空は、見えるのだろうか。 天上篇〜T〜 「……ミゲル。……貴様が、此処にいるとはな」 本部にやってきた彼を迎えたのは、彼より幾分年長の青年だった。 金色の髪に、金に近い琥珀の目を有する、精悍な青年が、人懐こく笑いかける。 以前からの、知り合いだ。 それも、『友人』に分類される。 「家に戻った、ってとこかな?」 「……あぁ。何故、貴様が俺が家を出ていたことを、知っている?」 友人とは言え、彼に話した覚えはなかった。 それほどまでの付き合いは、ない。 ただその青年――ミゲル=アイマン――は、元来面倒見のいい世話焼きタイプの人間で、年少であるイザークを構いつけていたから、どこかから情報を手に入れたのかもしれない。 構いつけて面倒を見ていると見せかけて、イザークで遊んでいる、と言う説もあるが。 「社交界では、結構評判だったぜ?あのイザーク=ジュールが乱心した、ってな」 「何……だと!?」 「俺に怒っても、しょうがない。俺が言ったわけじゃないんだから」 白皙の頬を怒気で朱に染めて、イザークはミゲルに食って掛かろうとするが、それは不発に終わった。 ミゲルの方が先に、イザークの怒気に釘を刺したから。 「……お前が、下層の生活に身を堕とすなんて、思ってもみなかった」 「ミゲル……」 「相談ぐらい、してくれても良かったんじゃないのか?ディアッカも、ラスティもそう言っていた。何でイザークは、俺たちに相談してくれなかったんだ、って。お前に、そんな生活……」 似合わねぇよ、と。吐き捨てるようにミゲルは呟いた。 彼が上げた友人たちの名前を耳にして、今更ながらに酷い裏切りを働いたと、思う。 彼女と生きようとしたことではなく、そう決断するまで誰にも何も明かさなかった。気にかけてくれる人たちに、何も言わずに。 でも、言えば反対されることは、分かっていたから。 大切な大切な、愛しい少女。 彼女を守るためだけに、生きれたらよかった。 「シホ嬢には、あったのか?」 「……まだ、だ」 「早く顔を見せてやれよ。彼女もきっと、喜ぶ。大切なお兄様の帰りを、あの子はずっと待っていたんだからな」 あぁでも、もう少し太ってから彼女にあったほうがいいかもしれないな、と言って。ミゲルは笑った。 すっかり痩せてしまった躯に、短く切られた印象的な銀糸。 きっと彼女は、驚くだろう。その変わりように。 シホ。 シホ=ハーネンフース。 イザーク=ジュールの、婚約者。 彼女との婚約は、幼い頃より決められていたものなのだから。 黒髪にアメジストの瞳が印象的な、美しい女性。 イザークより年少であるが故に、彼女はイザークを兄のようにも慕っていた。 けれどイザークは彼女を、『守りたい』とは、思わなかった。 大切に慈しんで、大切に守って。その幸せだけを願ったのは、ただ一人の存在のみ。 幼い頃から定められた相手さえも、彼の情熱の対象にはなり得なかった。 「あぁ、そうだな……」 彼女はきっと、イザークの帰りを喜ぶだろう。 その身の無事を、寿ぐだろう。 イザークはもう、彼女を愛することなどできないと言うのに。 最初はきっと、幼い反発心から始まったのだ。 家のために生きるのも、国家のために生きるのも当然だったのに、どこか納得していなかった。そんな反発心が、きっと彼の胸の内に長い時間をかけて蓄積されたのだろう。 少女を、守りたいと思った。 少女を、大切にしたいと思った。 愚かな綺麗事は、もっと愚かな自己欺瞞から始まっていた。 何て愚かな、幼い自分。 「イザーク」 「何だ?」 「お前が帰ってきてくれて、良かった。お前には、この国を支えていくだけの、力があるから。その力、無駄にすんなよ」 「……そうだな」 力づけるように言う彼の言葉に、頷いた。 力を、尽くすよ。 力を、尽くさねば。 功績を上げ、高い地位に就かねば。 彼女の命を贖う、金が必要なのだから。 彼女の安全を約束してやれるだけの高い、地位が必要なのだから。 「力を、尽くすさ」 愛する、少女のために。 そのために、力を欲したのだから――……。 粗末なベッドの上で、小さな少女が膝を抱えている。 粗末だが、その身の回りのものは、清潔で。 泣き付かれて、漸く今こうして過ごしている施設に辿り付いた時、彼女は恐怖の余り気を失った。 ゲットーに、間違いないと思ったから。 それは、彼女にとって根源的な恐怖を呼び起こす場所だ。その場所の悲惨さは、誰もが口伝えで聞き知っている。 生きて帰れることは、絶対に、ない。 その場所に送り込んだのが、兄と慕っていた青年であったことが、哀しかった。 けれどアスランは同時に、その事実をしっかりと受け入れてもいた。 その運命を、彼女はしなやかに受け入れた。 その身が、ユダヤの血を引くと言う、こと。その事実は、変わらない。 それでも、優しくしてくれた人が、いた。 それも、変わらないことだ。 何か事情があったのかもしれない。何かあったのかもしれない。彼が心変わりするきっかけが、あったのかもしれない。 それでも、彼は優しくしてくれた。 優しく、アスランを受け入れてくれた。 だから、彼を憎むようなことは絶対に、しない。 そう、決めて。 目覚めたアスランを迎えたのは、病院だった。 粗末なベッドの上に、膝を抱えて蹲る。 二人で住んでいたあの部屋は、此処よりずっと粗末なものだったのに。あの部屋の方が暖かかったように感じるのは、どうしてなのだろう。 