愛している。 君だけを、愛していた――……。 天上篇〜X〜 アスラン自身、自分の躯が病の淵にあることは、知っていた。 風邪で体調を崩して……というのも勿論だが、いくらなんでも微熱が長く続いたから。 此処まで長く続く微熱も、おかしい。そう、思うこともあった。 けれど、目を背けていた。 信じたかっただけかも、知れないけれど。 大丈夫だと、信じたかっただけかも、知れないけれど。 自分の病名を、知った。 アスランは病名を、知ってしまった。 さすがに死病に冒されていると分かって、平然と出来るほど、彼女は肝が据わってはいなかった。 ましてまだ、少女の域にある彼女に、余命僅かとの自身の寿命を受け入れられないのは、無理のない話だった。 けれど彼女は、その瞳を大きく見開いて、それだけだった。 大声で喚くことも、神を呪うこともなく。 気違いじみた言葉を口走るでも、呪詛の言葉を紡ぐでもなく。 他が彼女は瞳を見開いて、そうですか、と。それだけを口にした。 「……ッく……!」 涙が溢れて、止まらなかった。 人前で泣かなかっただけ、自分を褒めてあげようかと、思う。 どこか自嘲気味にそう思いながら、彼女の翡翠の瞳からは涙が溢れ続けていた。 後、僅かしか、生きられない。 医者の言葉に、絶望した。 あと少しの時しか、残されていない。 (逢いたい……!) イザークに、逢いたい。 灼けるようにそう、思った。 彼に、逢いたい。 その唇が、どんな蔑みの言葉を紡いでも、構わない。 彼に、逢いたい。 どうせ死ぬなら、最期にイザークの姿が、見たい。 灼けるようにそう、思った。 (『妹』なんて、嘘……『兄』なんて、嘘だ……) こんな感情、『妹』が『兄』に寄せる感情じゃ、ない。 死の間際に、一目でいいから逢いたい、なんて。 逢って、抱きしめて欲しい、なんて。 こんなの、違う。 こんなかんじょうは、ちがう。 『いもうと』が『あに』によせるかんじょうでは、ない。 (イザークが、好きなんだ……) その言葉はストン、と。彼女の感情の深い部分に落ち着いた。 すき。 いざーくが、すき。 自覚した感情に、アスランはぎゅっと瞳を閉じた。 だからイザークの結婚式を報じる新聞に、ショックを隠せなかった。 だからイザークと別れる時、無様に縋りついた。 だからイザークに、触って欲しかった。 穢れた躯に綺麗な思い出を刻んでもらうなら、それはイザークが良かった。綺麗な彼を、汚すことになるかも、知れないけれど。 あの時彼に触れられて感じたかすかな興奮と多大な快楽はきっと、愛する男を我が物とする悦びゆえのものだったのだ。 アスランは幼く、その行為に嫌悪を持っていたから、分からなかったけれど。 今なら、分かる。 結局、イザークに抱かれたわけでは、なかったけれど。 きっと、そう言うことだったのだろう。 彼の指が優しくて、彼の温もりが愛しくて、彼の与える快楽が心に沁みたのは、ただそれが愛する人の施したものだったから。 きっとそんな、単純なことだったのだろう、と。今では思う。 今なら、分かる。 快楽は、嫌悪するものだった。 気持ちいいと感じるのは、自らを蹂躙する男に屈服するも同然だった。 だからアスランは、それをずっと拒絶し続けた。 けれどイザークの手で快楽を極めたのは、そう言うこと。 彼になら、屈服してもいいと思ったから。そう言う、ことだ。 (馬鹿だ……今になって気付くなんて) 愛しい人。 愛する人。 それに、気付かなかった。ずっと気付けなくて、命が残り僅かと知って漸く、分かった。 『兄』じゃなかった。 『妹』じゃ、なかった。 彼を思う気持ちは、そんな単純ではなくて。 そんな綺麗じゃなくて。 でも、とても純粋なものだった。 「イザーク……逢いたい、よ……」 せめてもう一度。 もう一度彼に逢うまでは死ねない、と。思う。 どうせ命短いのならば、彼に逢って彼に触れて。 「一度で、いいの……もう一度で、いい……一瞬でも、構わないから」 最期に、綺麗なものが見たい。 最期に、愛する人の笑顔が見たい。 そう想うことは、神様。間違っていますか……? 彼の幸せだけを、願えない。 こんな感情は、間違っていますか? 彼の幸せを、祈っているのに。一緒にいたいと矛盾した感情を持ってしまう、僕は。間違っているのでしょうか。 アスランは初めて、懺悔した。 自分の抱く感情を、知って。 その醜さに、戦いて。 その純粋さに、目を奪われた。 もしも死の間際にイザークに逢えると言うなら、臨終の時にさえ焦がれてしまう。こんな感情は、間違っている。 