守りたかった。

守りたかった。

守りたかった。

大切に、したかった。

君を傷つけたくなんて、なかった。



でも、俺は君を傷つけます。

……君を、大切に想っているから。










煉獄篇〜W〜









 翌日、イザークは医者を呼んだ。
 ただの町医者であるが、そこそこに評判のある人物だ。
 余り、法外な値段を吹っかけられなかったのも、有難かった。

 先の大戦に敗戦してからこっち、祖国は慢性的な不況に陥っていた。
 インフレによる貨幣価値の崩壊は、そのまま市民生活をも逼迫している。
 人々が強力な指導者を求めたのは、そのような生活を打倒するために見た、甘い幻想と言えたかもしれない。

 医者の前で小さくなりながら、アスランが診察を受けている。
 問診に受け答えるその言葉に、医者はふんふんと相槌を打った。


「何か、症状は?」
「ちょっと、微熱っぽい……です」
「なるほど。痰はどう?咳は出る?頭痛や吐き気はどうかな?」
「喉を痛めた……みたいですけど。咳は……ちょっと。頭痛や吐き気は、あまり感じないですけど……」
「喉を痛めた?どういうことかな?」


 見るものに威圧感を感じさせない、穏やかな調子で彼は言葉を紡いだ。
 明るい髪色のように、その性格も明るく、人為りも柔らかいようだ。


「この前、咳をしたあと、痰に血が混ざっていて。多分、喉を痛めているんだろうなぁ、って」


 少女の言葉に、彼は頷いた。
 脈を取ったり、一通りの検査を済ませると、人好きのする笑顔を、その端正な顔に浮かべる。


「そう。……風邪だな。最近、流行っているんだ。温かくして、栄養を取って。なるべく休養をとること。薬も、出しておくから、ちゃんと飲むんだ。いいね?」
「……はい」
「お兄さんに迷惑をかけるのが、心配か?でも、今無理をして拗らせると、余計に迷惑をかけることになる。だから、今はしっかりと休養をとること。いいね?」
「はい」


 ベッドに横になったまま、アスランは神妙な顔をして頷いた。
 確かに迷惑をかけるのは不本意だけれど、拗らせてより心配させるのは、もっと不本意だから。
 今は安静にすることを、約束する。
 頷くアスランに、医者も笑顔で頷いた。

 その様子を見ていたイザークは、話が終わったと判断すると、ベッドに横たわるアスランの前髪を、そっと払った。


「送ってくる」
「ん。分かった。行ってらっしゃい、イザーク」


 イザークの言葉に、アスランは答える。
 医者は、何か言いたげにイザークを見つめていた。
 その言葉を、聞かなくては。

 室外に出た医者の後を追って、イザークもまた、外に出たのだった――……。



**




「有難うございました、先生。謝礼のほうは……」


 イザークは、素直に頭を下げた。
 彼を知るものならば、それがどれだけ貴重であるか、きっと知っているだろう。
 名家の出身である彼は、謙譲の美徳には恵まれていない。殆どの者が、彼に傅く。それが、彼の世界では当然のことだったから。
 下層の生活に触れて漸く、イザークは他者に頭を下げる術を覚えた、と言える。
 きっと以前の彼を知るものならば、そんなイザークに驚くだろう。しかし、医者は彼の知人では、なかった。それが貴重なことであることなど、知りようもなかった。
 ただ彼は、怒っていた。


「お前……どうしてあの状態になるまで放っていた!?」
「え……?」
「兄なんだろう、あの子の!じゃあ何故、あんな状態になるまで気づかなかったんだ!?」
「どういう、ことですか……?」


 彼が言わんとしていることが、イザークには分からなかった。
 確かに、体調を崩していることに、気づかなかった。それに対しては、心の底から懺悔している。
 しかし、そうまで言われる所以が、分からなかった。


「詳しい検査をしなくては、確たることは言えない……言えないが……」
「言えないが、何です?」
「……あの子は、結核だ」
「……結核!?」


 それは、自身への死刑宣告よりも重く、イザークの中で響いた。

 結核は、死病だ。
 未だ、特効薬は存在していない。
 イザークに病気に関する知識は余りないが、その程度は知っている。結核が、死を意味することぐらい。


「あいつが……結核……?」
「まだ、ごくごく初期の段階だ。休養さえ取れば、確かに延命は可能だ……まだ、血は吐いていないようだし。だが……」


 彼の目が、痛ましげにイザークの身形を見て、泳いだ。
 貧しい、生活だ。
 嘗ての生活からは考えられない、底辺の暮らし。
 食事だって、アレが限界だ。栄養のあるもの、滋養にいいものなんて、イザークが仕事から得る金銭では到底、贖ってやれない。
 むざむざと、殺すことしか、出来ない。
 ころすしか、できない。
 今の彼では、彼女を。
 いかしてやることも、できない。


