泣かないで。

私は貴方を、赦すから――……。










天上篇〜V〜









 半年が、過ぎた――……。



 路地裏に逃げ込んだ共産主義者を追い詰め、警棒で叩き伏せる。
 本来ならば下っ端のやることだが、仕方がない。まんまと連中は撒かれてしまったのだから。
 鼻血が吹き出て、ぬるりとした感触が袖口を汚したが、別にそれに頓着することはなかった。
 もう、慣れた。


「中佐殿!お手を煩わせまして、申し訳ございません!」
「馬鹿者!たかだか共産主義者どもに撒かれるとは、貴様ら恥を知れ!」
「申し訳ございませんでした!」


 ピシッと、一様に敬礼をするのは、彼の部下たちだ。
 イザーク=ジュールは気難しく、そして規律や軍規に厳しいと認識されている。
 関わらないに、越したことはないのだ。
 色素の薄すぎる白皙も、苛烈すぎる蒼氷の瞳も、部下たちからすれば畏怖するに十分だった。


「お疲れさん、イザーク」
「あぁ、ラスティ」


 本部に戻ると、ラスティがイザークを迎えた。
 幼い頃から付き合いのある、彼もイザークの友人の一人だ。
 家格は、イザークの生家、ジュール家よりやや落ちる。
 だがそれも仕方のない話で、ジュール家よりも家格が上の家など、数えるほどしかない。


 祖国は、開戦した。
 祖国と犬猿の仲であった国とが同盟を結び、10年間と言う期限をきって互いの勢力範囲を画定し、二国の間に挟まれた小国の分割に合意した。
 それに従い、両国共にその小国に侵攻していくこととなる。
 その秘密条約を、祖国は一方的に破棄した――……。
 そもそもその侵攻が戦争の発端となったのだが、それにより祖国は正面と背面、二つに敵を抱えることとなった。
 二正面作戦の愚を、犯すこととなったのだ。
 しかし今はまだ、前線は奮戦し、戦局は有利に進んでいる。
 彼らはユダヤ人や、政権に反対する者、共産主義者などを見つけては、ゲットーに送り込んでいた。


「ちゃんと家に帰っているか?」
「あぁ、貴様が気にかける必要などない」
「どうだか。……シホ嬢と結婚できるなんて、お前、果報者だってのに」
「……そうだな。我が身の幸運は、つくづく噛み締めているさ、ラスティ」


 揶揄するようなラスティに、イザークは冷徹な調子で答えた。
 それはどこをどう見ても、恋に憂える男のものでも、恋に溺れる男のものでもなく。ただ事実を事実として、ありのまま告げる冷静さが透けて見えて。
 ラスティならずとも、何かあったのか?と、勘繰らずにはいられなかった。

 しかしおそらく、ラスティに言っても、分からないだろう。
 否、もしかしたら、贅沢者だと謗られるかもしれない。
 彼の妻となった女性、シホ=ハーネンフース=ジュールは、男性にかなりの人気を誇る、才色兼備な女性だから。


「イザーク、お前……」
「何だ?」
「お前、本当にそう思っているのか?」
「そう、とは?」
「本当にお前、自分が幸せだと思っているのか?」


 真剣な調子で、ラスティは言った。
 ラスティ=マッケンジーは、どこか掴み所のない人物だ。
 酷く陽性の性質をしているかと思えば、反面非常に皮肉屋の一面も持ち合わせている。
 正直、掴み所がなかった。
 頭が弱ければ簡単に言い包めることもできるだろうが、学問に耽溺していた彼と違って社交的なラスティは、人間の機微にも詳しい。
 正直、扱いに困るのだ。


「……思っているさ」
「嘘だな」
「何故貴様が、そんなことを断言するんだ?当事者である俺が、幸せだと言っているだろう」


 苛々としながら、彼は答えた。
 見透かされている、その気恥ずかしさ。
 シホに抱いている、言い知れぬ罪悪感。
 そんなものが蓄積されて、いい加減爆発しそうだ。
 その矢先のラスティの発言に、余計にイライラが蓄積されていくような気が、した。


「お前……さ。自分がどんな顔をしているか、分かっているか?」
「何?」
「すごく詰まらなそうな、憂鬱そうな顔をしているじゃん」
「……今まで俺が、何をしていたと思っている?いくらカスのような共産主義者とは言え、人を傷つけて平然としていられるわけがないだろう!?」
「……イザーク、分かった。分かったから、そんなに苛立つな」


 怒気を露わにするイザークを宥めるように、ラスティが言う。
 しかし、それでも。
 ラスティには、イザークの言葉は全て、自らを偽る言葉としか、思えなかった。

 イザークを知る者ならばきっと、分かるだろう。
 事実、ミゲルもそう言っていた。
 イザークの様子がおかしい、と。
 結婚すれば、少しは彼の物腰も穏やかになるかと、思っていた。
 しかし、彼は別の意味で変貌してしまった。

