私は貴方を、赦すから――……。 天上篇〜V〜 路地裏に逃げ込んだ共産主義者を追い詰め、警棒で叩き伏せる。 本来ならば下っ端のやることだが、仕方がない。まんまと連中は撒かれてしまったのだから。 鼻血が吹き出て、ぬるりとした感触が袖口を汚したが、別にそれに頓着することはなかった。 もう、慣れた。 「中佐殿!お手を煩わせまして、申し訳ございません!」 「馬鹿者!たかだか共産主義者どもに撒かれるとは、貴様ら恥を知れ!」 「申し訳ございませんでした!」 ピシッと、一様に敬礼をするのは、彼の部下たちだ。 イザーク=ジュールは気難しく、そして規律や軍規に厳しいと認識されている。 関わらないに、越したことはないのだ。 色素の薄すぎる白皙も、苛烈すぎる蒼氷の瞳も、部下たちからすれば畏怖するに十分だった。 「お疲れさん、イザーク」 「あぁ、ラスティ」 本部に戻ると、ラスティがイザークを迎えた。 幼い頃から付き合いのある、彼もイザークの友人の一人だ。 家格は、イザークの生家、ジュール家よりやや落ちる。 だがそれも仕方のない話で、ジュール家よりも家格が上の家など、数えるほどしかない。 祖国は、開戦した。 祖国と犬猿の仲であった国とが同盟を結び、10年間と言う期限をきって互いの勢力範囲を画定し、二国の間に挟まれた小国の分割に合意した。 それに従い、両国共にその小国に侵攻していくこととなる。 その秘密条約を、祖国は一方的に破棄した――……。 そもそもその侵攻が戦争の発端となったのだが、それにより祖国は正面と背面、二つに敵を抱えることとなった。 二正面作戦の愚を、犯すこととなったのだ。 しかし今はまだ、前線は奮戦し、戦局は有利に進んでいる。 彼らはユダヤ人や、政権に反対する者、共産主義者などを見つけては、ゲットーに送り込んでいた。 「ちゃんと家に帰っているか?」 「あぁ、貴様が気にかける必要などない」 「どうだか。……シホ嬢と結婚できるなんて、お前、果報者だってのに」 「……そうだな。我が身の幸運は、つくづく噛み締めているさ、ラスティ」 揶揄するようなラスティに、イザークは冷徹な調子で答えた。 それはどこをどう見ても、恋に憂える男のものでも、恋に溺れる男のものでもなく。ただ事実を事実として、ありのまま告げる冷静さが透けて見えて。 ラスティならずとも、何かあったのか?と、勘繰らずにはいられなかった。 しかしおそらく、ラスティに言っても、分からないだろう。 否、もしかしたら、贅沢者だと謗られるかもしれない。 彼の妻となった女性、シホ=ハーネンフース=ジュールは、男性にかなりの人気を誇る、才色兼備な女性だから。 「イザーク、お前……」 「何だ?」 「お前、本当にそう思っているのか?」 「そう、とは?」 「本当にお前、自分が幸せだと思っているのか?」 真剣な調子で、ラスティは言った。 ラスティ=マッケンジーは、どこか掴み所のない人物だ。 酷く陽性の性質をしているかと思えば、反面非常に皮肉屋の一面も持ち合わせている。 正直、掴み所がなかった。 頭が弱ければ簡単に言い包めることもできるだろうが、学問に耽溺していた彼と違って社交的なラスティは、人間の機微にも詳しい。 正直、扱いに困るのだ。 「……思っているさ」 「嘘だな」 「何故貴様が、そんなことを断言するんだ?当事者である俺が、幸せだと言っているだろう」 苛々としながら、彼は答えた。 見透かされている、その気恥ずかしさ。 シホに抱いている、言い知れぬ罪悪感。 そんなものが蓄積されて、いい加減爆発しそうだ。 その矢先のラスティの発言に、余計にイライラが蓄積されていくような気が、した。 「お前……さ。自分がどんな顔をしているか、分かっているか?」 「何?」 「すごく詰まらなそうな、憂鬱そうな顔をしているじゃん」 「……今まで俺が、何をしていたと思っている?いくらカスのような共産主義者とは言え、人を傷つけて平然としていられるわけがないだろう!?」 「……イザーク、分かった。分かったから、そんなに苛立つな」 怒気を露わにするイザークを宥めるように、ラスティが言う。 しかし、それでも。 ラスティには、イザークの言葉は全て、自らを偽る言葉としか、思えなかった。 イザークを知る者ならばきっと、分かるだろう。 事実、ミゲルもそう言っていた。 イザークの様子がおかしい、と。 結婚すれば、少しは彼の物腰も穏やかになるかと、思っていた。 しかし、彼は別の意味で変貌してしまった。 直情的な男だった、と。ラスティは思う。 感情に素直で、激昂しやすい。けれどまっすぐな性格と他人を思いやる性質から、敵は多いがそれ以上に味方の多い男だった。 今もこうして苛立ちを露わにしているけれど、どこか違う。 