。

幼馴染の纏う黒衣を醒めた瞳で眺めやりながら、彼は思った。
アスランは、ユダヤ人の血を引いている。
彼女を守るためには、今まで以上の警戒が必要となるかもしれない。


「床屋で、お前の髪を見つけた。あんな綺麗な銀髪は、お前かエザリア様ぐらいしかいない」
「成る程な……。それで、一体何の用だ。エルスマン少佐殿?」


彼と違い、幼馴染はその親の進めどおりの道を歩んでいる。
いかに生家の身分が幼馴染より上とは言っても、今の彼は助力一つ持たぬ身。
二人の間には、身分という名の壁が聳《そび》え立っていた。
かたや平民……それも底辺の。
そして、ナチスは親衛隊の佐官では、身分が違いすぎる。


黒という色は、ナチスにあっても小数のものが身に纏う色彩だ。
その色は、親衛隊のみが纏う。

容姿・家柄・能力。この3点において優れたものは、親衛隊として総統のすぐ傍に在る。
幼馴染が纏う黒衣は、まさしくその親衛隊であることを指していた。
階級は……階級章を見る限り、少佐らしい。


「エザリア様が、お前の行方を捜しておられる」
「母上が?」
「あぁ」
「……まさか。俺は、勘当された身の上だぞ?」


アスランを育てると決めたとき、家など捨てた。
母が、それを了承しなかったからだ。
そんなどこの馬の骨とも分からぬ娘など、捨ててこい、と。
だから、家のほうを捨てた。
母とて、そのことはよく覚えているだろう。


「あのエザリア様が、お前をそう容易く手放すものか」
「……ふん」


母の、彼への溺愛ぶりは社交界でも評判だった。
決してそこらのボンクラどもの母親のようにベタベタと甘やかすだけの人ではなかったが、彼の母が彼を誇りに思っていることは、周知の事実だったのだ。


「俺は、母に言った。あの子供をジュールの養女に迎えるのであれば……と。それを受け入れられぬと言ったのは、母の方だ」
「お前、状況を考えろ。お前には、婚約者がいるんだぞ?その状況で、子供なんか迎えられるわけがないだろう?」
「婚約など……」
「一度はお前が確かに受け入れた決定だろう?今更逃げるな、イザーク」
「逃げてなどいない!」


そう。一度は確かに受け入れた婚約だった。
漠然と、思っていた。
一生彼女と添い遂げて、生きていくのだろうと。
けれど、イザークは他を見つけたのだ。
イザークが心から一緒に生きたいと、傍にいて守りたいと思ったのは、あの小さな少女だった。
それは、単なる同情だったのかもしれない。
哀れみだったのかもしれない。
しかしそうと自覚してなお、他の女と生きられるほど……永遠を誓えるほど、彼は器用ではなかった。


「戻ってこいよ、イザーク」
「ディアッカ……」
「そんな暮らし、お前には似合わねぇよ」


すっかり短くなった髪や、継ぎのあたった服。
大した食事も取れぬ生活に幾分やつれた顔を眺めやりながら、ディアッカは言う。
それが好意からくるものと分かっていても、彼は拒絶せずにはいられない。


「断る」
「イザーク」
「俺はあいつと約束した。あいつは俺が守る、と。それを違《たが》えるようなことは、絶対にしない」


きっぱりと、言い捨てる。
守ると、誓ったのだ。
恐怖に震えていた、あの幼いユダヤの血を引く少女を。
この手で必ず、守り抜く、と。


「エザリア様は必ず、お前を探し出すぞ」
「……」
「今のうちに、戻ってこい、イザーク」
「……断る」


踵を返して、イザークは歩み去る。
これ以上、話をしていても埒が明かない。
そう、判断する。


「イザーク!」


幼馴染が、彼の名を呼ぶ。
それに、もはや答えることもしなかった。
その脳裏に、先ほどの幼馴染の声がこだまする。

母は、アスランを決して許さないだろう。
今現在イザークが営む生活を、もしも母が目にしたならば。
母は、決してアスランを許さない。
たとえそれがイザークの意思によるものであったとしても、烈火のごとく怒るのだろう。
それは、察するに余りある。
予測の、範囲内だ。

それでも、イザークの意思は変わらない。

アスランを、守ると決めた。
薄暗い世界で生きてきた少女を、日の光の下で生かしてやるのだと、心に決めた。
それを、自らの決意を違えることは、彼にはまたできなかったのだ。




嵐が、近づいてきている。
やがて、このか弱き祖国を呑み込むだろう、嵐が。

戦争という名の濁流が、すぐそこまで。

母がイザークを探しているのも、その情勢によるところが大きいのだろう。

近づいている。
嵐が。
この国を蹂躙する戦火が、すぐそこまで。

その予兆に、彼は震えた――……。



**




「アスラン?」


住処にしているアパートに、帰り着いた。
しかし、明かりすらついていない。
部屋は薄暗く、寒い。

その事実に、彼は眉を顰めた。
おかしい。
アスランは、黙っていなくなるようなことは決してしない。
まさか、かどわかされたか。
しかし、それもあの母がやるにしてはチープな発想だ。
あの母が、そのような手を打つとは思えない。
であるならば、別の誰か……という事になるか。