 直情的な男だった、と。ラスティは思う。
 感情に素直で、激昂しやすい。けれどまっすぐな性格と他人を思いやる性質から、敵は多いがそれ以上に味方の多い男だった。
 今もこうして苛立ちを露わにしているけれど、どこか違う。
 あの頃の……自分が知っているイザークとは、違う。
 そんな焦燥に、ラスティは言葉を失くした。

 何が、あったのか。
 一体イザークに、何があったと言うのか。

 イザークが実家を勘当されたと聞いたとき、そんな馬鹿なことを、と。ミゲルと鼻で笑いあったのを覚えている。
 エザリア=ジュールは、そのただ一人の嫡子を溺愛している。
 イザークもまた、母親を敬愛している。
 まして、彼は生まれながらに高い地位を約束されており、その重責を担う覚悟をしていた。
 そんな彼が、不始末をしでかすとは、思えない。
 彼を知る友人たちは揃って、そんな噂を鼻で笑った。有得ないことを言いやがって、と。
 しかし、それは事実だった。

 イザーク=ジュールは一度、ジュール家を勘当された。


「お前、何があったんだよ……」
「別に」


 約束された地位と、約束された婚約者と。
 その全てを、一度は擲った、男。
 友人たちに、相談の一つもなく、彼は一人でそれを受け入れ、決定した。
 薄情な、友人。


「話は終わったか?なら、俺は家に帰るぞ」


 妻が、待っているからな。
 口角を薄く吊り上げて、怜悧な友人は言った。
 他に言葉もなく、ラスティはそれを見送る。

 彼に何が、あったのか。
 それは彼の親友であったディアッカさえ、語らない――……。



**




「はい?」


 こんこん、と病室の扉をノックする音がして、アスランはドアの向こうへ問いかけた。
 藍色の髪には今日も、白のリボンが結ばれている。
 決して、綺麗なものとは言いがたい。
 それでも少女は、それを大切にしていた。


「アスラン、具合はどう?」
「ディアッカさん!今日も、来てくださったんですか?」
「まぁね。君は、何をしていたんだ?」
「……祈りを」


 しばしの沈黙の後、にこりと笑って少女は言った。
 『祈りを』。ただ、その一言を。


「祈り?……懺悔じゃなくて?」


 アスランはイザークを庇って、自ら娼婦であった過去を話した。
 おそらく、イザークの迷惑になると思ったから。
 此処につれてきたのは、イザーク=ジュール。けれど生家に帰ったイザークが、下層の娘と生活していたことが知れては、彼の迷惑になると思ったのだろう。
 上流の男が下層の娘を愛玩することは珍しくないとは言え、やはり上流では忌まれるもので。秘密にしていたいものだから。


「懺悔しても、神は僕を救ってはくれませんよ」
「……ごめん」
「いいえ。気にしないでください」


 確かに、言葉が過ぎたのかもしれない。
 そう思い、謝罪を口にするディアッカに、アスランは透明な笑みを向けた。
 気にしていない、と。言葉ではなく態度で表すかのように。

 そう。いくら懺悔しても神はきっと、アスランを救ってはくれまい。
 生活のために、生きるために。彼女が躯を売って生きていたのは、事実で。
 神の恩寵に背いて生きてきたのは、事実で。
 娼婦に『キリストの慈悲』は存在するけれど、同じだけの排斥を受けるのもまた、事実で。


「祈りって、何を?」
「大切な人の、無事を。……戦争が、始まったんでしょう?」


 開戦したのならば、彼もきっとそれとは無関係でいられないだろう、と思う。
 今、彼がどこにいるのか、それは分からないけれど。
 本国にいるのか、それとも戦地に赴いているのか。それは、分からないけれど。
 どこにいても、いい。
 無事で、いて欲しい。
 そう、思う。


「僕が祈っても、神様は聞き届けてはくれないかも、知れないけれど。でも、無事でいて、欲しいから……」
「いや、多分……神も聞き届けてくれると、思うぜ」
「有難うございます、ディアッカさん。今日も、お知り合いのお見舞いにいらっしゃったんですか?」
「そう。そのついでに、この前仲良くなった可愛い女の子のお見舞いもしようかなぁ、って」


 たずねるアスランに、冗談めかしてウィンクをして、ディアッカは答える。
 それに、アスランは一瞬静止して。それから、堪えきれないとばかりに、吹き出した。


「あぁ、そうそう。これ、お土産。といっても、余りもので悪いんだけど、いいかな」
「わぁ。すみません。わざわざ、有難うございます」


 気分を変えるように、ディアッカは手持ちの新聞紙で包まれた包みを持ち上げた。
 きょとんとした顔をして、アスランはそれでも笑顔で礼を言う。
 差し出された包みを開けると、果物が一つ、入っていた。


「桃……?」
「そ。……あ、もしかして、嫌いだった?」
「いいえ!……嬉しい。桃、好きなんです」
「そう。それは良かった」


 イザークには捨て置けといわれたけれど、とても捨て置けるものでは、なくて。
 まして、親友のことだ。人がいいとは思うが、放って置けなくて。
 また、ディアッカはサナトリウムに訪れていた。
 粗末な病室には、粗末な服を着た小さな少女が、窓に向かって手を組んでいる。
 どこにでもある、祈りの姿勢。
 祈りは、自身の病の平癒だと、思っていた。
 それが、人ならば当たり前だと、思っていた。
 けれどいくら死病に冒されている事を知らないとは言え、自身が病に冒されてもなお、他人の無事を祈る人間がいるとは、思いもよらなかったのだ。
 その祈りの姿勢に、彼は純粋に感動した。

