かけがえのない約束さえも、 遠い彼方に置き去りにして――……。 天上篇〜W〜 外界から隔絶されたそこには、余り戦火の名残と呼べるものは、なく。 穏やかな時が、過ぎていった。 目が覚めて、アスランは櫛を手にした。 丁寧な動作でその宵色の髪を梳ると、その神に白いリボンを結んだ。 大切な人がくれた、大切なもの。 年月の重みの中、大分草臥れた観があるが、それでもそれは、アスランにとって大切なものだった。 イザークがどうか、無事でありますように。 日課になった祈りを、天に捧げて。 彼は、どうしているのだろう。 元気でいるのか。 無事でいるのか。 アスランにもそれは、よく分からない。 風の噂さえも、此処には入ってこないのだ。 アスランが神経質なまでに人との接触を絶っている、というのも、その理由に挙げられるかもしれないけれど。 (大丈夫……無事、だよね?) 古い新聞の切れ端をなぞりながら、心の中呟く。 元気でいる。 きっと、元気でいるだろう。 (僕を捨てて、正解だよ、イザーク) 諦めにも似た笑みをその口元に閃かせて、アスランは思う。 彼が自分を捨てたのは、正解だった。 アスラン自身、そう思う。 アスランと縁が切れたことで、彼はその生家に帰ることが出来た。 やはり、イザークに下層の生活は似合わない。 貧乏な生活は、彼には似合わない。 でも結婚を、アスランは喜べなかった。 彼が幸せであることを、祈るけど。 彼が無事であることを、祈るけど。 結婚は、喜べなくて。 彼の隣に寄り添うように写っている女性に、激情がこみ上げる。 触らないで。 そう、言ってしまいたくなって。 ……彼はアスランのものでは、ないのに。 彼は正真正銘、寄り添うように写っている彼の妻となった女性のものなのに。 それなのに、それを認められない自分を、アスランは認識していた。 認められない、というよりも。認めたく、なかった。 アスランにとって彼は、どこまでも兄のような人だった。 アスランよりずっと大人で、頼りになって。 寒いあの部屋で、彼の逞しい胸に顔を埋めて眠っていると、それだけで温かくて。 それだけで、守られているような気が、した。 その胸に顔を埋めて眠っているその時は、悪夢なんて見なかった。いつも幸せな気持ちで、眠れていた。 それを、今になって懐かしく思い出す。 小さなアスランの躯を、すっぽりと包んでしまう腕。 優しい指。 透き通るような銀糸の、滑らかな感触さえも、昨日のことのように思い出されるのに。 それなのに彼は、どこにもいない。 それがどうしようもなく、切なくて。 傍にいて、欲しかった。 我侭であることは、分かっているけれど。 それが叶わないならせめて、もう一度逢いたい。 一目でいいから、逢わせて欲しい。 歳月は、残酷に過ぎていく。 閉鎖されたその空間で、アスランにとっては、一日が100年のように感じられる。 いつしか、大切だと思っていた人の姿も声さえも忘れてしまうのではないだろうか。 それが、何よりも怖かった。 たくさんの大人たちに酷い目に遭わされたことだけは、なかなか忘れられないのに。 たった一人庇護してくれた大切な人のことは抜け落ちていくような、そんな皮肉。 過ぎ行く日々は、滑稽なほど残酷だ。 いつの間にか、彼と過ごした時間よりも、彼に捨てられてその後、病室で過ごすことになった時間の方が、多くなっていて。 その時の長さを、伸ばした髪が教えていた。 彼が撫でてくれた、髪。 彼が好きだと言ってくれていた、髪。 切ることが、出来なくて。 伸ばし続けたその髪は、いつしか背の半ばほどに、なって。 残酷に、時が巡ってゆく。 「イザ……ッく……ごほっ」 喉から何か熱いものがこみ上げてきて。 違う。喉じゃない。躯のもっと奥深くから、熱いものがこみ上げてくる。 気持ち悪い。 涙が、滲んで。 「かはっ……ごほごほ」 口元を掌で押さえると、何か熱いとろりとしたものが、その手に触れた。 痰に血が混ざることはしょっちゅうだけど、こんなことは初めてだった。 そして掌を見たアスランの瞳が、瞠られる。 白い白い……小さな彼女の掌を、どす黒いものが汚していた――……。 「イザーク……」 「何だ、ディアッカ」 執務中のため、顔を上げることはしない。 かなりぞんざいな態度ではあるが、幼い頃から共に在った幼馴染である二人のこと。ディアッカが特に気を悪くする様子もない。 サラサラとサインを施していくと、その手をディアッカが掴んだ。 「何だ、ディアッカ」 冷徹な声が、再度ディアッカの名を呼ぶ。 顔を上げた彼の蒼氷の瞳は、いっそ静謐なまでの灼熱を宿していて、ディアッカさえも戦かずにはいられない。 しかし、此処で引くわけには、行かなかった。 