「そんな……俺は……」


 彼女を、守りたかったんだ。
 ただ、それだけだった。
 傍にいて、微笑んで。
 それだけで、十分だった。

 小さな小さな、ユダヤの血を引く少女。
 笑顔の愛しい、少女。
 たくさんの悪意に踏みつけられ傷ついても、優しく微笑む少女を。
 守りたかっただけ、なのに――……。

 それなのに、現実は。
 現実は、大切な少女を生かす力さえも、彼にはなかった。
 嘗ての彼ならば、可能だった。
 戦争に傾く祖国ではあるが、彼の実家は裕福だ。
 その金庫には、唸るほどの金が眠っている。
 嘗ての彼ならば、可能だった。
 けれど今の彼は、少女が病み衰えて死んでいく様を、指を咥えて見ていることしか、出来ない。


「残り少ない、余生だ。せめて彼女が幸せであるようにしてやれ……」


 哀れみから出たであろう医者の言葉は、彼の耳に入らなかった。
 ふらふらと、彼は路地裏へと歩く。
 まるで酔っ払いのように、その足取りは覚束ない。

 もう少し、言葉を選ぶべきだったか、と。医者は溜息を吐いた。
 けれどどれだけ言葉を飾っても、あの少女の命の日が残り少ないことは、事実だった。
 あの生活水準を見れば、遠からず彼女は死んでしまうだろう。それを止める術など、いかに医学の研鑽を積んできた彼とて、その手にしていない。
 せめて、と。
 せめてあの少女の残り少ない人生が、幸せなものであるよう。彼は祈り、願うことしか出来ない。

 痛ましげに、彼はその瞳を、伏せた――……。



**




 ふらふらとした足取りで路地裏へ赴いたイザークは、その壁に身を預けた。
 思っても、みなかった。
 こんなこと、思ってもみなかった。

 ただ、目の前が漆黒の闇に閉ざされてしまったかのような、そんな感覚しかない。
 守れない。
 守ってやれない。
 今の、彼では。
 あの、少女を。
 精一杯生きる、愛しい少女を。
 死なせるしか、出来ない。

 生きて欲しい。
 切に、願う。
 生きて欲しい。
 まだ、たったの14歳なのだ、彼女は。

 決然とした面持ちで、彼は顔を上げた。
 そのまま真っ直ぐと、彼は足早に駆けていく。
 もう二度と、戻らぬと決めた場所へ。



 自ら戻らぬと決め、擲った場所に帰ることは、彼の高すぎるプライドを思えば、とても容易なことではなかった。
 それでも。
 このままでは、何も出来ないのだ。

 そう思えば、彼の思考は容易にその答えに辿り着く。
 力が、欲しかった。
 大切な少女を、守れるだけの力が、欲しかった。
 その力は、このままでは手にすること叶わぬもので。
 だからこそ、仕方がなかった。

 大切なものを守るためなら、プライドに固執するなど愚かの極みでしか、ないのだから。
 唇を、噛み締める。
 面会を、受け入れてもらえるかは、分からない。
 けれど、もう。
 これしか道は、なかった。


――――『残り少ない余生だ。せめて彼女が、幸せであるようにしてやれ』――――



 明るい頭髪と、人好きのする笑顔を持った医者は、そう言った。
 けれど幸せな余生に、一体何の意味があるだろう。
 そんなの、自己弁護に過ぎない。

 ほんの少し。ほんの少しの先に、もう一つの未来がある。
 そんなもの、所詮まやかしに過ぎないのかもしれない。
 どれだけ願っても祈っても、彼女の命は、残り少なくなっているのかもしれない。
 それでも、確かにもう一つ、選べばもう一つの未来が、ある。
 何もせずに、むざむざと死なせずとも。彼女を守れるだけの力を得られる現実が、存在している。
 その道を選ばず、少女の死を嘆いてもそれは、ただの自己弁護だ。出来ることは、他にある。もう一つ存在する現実は、彼にそれを教えていた。

 愛しい少女を、守る。そのための力が、欲しかった。
 それさえもきっと、ある種の自己弁護に過ぎないことくらい、分かっていたけれど。それでも、どうしても欲しかったから。

