そんなこと、思ったこともなかった。 君に、逢うまでは――……。 煉獄篇〜U〜 「風邪、染らないかな……」 不安そうに、少女が言う。 しかし、本当に隙間風の差し込む、部屋なのだ。 毛布だって、毛布などとは呼べないような、お粗末な代物だ。 十分な暖が取れるとは、思えない。 だから彼は、躊躇する少女に手を差し伸ばす。 「大丈夫。お前なんかとは、鍛え方が違うんだよ。……こっちにおいで」 言って、少女のスペースを確保してやる。 躊躇いがちに……それでも少女は、シーツの中に身を滑り込ませた。 小さな躯を、そっと抱きしめる。 「寒くないか?」 「うん、大丈夫。イザーク、あったかい……」 翡翠の瞳を細めて、猫のように擦り寄ってくる。 腕にかかる、確かな重み。 触れる温もりが、無性に愛しく感じられた。 小さな、ユダヤの血を引く少女。 世の中の辛酸を舐め尽した少女は、それでも生きようと懸命になっていて。 その姿には、素直に感銘を覚える。 与えられるものにすっかり慣れきってしまい、鬱屈したものを抱えていた自分とは、何と言う違いだろうか。 だからこそ、少女の温もりは、酷く尊いもののように感じられた。 「明日にでも、医者に来てもらうか?」 「何を言っているの、イザーク。そんなの、贅沢だよ」 「しかし……」 「そんなの、とんでもない。薬代だって、馬鹿にならないんだよ?そんな無駄な出費、出来るわけ無いでしょう?」 彼の言葉を、少女はそう切って捨てた。 それに、今更ながらに愕然とする。 ジュール家には、主治医がいた。 病にかかれば、最先端の医療によりその完治は約束されたも同然だった。 彼の常識において、医者を呼ぶことは、『贅沢』ではなかった。『当然』のことだったのだ。 それを、少女はこともなげに、『贅沢』と断じる。 それが、二人の生きてきた『世界』の差だった。 方や、名門ジュール家の嫡男。 方や、高級娼婦とは言え、社会の底辺を生きる娼婦。 彼らの生きてきた世界は、あまりにも違いすぎた。 それを、まざまざと思い知らされる。 彼らはあまりにも、異なる世界で生きすぎてしまった。 「でも、お前だって……」 思わず口をついて出そうになった言葉を、抑える。 確かに、数年前であったことのある、少女。 その頃はおそらく、彼と変わらない身分のものだっただろう。 そうでなくては、同じ場所に存在することなど、不可能なのだから。 けれど少女はその後、娼婦に身を堕とした。 そこから導き出される結論は、一つしかない。 彼女の親は彼女を捨てたか、死んでしまった、ということ。 思い出させるには、それはあまりに酷だ。 「イザークの言いたいことは、分かるよ」 「アスラン?」 「僕の、父上のこと、でしょ?」 普段は、どちらかというと鈍いくせに、こう言う時の勘のよさは、相変わらずだった。 勘と言うよりもおそらく、彼女はもともと聡明な女性なのだろう。 そう、イザークは思う。 「母上、父上に殺されたんだ……」 「え……?」 「父上は、母上のこと、ユダヤ人のクォーターだなんて、知らずに結婚したんだ。でも、それが露見して……父上が、母上を殺させた。事故に見せかけて。それから僕を……」 「もう、いい。話すな、アスラン」 震えながら呟かれる言葉は、彼にとっては衝撃的なものであった。 彼には、わからない。 祖国に忠誠を、捧げている。 国を愛している、と。きっぱりと言い切ることだって、できる。 しかし、彼は分からない。だからこそ、彼は分からないのだ。 何故、アーリア人とユダヤ人とを差別する? 彼らは同じ……この国の国民ではないのか。アーリア人だとか、ユダヤ人とか。そう言った区別こそが、何よりも愚かしいことではないのか。 彼は、そう感じずにはいられなかった。 