こうしてまた、俺は罪を重ねる。

俺を愛してくれる人の好意を、踏み躙る。

それでも、アスラン。

君だけを、想っている。

この世界の片隅で、君の幸福だけを祈る。



それも所詮、俺の傲慢だけど――……。






天上篇〜U〜





「あの、ディアッカさん……ですか?」
「ディアッカでいいよ、ディアッカで。それと、敬語も要らないから」
「いえ、そう言うわけには。僕より年上の方みたいですから、やっぱりちゃんと話さなきゃ」


 手をぴらぴらさせて、軽い調子で言う青年に、アスランは生真面目に答えた。
 年は、イザークと同じくらい、だろうか。
 けれど、イザークとは随分と雰囲気が違うな、と思う。

 イザークは真面目で。生真面目すぎるくらい、真面目で。
 堅物の印象が強かったけれど。目の前の人は、どうもその真逆のように感じる。


「君の名前は?」
「アスランです」
「アスランちゃん、ね……それで、アスランちゃんはどうして、此処に?」
「デイアッカさんこそ、どうして此処にいるんですか?見たところ、病気には見えませんけど……」


 少女の言葉に、思わずディアッカは舌打ちを噛み殺した。
 見た目に騙されるな、と。彼の幼馴染は言っていた。
 儚く繊細そうな外見を裏切って、芯の強い少女だ、と。自分のこととなると鈍いが、人のこととなると以上に勘が鋭いとも。
 彼の言葉は、真実を的確に表していた、と。思わずにはいられない。


「俺?俺は、知り合いの見舞い。病気で、此処に入っているから」
「そうですか……お気の毒です。その方、早くよくなるといいですね……」


 繊細な容貌に憂いを乗せて、少女はそう、口にした。
 その言葉に、悟る。
 彼女はおそらく、自分が病魔に冒されていることを、知らないのだろう。
 だからこそ、そんなことを言える。
 「早くよくなれば」と。もしも自身を冒す病名を知り、此処がどのような場所であるか知っていれば、そんなことは言えまい。
 此処は、サナトリウム。
 結核に冒された患者が収容される場所であり、彼女は結核に冒されているのだから。
 死病といわれる、その病気に。


(そうまで、こんな子供を愛したのかよ、お前は……)


 親友の怜悧な容貌を思い出し、ディアッカは溜息混じりに思う。

 完璧な男、だった。
 それは時折劣等感を刺激し、けれどその強烈過ぎる個性が、彼から目を逸らすことを許さない。
 イザーク=ジュールとは、そんな男だった。
 高潔で、誇り高く。挑むような眼差しをする彼に劣等感を抱きつつ、それでも離れることなど考えもしなかった。
 常に、共に在るのだと思っていた。彼とは、親友であり。彼とは、常に同じものを見ていくのだろう、と。
 そんな男が、ある日いきなり実家を勘当された。
 下町で下層の生活を送る、それだけでも驚いたのに。
 もっと驚いたのは、彼の傍らには小さな少女の姿があること、だった。

 上流の人間が、幼い少女を愛玩することはよくある話だ。
 けれどイザークに関して言えば、そんな趣味とは縁遠かったはずだ。
 彼は、人形のような女を好まない。
 彼に刃向かう女、彼と対等の女、優れた女を好む。
 そんな彼が、幼い少女を愛玩するとは、とても思えなかった。

 けれど、彼はその少女のために約束されたもの全てを擲った。
 そのような情熱とは、最も無縁だと思っていたのに。

 あの時の焦燥が、イザークに分かるだろうか。
 共に在り続けると思った男の予期せぬ行動に覚えた焦燥が、彼に分かるのか。
 きっと、分かるまい、と思う。


「アスランちゃんは?」
「僕?僕は……優しい人が、連れてきてくださいました」


 にこりと笑って、アスランは答えた。
 イザークの不利になるようなことは、したくなかった。
 彼が家に帰ったのだとしたら、なおさら。
 それはあくまでも、キリストの慈善でなくてはならない。
 富裕な人間が、下層の娘に施しをするのは、当たり前だから。


「へぇ……随分と優しい人間がいたもんだねぇ……」
「えぇ、本当に。いくら感謝しても、したりな……」


 そう口にした途端、込み上げてくるものが、あった。

 嘘だ。
 感謝なんて、していない。
 こんなところに連れてこられるより、彼とずっと一緒にいたかった。
 どんなに貧乏な暮らしでも、構わない。
 彼の傍に、いたかった。
 傍に置いてくれるなら、どんなことだってしたのに。

 でも、それは自分の我侭だ、と。アスランの理性が感情を宥めた。
 それは、アスランの我侭だ。
 彼には、約束された未来があった。
 それを捨てさせるなんて、そんなこと。そんなことは、してはいけない。
 彼が家に戻ったのは、正しいことだ。
 彼には、下層の生活なんて、似合わないから。