 だからか、とも、思う。
 こんな少女だからこそ、イザークは彼女を愛しく思ったのか。大切に育み、愛したのか。
 そう、思って。

 アスランの見舞いに行くと告げたディアッカに、イザークは何も言わなかった。
 彼自身、アスランの身を案じているのだろう。
 その病の進行状況も、本当ならば彼がその目で確かめたかったに違いない。
 ディアッカがアスランに渡した見舞いの桃は、イザークの提供したものだ。
 あいつは、桃が好きだと言っていた、と。
 物価が高騰する今、果物一つとっても、容易に手に入るものではないけれど。イザークは大金を叩いて桃を手に入れてきた。

 それだけでも、彼が本当にこの少女を大切にしていることが、分かって。
 だからディアッカは、哀しくなる。
 その感情の対象が、誰に向けられているのか、それはディアッカにも分からない。

 これだけ少女を大切に思っているのに、一緒に生きることの叶わないイザークに向けて、なのか。
 病魔に冒された少女に対して、なのか。
 イザークを愛しているのに、同じ感情を返してはもらえないシホに対して、なのか。

 ディアッカにもそれは、よく分からなかった。


「食べる?」
「頂いてもいいんですか?」
「勿論」


 好物を渡されて、嬉しくて。
 アスランは笑顔になった。

 古い新聞を丁寧に伸ばして、折り畳む彼女を尻目に、ディアッカは桃の割れ目にそってナイフを入れる。
 皮を剥いていくと、新聞を伸ばしていたアスランが、小さく呟いた。


「イザーク=ジュール、シホ=ハーネンフースと結婚?」
「え?」


 小さな声に、ディアッカは思わず少女を振り返る。
 大きな翡翠の瞳を、これ以上ないほど大きく見張って、少女は古新聞を凝視していた。
 イザークもディアッカも、確認を怠っていた。
 まさかイザークとシホが結婚したことを報じる新聞に包んであったとは、思わなかったのだ。
 そして、少女が文字を読めるとは、思わなかった。
 考えてみれば、彼女は場末の娼婦ではなく、知識人たちとも対等に会話をする高級娼婦の一員であったのだ。
 文字くらい、読めるはずだ。それを、彼らは考慮に入れていなかった。


「イザーク=ジュールが、どうかした?」
「……いいえ。この大変な時にご結婚をされるなんて、すごい勇気だな、と。思っただけです……」


 イザークのことは良く知っているが、あえて知らないかのように尋ねてみる。
 すると蒼白になりながら、彼女はそう言った。
 写真付きの新聞ではあるが、その画像は酷く不鮮明であるけれど。
 少女の指は愛しそうに、そこに写る男の白皙をなぞっていた。


「……これも、頂いていいですか?」
「これって……その新聞?別に構わないけど」
「有難うございます」


 そっと、その新聞を胸の辺りで抱きしめる。

 彼の顔は、最後の日の、怒った冷たい顔しか覚えていない。
 どうせなら、微かに微笑む優しい顔を覚えていたかった。
 このリボンを結んでくれた、あの日の彼を、いつでも記憶層の中取り出せる場所に保存しておきたかったのに。


(結婚、したんだね……)


もうすぐアスランは、15歳になる。
 9歳年の離れたイザークは、24歳だ。
 決して早い結婚とは、言えない。
 むしろ、遅すぎるといってもいいだろう。

 ぽたり、と涙が零れそうになる。
 逢いたい、と。思う。
 言葉が、聞きたい。
 彼の気持ちを、もっと言葉にして欲しかった。
 ちゃんと言葉にして、言ってくれたらよかったのに。


「アスランちゃん、桃剥けたけど?」
「有難うございます……頂きます」


 横合いからかけられた声に、ぐっと涙を飲み込む。
 つんとこみ上げてくるものを飲み下して、口元を笑みの形に歪める。





 触れ合えない距離が、哀しかった――……。











 『Ragnarok-神々の黄昏-』天上篇第3話をお届けいたします。
 ラスティ好きです。
 何だろう、この長編(既に中篇と言う気もない)、旧ザフトっ子揃い踏みですね。
 基本ザフト派ですので、ザフトっ子は好きーですけど。
 ディアッカを余り書かないため、ミゲル特徴が混じってしまった気が……。
 喋り方、とか。
 似てしまったんですけど……まさかイザークに喋るみたいに小さな女の子に喋るとも思えず。
……てことは、あれか!?ミゲル、なんだかんだでナンパ口調ってことか!?


 ……今回も、アレだ。後書き、ないほうが良かったですね……。
 あ。文中に出てきた歴史っぽいあれは、『独ソ不可侵条約』の破棄、でした。
 二国に侵攻された国は、ポーランド、です。

 此処までお読みいただき、有難うございました。