「……サナトリウムへ行こう、イザーク」 「は?」 「監視のことだったら、俺が何とかする。だから……」 「馬鹿か、貴様は。そんなところに、俺が一体何の用があると言うんだ」 「お前じゃない……お前じゃなくて……あの子……」 「俺が捨てた娘が、何か?」 造られた冷徹は、容易には崩れない。 そもそもイザーク=ジュールという男は、苛烈な人となりこそしているが、けして冷徹ではないのに。 今の彼をして、冷徹以外の何も、なかった。 大切に、しているくせに。 何よりも愛しく思っているくせに。 幼い日から決められ、ひたむきな愛情と献身を寄せるシホさえも、切り捨てられるくせに。 それでも彼は、『俺が捨てた娘』と。大切であるはずのアスランを指して、言う。 「いいから、イザーク」 「離せ、ディアッカ。今更あの娘に、かける情などない」 「嘘をつくな!」 気づけば、ディアッカは叫んでいた。 今、この執務室には誰もいない。 誰もいないからこそ、ディアッカはアスランの話をした。 それなのに。誰をも憚る必要など何もないというのに、目の前の男の冷徹の仮面は、崩れない。 「情がないって言うならどうして、あの子の為に桃を俺に持っていかせるんだよ……!」 「たまたま、あれが桃が好きだったことを、思い出しただけさ」 「違うだろう、イザーク!お前、あの子のことが好きだろう?」 「ふざけたことを……そんな戯言を口にしている暇があったら、ディアッカ。仕事の一つも片付けろ」 「ふざけているのは、お前だろうが!」 ディアッカは未だ椅子に腰掛けたままの親友の胸倉を、掴み上げた。 イザークの方が入隊は後であるが、持って生まれた家柄と能力により、彼のほうが階級は上になった。 それには、不平も不満もない。 彼の能力は高く、国家を憂う気持ちもまた、本物で。 初めの頃こそ、実家を勘当された経緯も相俟って彼に白い目を向けていた者たちも、いつしか彼を信奉するまでになっていた。 その強烈な個性もカリスマも、ディアッカにはない。 彼の信奉者に見られでもしたら、面倒なことになるのは、分かっていた。 そして軍隊で、下官が上官に無礼を働くなど決して、許されることではない。 このようなことをすれば、営倉に送り込まれる事態になりうることだって、分かっている。 けれどどうしても、イザークにはサナトリウムへ行ってもらわねばならないのだ。 そうしなければ、アスランが可哀想だ。 そう、ディアッカは思う。 あの子が、可哀想だ。 今日もきっと、彼女はイザークの無事だけを祈っている。 そんな少女が、可哀想だ。 あの子の枕はいつも、涙で濡れているのに。 「あの子の為に、家を捨てて。あの子の為に、家に戻って。それなのにお前は、そんなことを……!?」 「……歳月というものは、優しいものだ、ディアッカ。あの小娘に情をかけた記憶すら、彼方へ連れて行ってくれるのだから」 「お前……!」 ディアッカはかっとなって、その頬に拳を叩き込んでいた。 イザークの実力ならば、至近距離のそれさえもよけることは可能だっただろう。 けれど彼は甘んじて、拳を受ける。 鈍い音がして、そして殴られた白皙が腫れ上がった。 しかしそれにさえも、イザークが動じる様子は、ない。 「気は済んだか、ディアッカ。……まったく、とんだ馬鹿力だな、貴様は」 「イザーク!」 「忙しいんだ。話は後にしろ」 「今しかない!」 勢い込むが、イザークは答えない。 構わずにディアッカは、その肩を掴んだ。 「あの子……血を吐いた」 「何……?」 イザークの顔色が、変わった。 ただでさえ白い面が、蒼白になっている。 わななく唇の、色さえなくなった気が、して。 「……喀血したと、言うのか……?」 「あぁ……」 嘘であって欲しい。否定して欲しい。 彼の口からのでまかせであることを、祈った。 もしくは、アスランのことを意に介そうともしないイザークの注意を向けさせるための偽りであることを、期待した。 けれど、バイオレットの瞳は、真剣で。 その真摯な眼差しが、彼の口にした禍言が事実であることを、教えていた。 「何故だ……!?」 ダン、と。イザークはデスクに拳を叩き込んだ。 ミシリ、と音がするが、それすらも耳に入らない。 何故……何故……? まだ、僅かの時しか、経過していないというのに! 今、彼女は幾つになっただろう。 分かれたあの日から、どれくらいの時が経過したのだっただろうか。 容易に、思い出せなかった。 彼女を失くしてからと言うもの、時間の経過は、酷く曖昧なものになってしまって。 同じようなサイクルで繰り返される営みに、興味がもてなくて。 シホには、すまないことをしている、と思う。 