 ディアッカの目から見て、目の前の少女のどこにも、あのイザーク=ジュールを捕らえる要素などないような気が、して。
 余計に彼の行動が、分からなかった。

 与えられる筈の物を、捨て。
 しかし少女が病に冒されたと知るや否や、あれほどプライドの高かった男は頭を下げてまで実家に帰った。
 彼の行動のわけが、分からない。
 あの男は、本当に。本当に、こんな幼い少女を愛したのだろうか。

 考え込むディアッカの目に、嗚咽を噛み殺す少女の姿が、映った。
 粗末なシーツを握り締めて、懸命に嗚咽を堪えている。
 泣けないんだな、と。ディアッカは思った。
 大声で、泣くことが出来ないのだろう。
 いつも嗚咽を噛み殺して、何事もない様に振舞って。そうやって自分を守りながら、生きてきたのかもしれない。
 そんな少女が、哀れで。
 でも、それでもやはり、あの男がこの少女を愛した理由が分からなかった。

 彼には、約束された婚約者がいた。
 社交界の高嶺の花、シホ=ハーネンフースが。
 彼女との婚約が決まった折、たくさんの男たちが彼をやっかんだというのに。

 何よりシホは、彼を愛しているというのに。
 それなのに、あの男が選んだのは、こんな年端も行かない子供なのか。


「此処に来る前は、どこで何をしていたの?」
「……その人に、ご迷惑をかけることになりますから」
「大丈夫だよ」
「いいえ。その人にご迷惑をかけることになりますから。……客引きを、していたんです、街頭で」
「……え!?」
「娼婦でしたから」


 淡々と、少女は答える。
 苦界に身を堕としたことを語り、あくまでもイザーク=ジュールと過ごした日々を語るまいとする彼女に、ディアッカは思う。

 弱いだけの少女じゃ、ない。
 イザークが語ったのは、本当に真実だったのだ、と――……。



**




 目を通さねばならない書類を引っ張り出して、ページを繰る。
 ブックマークレット代わりに挟み込んでいる、薄汚い飾り紐。
 大切な幼い少女が彼に贈ったそれは、決して綺麗なものではなくて。
 縒り合せた糸がもともと汚れていたから、上流の人間は手を触れるもおぞましいと言う顔をするだろうけど。
 彼にとっては、大切なものだ。

 そっと、指先がそれに触れる。
 うっすらと、彼は微笑んだ。


「アスラン……幸せか?」


 彼女に、問うことは出来ないけれど。
 幸せだろうか、あの少女は。
 食事は、ちゃんとしているだろうか。
 嫌いなものは、こっそり彼の皿にいれることも、あった。
 発覚して、怒って。無理矢理彼女の口の中に押し込んで。
 そんな、兄妹じみたやり取りが、無性に恋しい。


「幸せか……?アスラン」


 病気の進行は、どうなのだろう。
 血を吐いてしまえば、いくら自分のことには鈍い彼女も、気づいてしまうかもしれない。もともとは、とても敏い少女だから。
 気づかなければ、いい。
 一生気づかずに、幸せな思いだけをしてくれれば、いいのに。
 あれだけの苦境を舐めた少女に対して、神は残酷だ。


「イザーク」
「帰ってきたのか、ディアッカ。……様子は、どうだった?」
「……泣いてた。お前がいなくて、あの子泣いてたよ」
「そうか……」


 眼裏に蘇るのは、泣いている顔ばかりな気がする。
 あの笑顔を、覚えていたかったのに。
 現実に、今でもありありと思い起こされるのは、あの少女が涙に暮れている姿、だった。
 最後の日。その手を、振り解いた日。
 我侭を言わない彼女は、泣きながら彼に縋り付いて来た。
 彼女の、それが最初で最後の我侭。
それを、叶えてはやれなかった。


「白いリボンを、していたな。大切そうに、していた」
「……本当か?」


 彼女に贈った、白いリボン。
 今の彼ならば、もっと高価なものだってやれるけど、あの頃はあれが精一杯だった。
 もう、とっくに焼き捨てたと思ったのに。
 彼女を傷つけ捨てた男が贈ったものなど、焼き捨てるのが、正しいのに。
 まだあの少女は、それを持っているということか。


「イザーク、お前……本気で、あの娘を愛したのか?」
「まさか。ただの、戯れさ」
「嘘だ。お前に戯れであんな娘を愛玩できるはずがない」


 イザークの言葉を、ディアッカは即座に切って捨てた。
 イザークにそんなこと、できる筈がないのだ。
 彼は、潔癖症だから。
 女のことでさえ、潔癖を求める彼が、あんなにも幼い少女を愛玩するはずがない。


「ディアッカ、あれの様子を見てきてくれたことに関しては、感謝する。しかし、これ以上貴様が俺のことに踏み込んでくることは許さん」
「イザーク?」
「これは、俺の問題だ。……捨て置け」