「それまでは、僕も多分、イザークみたいな生活が、当たり前だったんだと思う」 けれどその『当たり前の生活』は、ある日いきなり終焉を迎えた。 破局は、父の妻殺し。 それにきっと、集約されるのだろう。 「アスラン、もういい。話すな」 「ううん。聞いて欲しい。 母が殺されて、暫く経ってから、僕は捨てられたよ、父に」 寒い、雪の日だった。 そんな日に捨てたのはおそらく、その日であればすぐに、死んでしまうとでも考えたのではないだろうか。 けれど、思惑は外れ、アスランは生き延びた。 「寒かった、すごく。寒くて、どこか暖かい場所に入りたくて。そのとき、かな。ほとんど拉致同然で、娼館に連れて行かれた。多分、あれは人買いだったんだと思う」 「それは……」 「お金を出さなくてもいい女だったから、彼らにとっても都合が良かったんだろうね。そのまま娼館に連れて行かれて……犯された」 淡々と告げられた言葉に、彼は息を呑んだ。 あまりにも赦しがたい、それは犯罪行為ではないか。 神父たちは、口々に言う。 娼婦などというものは穢れた存在で、そんなものに溺れるなど、悪魔が憑いたとしか思えない、と。あれは、神の恩寵、神の御心に背く者たちなのだ、と。 しかしそれを生んでいるのは、この歪みきった社会と、腐りきった大人たちではないのか。 「もう、いい。話すな、アスラン」 「聞いて欲しいんだ、イザーク。もう、ここまで話したでしょう?最後まで、聞いてよ。 5人ぐらいの男たちに取り囲まれて、ベッドに押さえつけられた。服を切り裂かれて、それだけで、身が竦んだ。ゲームのね、僕は景品だった。勝った順に、僕にのしかかってきた」 初めてのアスランの躯に、彼らはちっとも頓着しなかった。 惨めで……あまりにも惨めで、堪らなかった。 それでも、そうやって躯を売る以外に、生きる術などなかった。 「イザークみたいな人は、初めてだった」 彼はまず、怒ったのだ。 そんな生活を、続けざるを得ないアスランを、戒めた。 そして、彼は自分の生活を擲ってまでも、アスランを引き取ろうとしてくれた。 どれほど嬉しかったか。彼には、きっと分からない。 「軽蔑……する?」 ポツリ、とアスランは呟いた。 どこか、諦観さえ抱きながら。 けれどそれは、何れ言わねばならないことだった。本来ならば、もっと早くに言っておくべきことであったのかも、知れない。 本当は自分など、彼が意を解するようなそんな、上等な存在ではないということ。 早くに伝えておけば、彼は家を捨てることなんてなかったのかもしれない。 「軽蔑なんて、しないさ」 「イザーク……」 名前を呼ぶと、彼は少女を抱きしめる腕に力を込めた。 そのまま、より深く抱き寄せる。 真正面に、彼の顔がある。 でも、その腕に包まれて、その表情は判然としない。 近くで感じる温もりと彼の匂いに、何だか無性に泣きたくなった。 「軽蔑なんて、しない」 「でも……」 「今のお前に、そんなものは何の関係もない」 今の彼女は、彼にとってもう、妹のようなもの。誰よりも愛しいもの。ただ、それだけ。 それだけだ。 それ以外の過去など、彼は知らない。 過去に過ちを犯したからとて、それが一体、その人間にどのように負の方向に影響を与えるというのか。 ヒトとは、更正できるものだ。 ましてアスランは、自らの意思でそんなことをしていたわけではなく、半ば以上になし崩しだったのだろう。 そうしなければ生活できなかった。それを一体、誰に責められる。 「でも、イザーク」 「何だ?」 「汚らわしいと思うから、イザークは僕に触れないんでしょう?」 唐突な言葉に、彼は目を瞠る。 告げられた言葉は、思ってもみなかったことだったから。 けれど決して、そんなことはないから。 だから彼は、言葉を紡ぐ。 「そんなこと、思っていない」 「そうかなぁ……」 「アスラン、お前は何が言いたいんだ?」 