 そして聳え立つ白亜の邸宅に、彼は赴いた。
 来訪の理由を問われ、彼は躊躇しながら、唇を開く。


「エザリア=ジュールの嫡子、イザーク=ジュールだ。母上に、お目にかかりたい」


 軋む音を立てて、門扉が開かれる。
 彼の母、エザリア=ジュールはどうやら、面会に応じてくれるらしい。

 ぐっと唇を、噛み締める。
 大切な少女を守るために、彼は一歩、足を踏み入れた。

 それしか、彼に出来ることは、なかったから――……。



**




「……ただいま」
「お帰りなさい、イザーク」
「ただいま、アスラン。ちゃんと寝ていたか?」
「うん。なんだか、眠くて。ごめんなさい。今、夕食の支度を……」


 帰宅した彼を、優しい声が出迎えた。
 ベッドに横たわったアスランが、起き上がり彼の元へ歩み寄ろうとするのを、手を上げて制する。


「市に、食事の配給が来ていた。ついでに、貰ってきたぞ」
「そっか。有難う、イザーク」
「気にするな。暖めて持っていくから、まだ横になっていろ、アスラン」


 イザークの言葉に、アスランは頷いた。
 本当は、市に配給なんてきていない。
 それは、彼が生家から持ち帰ったものだ。

 すっかりやつれたイザークを、彼の母親がすっかり案じて。
 食事をしていくよう言ったのだが、彼は断ったから。
 だって、部屋では大切な少女が、待っている。

 断った彼に、彼女は食事の入った鍋を持ち帰るよう、言ったのだ。

 鍋に入っていたのは、レバー団子のスープ。
 そして、パンを持たされた。
 彼女としては、溺愛する一人息子にもっと、何か持たせてやりたかったに違いない。
 けれどそれ以上手にするのは不可能だったし……何より、アスランが怪しむ。
 彼女は、勘がいいから。

 温めながら、団子を細かく潰した。
 アスランの拳ほどの大きさのあるそれは、さすがに大きすぎる。配給で、そんなにも大きな肉が供されることはない。
 それに、きっと飲み込みづらいだろうから。


「食事にしよう、アスラン」
「うん。……わぁ。レバー団子のスープ」
「配給があっただけでもラッキーなのに、これはかなりついてたな。……それを食べたら、薬を飲んで寝ろよ、アスラン」
「うん」


 少女は、頷く。
 けれど次の瞬間、小首を傾げた。


「イザーク、何かあった?」
「別に……如何したんだ、アスラン。そんなこと言って」
「うぅん。ただ……ただ、イザークが、遠くに感じた気がしたから……気のせいだよね、ごめん」


 少女の言葉に、彼はぎくりと躯を強張らせた。
 けれど少女が、その変化に気づいた様子はない。
 安堵の溜息を吐いて、彼は少女を見やった。

 小さな小さな、少女。
 彼女を、守りたいと、思うから。
 そのためなら、何をも厭わない。


 彼が元気のないようだと、彼女は考えたのだろうか。
 努めて明るく、振舞おうとする。
 笑顔を絶やさずに、何気ない日常を嬉しそうに話す。

 その笑顔が、愛しかった。
 どこか陰りを帯びた笑みも何もかも、愛しかったから。

 この笑顔を、覚えておこうと、思う。
 ずっとずっと、この先何があっても、忘れることのない様に。
 網膜に……脳裏に……全てに、焼き付けて。






 やがて眠ってしまった少女の前髪をかき上げて、その額に口付けを、贈った。


「さようならだ、アスラン……」


 安らかな寝顔に、話しかける。
 もう、二度と少女に、触れることはない。
 この目が彼女の姿を映すのも、今宵限り。


「生きて、くれ……」


 この世界の片隅で。
 君の無事だけを、願うから。
 例えもう二度と、君に見えること叶わなくとも――……。











 『Ragnarok-神々の黄昏-』煉獄篇第4話をお届け致します。
 漸く、設定に記載いたしました『結核を患っている』が現実のものとなりました。

 多分イザークもアスランも、お互いを兄や妹のようにしか認識していないと思います。
 恋と言うよりもまだ、肉親への愛情に近い感情だと、思います。
 だからこそ、情熱とは程遠い選択が、できるのではないか、と。
 相手を異性として認識して、そして愛情を抱いていたならおそらく、一緒に死ぬ道を選ぶのでは、ないでしょうか。自殺は、カトリックにとって大罪ではありますけれど。
 そう言う、まだしも情熱的な選択が、有得ると思うのです。

 此処までお読みいただき、有難うございました。