 多分、誰にも分からないのかも、知れない。
 愛玩したのでは、なかった。
 愛しいと思ったのは、あくまでも兄としてのそれだった、と。今でも思う。
 それでも、大切だった。
 それでも、あの少女が愛しかった。
 大切だった。本当に、大切だった。


「分かった……」


 それだけ言って、ディアッカが姿を消す。
 彼に言えないことが、どんどん増えていく気が、する。
 親友、だった。
 幼い頃からの、友人だったのに。
 そんな彼にも、言えなくて。

 やはり、選んでしまったのだ、と思う。
 あの時、選んでしまった。
 少女一人とその残り全てを秤にかけて、少女を選んでしまった。少女を引き取ると決めた、あの日に。


 ディアッカの友情も、ミゲルの友情も。シホの愛情も母の愛情も。
 どれもあの日、擲つ覚悟を決めたもの、で。
 懸命な愛情も献身も、だから今は以前よりも重い。
 そんなものを受け取る資格など、ないのに。そんなもの、自ら擲った。あの少女のために。


「これも、業だな……」


 これからも、踏み躙り続ける。
 愛情も、献身も。友情も全て、彼は一度自ら擲ったものだったから。
 そして今も、少女の生だけを第一に考えてしまっているから。
 でも……。


「泣いているのか、アスラン……」


 君の幸せだけを、願っているのに。
 彼女は泣いているのだろうか。


「幸せを、願っている……」


 誰よりも、何よりも。
 彼女の幸せだけを、願っているから。

 もう二度と、この手に君を触れることは、ないだろうけど。
 もう二度と、この腕が君を抱くことはないだろうけど。
 ただ、君の幸せだけを、願っているから。

 君の幸せ贖うためなら、何だってして見せよう。
 それが君を傷つけることになってももう、躊躇いはない。
 力が、必要なのだ。
 彼女の命を贖うに、金が必要なのだ。
 彼女に安全な場所を提供できるだけの力が、必要なのだ。

 彼には、それだけしかできないのだから。
 それ以外の何も、彼にはできない。

 病を治してやることなんて、彼にはできない。
 彼にできるのはせいぜい、滋養にいいものを食べさせて、安らかに眠れる場所を提供してやるために、彼女の同胞を殺めることだけだ。

 それでも、少女のために、できることがある。
 ただ、どうか……。


「泣くな……アスラン。こんな男は、さっさと忘れろ。忘れて、幸せになれ……」


 それだけを、祈る。
 それだけを、願うから。
 うっすらと、彼は笑った――……。



**




 腕に抱いた少女の健やかな寝息が、胸にかかった。
 新床の花嫁らしい初々しい振る舞いが、好ましく。
 まだ男を知らない少女の、けれど信頼に満ちた眼差しに、罪悪感を刺激された。
 それでも、懸命に彼のために躯を開いた、少女。


「シホ……」


 額にかかる前髪を、そっと払う。
 華奢ではあるが、少女らしい丸みを帯びた躯は、柔らかい。

 愛せるだろうか、彼女を。
 シホ=ハーネンフースを、イザーク=ジュールは、愛せるだろうか。
 答えは、否だった。

 愛せは、しまい。
 彼には既に、その情熱の全てを捧げる対象が、あるから。例えそれが、男女の情ではないにしても。
 彼にとってその情熱は全て、小さなユダヤの少女の上に、あるから。
 愛せは、しまい。

 真っ白い少女の腕は、イザークの背に廻っている。
 しがみついて果てた彼女の顔には、涙の筋が幾筋か、残っていた。

 そっと、手触りのよい髪を、撫でる。

 愛せは、しないだろう。
 だからこそ、この腕の少女にそれを、気づかせてはならない。
 それは、哀れみゆえのものかもしれないけれど。
 気づかせては、ならない。

 彼女を、第一に考えよう。
 彼女を愛しているように、自分も周囲も偽って。
 それしか、彼は彼女にしてやれない。
 それさえも、彼女の好意を踏み躙るものだと、知っているけれど。



 それしか、彼にはできなかった――……。











 『Ragnarok-神々の黄昏-』、天上篇第2話をお届けいたします。
 今回は、ちょこっとイザシホ風味、でしたが。
 苦手な方もいらっしゃるやも知れませんが、なかったら今後のストーリー展開にも差し支えますので、入れさせていただきました。
 苦情は、できれば無しの方向でお願いしたく……。

 最終章、天上篇は、とにかく色々とザフトっ子が登場しまくっていて、書いている本人も楽しいです。
 『Ragnarok』は、切ないけど、最後の最後にほんの少しだけ、幸せな気持ちになれるような、そんなお話になればいいなぁ、と。
 思います、が。
 表現力の欠如が……あぁぁ。
 もっとちゃんと、文章力養うんだった。
 とか、今更ながらに後悔してみます。

 此処までお読みいただき、有難うございました。