とりあえず、部屋の明かりに手を伸ばした。
薄暗い明かりであるから、部屋の隅々まで光は届かない。
それでも、先ほどよりはましだろう。

そして、彼は見た。


「アスラン……?」


床に、倒れている人影がある。
それに、彼は明かりを向けた。
そして、見た。
床に倒れているのは、彼が守ると決めた、少女。


「アスラン……おい、アスラン!しっかりしろ、アスラン!?」


慌てて抱き起こすが、白い頬に血の気は感じられない。
口元に手を翳すと、弱々しくはあるが呼吸していることが分かる。


「アスラン!?」


軽く、その頬を叩く。
ややもすると、閉じられていた目蓋を飾る睫毛が、震えた。
ゆっくりと、翡翠の瞳が覗く。


「いざぁく……?」
「ああ、アスラン。よかった!」
「僕……」
「どうしたんだ、アスラン。一体何があった?」


尋ねるが、返答は返らない。
茫洋とした眼差しのまま、アスランはイザークを見つめている。
それから、ゆっくりと息を吐いた。


「大丈夫か?アスラン。何があった?」
「イザーク……。何でもないよ。ちょっと、立ち眩みしただけ……風邪ひいたのかなぁ」
「風邪?」


アスランの返答を受けて、その額に手をやる。
確かに、普段に比べて僅かに熱い。


「熱があるんじゃないか?いつからだ?」
「最近……でも、本当に、大丈夫。大した熱じゃ、ないでしょう?」
「確かに、微熱程度だが……頼むから、アスラン、無理だけはしないでくれ」


イザークの言葉に、アスランはこくりと頷いた。
ほっとして、イザークはアスランを抱きしめる。


「大事がなくて、よかった……心配したんだぞ?」
「うん……ごめんなさい」
「馬鹿、気にする必要はない。とりあえず今日は、ゆっくりしろ」
「でも……ご飯、まだ作ってない。イザーク、お腹減ったでしょう?ご飯、作るから」


イザークの腕を振り解き、アスランは食事の支度をしようとする。
しかしその手を、イザークは押しとどめた。


「大丈夫だ。昨日の残りが、まだ鍋に残っていた。それを温めるから、お前は寝てろ」
「でも……!」
「いいから。しっかり休んで、早くよくなってくれ、アスラン」


イザークの言葉に、アスランは小さく頷いた。
それに、イザークもようやくほっとして笑顔を向ける。


「寒いか?」
「平気……」
「嘘を吐け、震えているくせに。ベッドにいろ。温めたら、食事を持ってくるから」


イザークの言葉に、頷く。
けれど、彼女は少なからず、傷ついていた。

何も、できないのだ、と。
幼くはあるが、アスランは本来意志の強い少女だ。
そこにある気質は、守られるだけでは良しとしないような、そんなところがある。
大事に大事に囲い込まれて、優しくされるだけを望まない。
できることがあれば、できることをする。それが、アスランの持つ性質だ。
それを、拒否されたと思った。


「役に立たなくて、ごめんなさい」
「アスラン?」


呟かれた言葉は、小さく。
だから聞き取れずに、彼は尋ね返した。


「何か言ったか?アスラン」
「……何も言ってない。心配かけて、ごめんなさい」
「いいさ。俺こそ、気づかなくて悪かった」


すまなそうに言うイザークに、食って掛かりたくなる。
子ども扱いするな、と。

確かに、イザークとアスランでは年が離れている。
イザークは、アスランより9つ年上だ。
それでも、アスランにだってできることはある。
確かに風邪を引いているようだが、何も動けないほどではない。
それなのに甘やかされていることが、妙に腹立たしい。
そんな自分にも、うんざりする。


「食事をして、今日は早く寝《やす》もう。な、アスラン」
「うん……」
「どうした?」


温めて皿によそった食事を持ってきたイザークが、アスランに尋ねる。
不機嫌そうな様子に、首を傾げた。
何か、気に障ることがあったのだろうか。
考えるが、彼には見当もつかない。
体調を崩して、気が立っているのだろう、と。それだけを考えた。






どんなことがあっても、君を守れると思っていた。

傍にさえいれば、守れると思っていた。

自分が傍にいる限り、どんなものからも守れると思っていた。

それさえも、驕りであったのかも知れない。



自分の無力さに絶望する日が来るなどと、思ってもみなかった――……。







『煉獄篇』スタートです。
副題のネタはダンテの『神曲』より。
『神曲』は読んだことないのですが……『カンタベリー物語』くらいですかね、読んだことあるのは。
『煉獄篇』だったか『地獄篇』だか判然としなかったので、言葉から『煉獄』を取りました。
『地獄』より『煉獄』のほうが好みだったというオチ。
いや、『煉獄』のほうが、苦痛すごそうだなぁ、って。

まだまだ『兄妹』な二人ですけど、これから少しずつ、異性としてお互いを意識していければいいなぁと思います。

ここまでお読みいただき、有難うございました。