どうして、ゲットー送りにするでもなく、此処に連れてこられたのだろう。 そしてイザークは何故、あんなことを言ったのだろう。 イザークを憎むようなことは、絶対にしない。 でも、その本心が知りたくて、堪らなかった。 「イザーク……」 彼の、名前を。 そっとアスランは、その唇に乗せた。 どうして急に、実家に戻ったのだろう。どうして繋いでくれていた手を、離したのだろう。 言葉にしてくれたら、良かったのに。 そうすれば、出て行ったのに。彼の、足枷にはなりたくなかったから。 話してくれたら、よかったのに。 話してくれたら、よかった。 どんな罵倒の言葉も、受け入れたのに。 出て行け、と。お前は要らない、と。言ってくれれば。 不要になったと、言ってくれればよかったのに。 何で彼は、そんなことを言わなかったのだろう。 家に帰る。 下層の生活は無理だ。 彼が口にしたのは、それだけ。 汚らわしいユダヤ人、と。彼は言ったけれど。その声は、あんなにも震えていた……。 そして送り込まれた先は、此処だ。 この手でゲットーに送り込まなかっただけ感謝しろ、と。彼は言った。送り込めば、すむはずだったのに。 ゲットーではなく、病院に送られたことが余計に、アスランを混乱させる。 一体何故、ゲットーに送らなかったのだろう。汚らわしいユダヤ人というなら、ゲットーに送ればいいのに。 蹲り考え込むアスランの耳に、靴音が聞こえた。 看護婦のものとは、違う。 靴音の種類が、違うような気が、して。 イザーク、だろうか。 この場所を知っているのは、イザークぐらいだろう。 足音は、まっすぐこちらに向かっているように、思われる。 もしかしたら、イザークが? 今度こそ、ゲットーに送るのだろうか。 そう思うと、恐怖に身が竦む。 けれどそれでも、いいと思った。 もう一度、イザークに逢えるなら。ちゃんと彼の言葉を、聞きたい。 だから一度、翡翠の瞳をきゅっと閉じて。 覚悟を決めて、開いた。 足音が、止まる。 アスランは身支度を、整えた。 といっても、髪を手で撫で付けて、服の裾を直したくらいだけど。 イザークがくれた白のリボンは、相変わらず彼女の髪を纏めている。 祈るような思いで、扉が開くのを、待った。 「……イザー……!?」 「あっちゃぁ〜。部屋、間違えちまったかな……」 開け放たれた扉から姿を現したのは、見慣れた白皙と銀糸ではなく。 小麦色の肌にアメジストの瞳の、精悍な容姿の、青年だった――……。 白亜の邸宅に似た、広大な邸宅の前に、彼は立っていた。 一通りの身嗜みは、整えているけれど。 彼女は、驚くかもしれない。 以前の彼のものよりも、短くなってしまった髪。 やつれた、躯。 彼女は、驚くだろう。 執事に案内され、彼は彼女の部屋へ辿りついた。 「イザーク兄様!」 「……シホ。久しぶりだ」 硬質の美貌に笑みの欠片を浮かべて駆け寄る定められた婚約者に、彼は苦笑しながらその手を取る。 紳士の礼をとってその指先に口付けると、彼女ははにかみながら微笑んだ。 「お久しぶりです、イザーク兄様」 「シホ、その『兄様』というのは……」 やめて欲しい、と。彼は言った。 庇護の対象としての『妹』は、彼女ではないから。 シホ=ハーネンフースは、社交界の高嶺の花、といわれている。 優雅な立ち居振る舞いと、凛とした風情。 整った美貌は、滅多に笑みを浮かべることはないが、それでも必要な場面で浮かべられる微笑は、それが滅多に拝めるものではないからこそ余計に、麗しい。 貴婦人として必要なことはしっかりと心得、かつ探究心の旺盛な彼女の教養は、並みの貴婦人ならば太刀打ちすることさえ難しい。 その頭脳、その教養を、誇らしく思っていた。 彼女を、『婚約者』と思うことは、難しかったけれど。 「本日は、どのような御用がおありなのですか?」 「シホ、俺と……」 「あぁ……!私とイザーク兄様の結婚が、決まったのですね?」 彼の言葉を引き継いで、彼女が嬉しそうに言った。 そう。彼女はそう、言うだろう。 幼い頃から傾けられる好意を、知っていたから。 幼い頃から、彼女が彼を慕っていることを、彼は知っていたから。 その行為を、嬉しく思っていたけれど。 同時にきっと、重く感じていた。 彼女の好意は、本当に純粋で。 純粋であるが故に、重たかった。彼女を、そう言う対象でみることが、できなかったから。 「あぁ……決まった」 「嬉しい……」 嬉しそうに、彼女は彼に抱きついた。 抱きついてくる彼女を、彼は抱きとめ、抱きしめた。 嗚呼、またこうして罪を犯す。 ひたむきな愛情を傾ける彼女の心を、彼は裏切るだろう。 彼の心に、シホへの気持ちなど、ないから。 いや、あるのかもしれない。それはでも、あくまでも『哀れみ』の感情だ。 彼女を想えない男を、ひたむきに愛する彼女が、哀れだから。 その感情だけが、彼から彼女へ向かっていた。 「今日は、食事をしていかれるのでしょう?」 「あぁ、そのつもりだ」 母にはそう、命じられている。 彼女は、彼の婚約者なのだから。 うっとりとアメジストの瞳を伏せる彼女に目線を合わせて、彼はそっと屈み込んだ。 その両頬を掌で包んで、艶やかな彼女の唇に、そっと口付けを落とした――……。 天上篇、スタートいたしました。 天上篇が一番、長くなるかもしれない……。 誰だよ。10話いかないだろうから、長編じゃなく中篇だなぁとかいったのは。 立派に長編の仲間入りな気がしてやまないのですが。 |