あの頃の……自分が知っているイザークとは、違う。 そんな焦燥に、ラスティは言葉を失くした。 何が、あったのか。 一体イザークに、何があったと言うのか。 イザークが実家を勘当されたと聞いたとき、そんな馬鹿なことを、と。ミゲルと鼻で笑いあったのを覚えている。 エザリア=ジュールは、そのただ一人の嫡子を溺愛している。 イザークもまた、母親を敬愛している。 まして、彼は生まれながらに高い地位を約束されており、その重責を担う覚悟をしていた。 そんな彼が、不始末をしでかすとは、思えない。 彼を知る友人たちは揃って、そんな噂を鼻で笑った。有得ないことを言いやがって、と。 しかし、それは事実だった。 イザーク=ジュールは一度、ジュール家を勘当された。 「お前、何があったんだよ……」 「別に」 約束された地位と、約束された婚約者と。 その全てを、一度は擲った、男。 友人たちに、相談の一つもなく、彼は一人でそれを受け入れ、決定した。 薄情な、友人。 「話は終わったか?なら、俺は家に帰るぞ」 妻が、待っているからな。 口角を薄く吊り上げて、怜悧な友人は言った。 他に言葉もなく、ラスティはそれを見送る。 彼に何が、あったのか。 それは彼の親友であったディアッカさえ、語らない――……。 「はい?」 こんこん、と病室の扉をノックする音がして、アスランはドアの向こうへ問いかけた。 藍色の髪には今日も、白のリボンが結ばれている。 決して、綺麗なものとは言いがたい。 それでも少女は、それを大切にしていた。 「アスラン、具合はどう?」 「ディアッカさん!今日も、来てくださったんですか?」 「まぁね。君は、何をしていたんだ?」 「……祈りを」 しばしの沈黙の後、にこりと笑って少女は言った。 『祈りを』。ただ、その一言を。 「祈り?……懺悔じゃなくて?」 アスランはイザークを庇って、自ら娼婦であった過去を話した。 おそらく、イザークの迷惑になると思ったから。 此処につれてきたのは、イザーク=ジュール。けれど生家に帰ったイザークが、下層の娘と生活していたことが知れては、彼の迷惑になると思ったのだろう。 上流の男が下層の娘を愛玩することは珍しくないとは言え、やはり上流では忌まれるもので。秘密にしていたいものだから。 「懺悔しても、神は僕を救ってはくれませんよ」 「……ごめん」 「いいえ。気にしないでください」 確かに、言葉が過ぎたのかもしれない。 そう思い、謝罪を口にするディアッカに、アスランは透明な笑みを向けた。 気にしていない、と。言葉ではなく態度で表すかのように。 そう。いくら懺悔しても神はきっと、アスランを救ってはくれまい。 生活のために、生きるために。彼女が躯を売って生きていたのは、事実で。 神の恩寵に背いて生きてきたのは、事実で。 娼婦に『キリストの慈悲』は存在するけれど、同じだけの排斥を受けるのもまた、事実で。 「祈りって、何を?」 「大切な人の、無事を。……戦争が、始まったんでしょう?」 開戦したのならば、彼もきっとそれとは無関係でいられないだろう、と思う。 今、彼がどこにいるのか、それは分からないけれど。 本国にいるのか、それとも戦地に赴いているのか。それは、分からないけれど。 どこにいても、いい。 無事で、いて欲しい。 そう、思う。 「僕が祈っても、神様は聞き届けてはくれないかも、知れないけれど。でも、無事でいて、欲しいから……」 「いや、多分……神も聞き届けてくれると、思うぜ」 「有難うございます、ディアッカさん。今日も、お知り合いのお見舞いにいらっしゃったんですか?」 「そう。そのついでに、この前仲良くなった可愛い女の子のお見舞いもしようかなぁ、って」 たずねるアスランに、冗談めかしてウィンクをして、ディアッカは答える。 それに、アスランは一瞬静止して。それから、堪えきれないとばかりに、吹き出した。 「あぁ、そうそう。これ、お土産。といっても、余りもので悪いんだけど、いいかな」 「わぁ。すみません。わざわざ、有難うございます」 気分を変えるように、ディアッカは手持ちの新聞紙で包まれた包みを持ち上げた。 きょとんとした顔をして、アスランはそれでも笑顔で礼を言う。 差し出された包みを開けると、果物が一つ、入っていた。 「桃……?」 「そ。……あ、もしかして、嫌いだった?」 「いいえ!……嬉しい。桃、好きなんです」 「そう。それは良かった」 イザークには捨て置けといわれたけれど、とても捨て置けるものでは、なくて。 まして、親友のことだ。人がいいとは思うが、放って置けなくて。 また、ディアッカはサナトリウムに訪れていた。 粗末な病室には、粗末な服を着た小さな少女が、窓に向かって手を組んでいる。 どこにでもある、祈りの姿勢。 祈りは、自身の病の平癒だと、思っていた。 