「不安なだけだよ、イザーク」 やや不機嫌そうな彼に、少女はそう答えた。 「不安なだけ。本当に、それだけ。だって、イザークはいいところのご子息でしょう?今はこんな生活をしているけど、きっと家の人が黙っていないから。きっと、連れ戻されるから」 本当に、なぜこういうことの勘だけは、いいのだろうか。 やりにくくて、困る。 けれど、否定すべきところは、否定しておかなくては。 少なくとも彼に、実家に戻る意思などない。 彼の望みは、ただ一つだけだった。 祖国でも指折りの名家。それが彼の生家、ジュール家だ。 望めば、如何な贅沢も与えられる。彼は、そんな境遇に生まれた。 権利には、義務が伴う。 平民ならば望めぬ贅を受ける権利を持つ彼には、与えられた権利と等価の義務が要求される。 国家のため、誠心誠意奉仕すること。彼は自らの義務を、いつしかそう考え始めていた。 彼の祖国を、彼を育んだ祖国のために尽くすこと。それが、自分の権利であり、義務である、と。 出会った少女は、彼に現在の祖国の現実を教える存在だった。 矛盾。 懐疑。 そして、愛情。 それらの現実に、彼は少女の手を取った。 身を売ることを最大の悪徳といいながら、子を捨てるのは、親だ。 捨てられた子供は、泥棒や強盗、そして身を売る以外に、生活の術などない。 ――それは彼が感じた、矛盾。 なぜ、ユダヤの血を引くだけで、迫害せねばならないのか。 彼らとて、同じ国に住む国民。 民族は違えど、志を同じくするものではないのか。 同じ国で、長らく共に生活してきた者たちではないのか。 ――それは彼が抱いた、懐疑。 そして、それでもなお、自らを育んだ、祖国。 ――それは彼が抱きうる、祖国への愛情。 それらに今、彼の心は引き裂かれていた。 「不安なんだよ、イザーク。今が、あまりにも幸せだから。不安で、堪らなくなる」 「それは……」 「いつまで一緒にいられるんだろうって、考えてしまうんだ」 「……やはり、医者を呼ぼう、アスラン」 微熱程度とアスランは言うが、体調を崩しているからきっと、悲観的な言葉も零れるのだろう。 そう、彼は考えた。 「明日にでも、医者を呼ぼう」 「勿体無いよ、そんなの」 「お前の無事には、代えられない」 本当にそう、思えるから。 大丈夫。 きっと、大丈夫だ。 金は、何とか工面すればいい。 それよりも彼女が、心配だったから。 「この前の金、残っているか?」 「イザークが、髪を売って作ったお金?残ってるよ、もちろん。あれは、イザークのお金だから」 そう言って、アスランは自嘲気味に笑った。 自分は、役に立てない、と。彼女はそんな自身に絶望していた。 「あの金で、医者を呼ぶ」 「……イザークの、お金だから、好きにしていいよ」 漸く、少女は折れた。 それに、彼は頷く。 それから、やさしく言葉をかけた。 「アスラン……汚らわしいとか、そんなことは思っていない。誓って、思っていない」 「じゃあ、何で……?」 「もうお前に、躯を売らせたくないんだよ。俺にその躯を捧げるのは、生活のために売っているようなものだろう?そんなこと、させたくない」 「イザーク……それじゃあ信じられないよ……」 彼の胸に顔を埋めたまま、少女は嗚咽を噛み殺した。 その胸が、暖かなもので濡れる。 彼女が、泣いているのだ、と。彼は悟った。 「だって、自分でも、思うもの、汚らわしいって、思う。君のもとにはいられないって、思うから……」 苦鳴に彩られた声は、ただ悲しかった――……。 これって、イザーク犯罪者ですよね、現代だと。 社会人が14歳の女の子に手を出してるようなもんだよね……。 設定、現代じゃなくてよかった。 そしてプラトニックになりそうにありません。 何やってるんだ、アタシは。 ここまでお読みいただき、有難うございました。 |