確かに浮気はしていないし、表面上は優しい夫として写っているだろう。 声を荒げることもなく、彼女を慈しむ夫に見えるかもしれない。 けれど彼の心は一度たりとも、彼女に注がれたことはなかった。 シホは、何も言わないけれど。 ひょっとしたら気付いて、いたのかもしれない。 気付いて、いるのかもしれない。 敏い、彼女のことだから。 それでも何も言わないのは、それこそが彼女からの愛情、と。そう言うことなのだろうか。 イザークにはよく、分からなかった。 ふと鏡が目に入った。 髪を売って、金を作った。 ばっさりと切られた髪は、また伸びて。 その長さが、彼女と別れた月日の長さを、教えていた。 綺麗だと、彼女は言って。 売ったことを……髪を短くしたことを、惜しんで。 断ち切られた……自ら断ち切った絆を惜しんで、イザークは髪を伸ばしていた。 「……何年、経った?」 「……2年、だ」 「2年……?たった、2年かっっ!?」 少しでもいい。少しでもいいから、生きて欲しかった。 せめて何か幸せを実感してから、死なせてやりたかった。 綺麗事に過ぎないことぐらい、分かっていたけれど。 虐げられ続けた彼女に、綺麗なものを見せてやりたかった。 けれど、僅か2年。 それだけの時しか、赦されなかったということか。 喀血は、結核のほぼ末期症状だ。 喀血から長くても1年で、死んでしまう。 喀血したということは、あの少女に残されたときは、あと僅かしか残されていない、と言うことだ。 「あの子にとっては、長い2年だったみたい、だけど……」 「長いものか!たった2年……たった2年しか、あいつは……!」 「それは、お前の主観だろ、イザーク」 ディアッカの静かな言葉に、イザークは言葉を失った。 それは確かに、彼の主観だ。 けれど彼の主観で、2年は短すぎる。 いや、彼以外の人間だって、2年は短いと、言うだろう。 命の期限として、2年は余りに短すぎる。 まだ……まだ彼女は漸く、16歳になる頃だというのに。 「あの子の主観では、2年は長すぎたと、思うぜ」 「何……!?」 彼女は、知らなかったから。 自分が死病に冒されている事を、知らなくて。 ただ、彼の心変わり程度の認識しか、していなくて。 いつか逢えることを信じて、祈り続けていた。 彼が再び彼女の手を取る保証などどこにもないのに、もう一度だけでいい。話がしたい、と。そう言っていた彼女にとって、この2年はきっと、長すぎる歳月だっただろう。 せめて最期に、元気なうちに、あの子の願いを叶えてやりたい。 小さな少女を見守るうちに、ディアッカはそう、思うようになっていた。 何の打算もなく一人の男を慕う少女の姿が、眩しくて。 その命の煌きが、愛しかったから。 「ずっとずっと、あの子はお前を待っていた。また逢いたいって。せめて一言、言葉にして欲しかった、と。本心を語って欲しいと」 「本……心……?」 「本当に、頭のいい子だな、あの子。お前の言葉が偽りだって、気持ちのどこかで、感じていたみたいだ」 「何……?」 「いつもいつも、お前の無事だけを祈っていた。最初のうちは我が国の勝利だけが報じられていたけれど、今は……」 「……あぁ」 開戦当初は、祖国の勝利が報じられていた。 電撃戦が功を奏し、快進撃が続いていたのだが、最近少しずつ、その勝利にも陰りが見えるようになっていた。 特にディアッカはあの少女に何も言わなかったけれど、その表情の暗さから、彼女は何かを悟っていたのかもしれない。 「言葉にはしないけど、いつもお前の無事を祈っていた。病気の人間が……いくら誰も病名を教えないといっても、具合が悪ければ自分の病の平癒を祈るのが、普通なのに。あの子はそんなことよりも、お前の無事だけを、祈って……それで……」 「……そうか」 イザークはくっと、瞼を押さえた。 涙を流す資格など、彼にはないから。 「逢ってやってくれ、イザーク」 「……貴様がそれを言うとはな、ディアッカ」 「確かに、俺はあの娘のことを反対した。けど、イザーク」 「分かっている。……そう言う娘だったからな、あいつは」 弱くて、不器用で。 けれど一生懸命な、少女。 愛さずには、いられなかった。 嗚呼、これは恋じゃない。恋の情熱とは、程遠すぎるから。 「イザーク、あの子に……」 「俺は逢わんよ、ディアッカ」 怜悧な面に笑みを閃かせて、イザークは言った。 それにディアッカは、呆然となる。 「何……で?」 「母上と、約束した。破ればあれが殺される。……それが、ジュール家だ」 血塗られたジュールの血を継ぐ彼は、それを知っている。 だから……。 「俺は、逢わない」 「イザーク……」 「生きて、欲しいんだよ……あいつに……」 血を吐くような慟哭を、聞いたと思った――……。 |