それが、人ならば当たり前だと、思っていた。 けれどいくら死病に冒されている事を知らないとは言え、自身が病に冒されてもなお、他人の無事を祈る人間がいるとは、思いもよらなかったのだ。 その祈りの姿勢に、彼は純粋に感動した。 だからか、とも、思う。 こんな少女だからこそ、イザークは彼女を愛しく思ったのか。大切に育み、愛したのか。 そう、思って。 アスランの見舞いに行くと告げたディアッカに、イザークは何も言わなかった。 彼自身、アスランの身を案じているのだろう。 その病の進行状況も、本当ならば彼がその目で確かめたかったに違いない。 ディアッカがアスランに渡した見舞いの桃は、イザークの提供したものだ。 あいつは、桃が好きだと言っていた、と。 物価が高騰する今、果物一つとっても、容易に手に入るものではないけれど。イザークは大金を叩いて桃を手に入れてきた。 それだけでも、彼が本当にこの少女を大切にしていることが、分かって。 だからディアッカは、哀しくなる。 その感情の対象が、誰に向けられているのか、それはディアッカにも分からない。 これだけ少女を大切に思っているのに、一緒に生きることの叶わないイザークに向けて、なのか。 病魔に冒された少女に対して、なのか。 イザークを愛しているのに、同じ感情を返してはもらえないシホに対して、なのか。 ディアッカにもそれは、よく分からなかった。 「食べる?」 「頂いてもいいんですか?」 「勿論」 好物を渡されて、嬉しくて。 アスランは笑顔になった。 古い新聞を丁寧に伸ばして、折り畳む彼女を尻目に、ディアッカは桃の割れ目にそってナイフを入れる。 皮を剥いていくと、新聞を伸ばしていたアスランが、小さく呟いた。 「イザーク=ジュール、シホ=ハーネンフースと結婚?」 「え?」 小さな声に、ディアッカは思わず少女を振り返る。 大きな翡翠の瞳を、これ以上ないほど大きく見張って、少女は古新聞を凝視していた。 イザークもディアッカも、確認を怠っていた。 まさかイザークとシホが結婚したことを報じる新聞に包んであったとは、思わなかったのだ。 そして、少女が文字を読めるとは、思わなかった。 考えてみれば、彼女は場末の娼婦ではなく、知識人たちとも対等に会話をする高級娼婦の一員であったのだ。 文字くらい、読めるはずだ。それを、彼らは考慮に入れていなかった。 「イザーク=ジュールが、どうかした?」 「……いいえ。この大変な時にご結婚をされるなんて、すごい勇気だな、と。思っただけです……」 イザークのことは良く知っているが、あえて知らないかのように尋ねてみる。 すると蒼白になりながら、彼女はそう言った。 写真付きの新聞ではあるが、その画像は酷く不鮮明であるけれど。 少女の指は愛しそうに、そこに写る男の白皙をなぞっていた。 「……これも、頂いていいですか?」 「これって……その新聞?別に構わないけど」 「有難うございます」 そっと、その新聞を胸の辺りで抱きしめる。 彼の顔は、最後の日の、怒った冷たい顔しか覚えていない。 どうせなら、微かに微笑む優しい顔を覚えていたかった。 このリボンを結んでくれた、あの日の彼を、いつでも記憶層の中取り出せる場所に保存しておきたかったのに。 (結婚、したんだね……) もうすぐアスランは、15歳になる。 9歳年の離れたイザークは、24歳だ。 決して早い結婚とは、言えない。 むしろ、遅すぎるといってもいいだろう。 ぽたり、と涙が零れそうになる。 逢いたい、と。思う。 言葉が、聞きたい。 彼の気持ちを、もっと言葉にして欲しかった。 ちゃんと言葉にして、言ってくれたらよかったのに。 「アスランちゃん、桃剥けたけど?」 「有難うございます……頂きます」 横合いからかけられた声に、ぐっと涙を飲み込む。 つんとこみ上げてくるものを飲み下して、口元を笑みの形に歪める。 触れ合えない距離が、哀しかった――……。 『Ragnarok-神々の黄昏-』天上篇第3話をお届けいたします。 ラスティ好きです。 何だろう、この長編(既に中篇と言う気もない)、旧ザフトっ子揃い踏みですね。 基本ザフト派ですので、ザフトっ子は好きーですけど。 ディアッカを余り書かないため、ミゲル特徴が混じってしまった気が……。 喋り方、とか。 似てしまったんですけど……まさかイザークに喋るみたいに小さな女の子に喋るとも思えず。 ……てことは、あれか!?ミゲル、なんだかんだでナンパ口調ってことか!? ……今回も、アレだ。後書き、ないほうが良かったですね……。 あ。文中に出てきた歴史っぽいあれは、『独ソ不可侵条約』の破棄、でした。 二国に侵攻された国は、ポーランド、です。 此処までお読みいただき、有難うございました。 |