けれどそれが、彼女の偽らざる気持ちだった。 「一瞬でいい……侮蔑されても、いいから。もう一度……もう一度だけ……」 もう一度だけ、愛する人に、逢わせて下さい。 その温もりに、触れさせてください。 小さな少女の中に『女』の自我が芽生えた、瞬間だった。 思わず目を背けたくなるほどドロドロしていて、でもその純粋さゆえに触れたくて堪らない。 禁断の果実めいたそれに、少女の細い指先が、触れた。 「お願いです、神様……」 かれに、あえたなら。 つぎのしゅんかんに、しんでしまっても、かまわないから。 初めて少女は、自分のために祈ったのかも、知れない。 その悲痛な慟哭めいた声を、扉の外にいた褐色の彼は、聞いていた。 病室には入らず、彼は踵を返す。 何としてでも、幼馴染を連れてくるために。 だってこのままではあまりにも。 あまりにもあの少女が、哀れだから――……。 「総統よりの言葉を伝えるよ、イザーク。君を少将に任ずる、とのことだ」 「……有難き幸せです」 「これからも国家のため、総統のために頑張ってくれたまえ」 「はっ!クルーゼ大将閣下!」 上官の言葉に、イザークは敬礼して答えた。 かねてよりの功績を讃えられ、イザーク=ジュールは少将に任命された。 異例の昇進ではあるが、それを喜ぶ気持ちのゆとりは、なかった。 高い地位を、望んだ。 たくさんの金を、求めた。 全て少女の命を贖うために。 けれどそんなもの、何にもなりはしなかった。 高い地位も、たくさんの金銭も。僅かの時しか、彼女に与えてはやれなかった。 それでもそれしか、思いつかなかった。 彼女のために、自分ができること。自分がしてやれることはそれくらいしか、思い浮かばなくて。 ただ彼女に、生きて欲しかった。 触れること叶わなくても、生きて欲しくて。 傍に在ること叶わなくても、生きて欲しくて。 愛しい笑顔を切り捨てて、結局不毛の大地に花を咲かせんと水を撒き続ける滑稽さで、終わってしまった。 何て何て、愚かな男。 ディアッカは、逢うたびにアスランの元へ行ってやれ、と。それだけを口にする。 おそらくもう、残された時は短いのだろう。 きっと母が刺客を差し向け殺そうと企てようが何をしようが、彼女の命は変わらない、と言うことなのだろう。 それでも、逢ってはいけない、と思う。 何より、シホが哀れだ。 こんな男を愛して、こんな男と結婚して。 イザークは、アスランほどにはシホを想えない。シホを愛せない。 それを、彼自身が知っていた。 何度もディアッカに請われ、何度も拒否し。 けれどそれさえも本当は、自分を守りたいだけなのだろう。 逢えば、どんな顔をするか。何を口にするか。 予測がついて、しまう。 それよりは、思い出の中で生きていたかった。 彼女の思い出の中に、自分の居場所がひっそりと存在していれば、それでいい気が、する。 本当は、こんな男のことなんて忘れて欲しかったけれど。 愚か過ぎて。反吐が出るほど愚かなこんな男、簡単には忘れられないだろう。 「イザーク様」 「シホ?どうした、こんなところまで」 上官と別れ、自身の執務室へ向かうと、廊下のあたりでシホが待っていた。 硬質な美貌に笑みが上ると、硬く閉ざされた蕾が綻んだように、美しい。 そう、冷静に分析できる自身を想った時、彼女を愛せていないことを痛感する。 「たまたま近くまで来たので、一緒に帰ろうと思い、待っていたのです。今日は、お仕事は終わりなのでしょう?」 「あぁ……そうだな、共に帰ろう」 「はい」 「……嬉しそうだな」 「イザーク様、最近ずっとお帰りが遅かったんですもの。嬉しいです」 臆面なく信頼を示す彼女に何度、跪いて許しを請おうと思ったことだろう。 赦してくれ、俺はお前を愛していない。 赦してくれ、俺はお前を愛せない。 情熱の全て、捧げられる愛情の全てを、既に別の少女に捧げた。 彼女以外愛せない。 お前の才能を愛している。 お前の能力を愛している。 でも、おまえ自身を愛せない。……赦してくれ。 何度そう、思ったことか。 「イザーク!!」 「何だ、ディアッカ。話は明日にしろ」 「そんなこと言っていられる場合じゃない!アスランが……」 「ディアッカ!場所を考えろ!! ……シホ、すまない。何か用事が出来たみたいだ。もう暫らく、ここで待っていてくれないか?」 ディアッカを一喝すると、イザークはシホに淡い笑みを、見せた。 そして紡がれた言葉に、彼女は頷く。 向けられる、曇りのない『信頼』。それが、重い。 部屋に入るよう促し、扉を開けると、少女めいた容姿のあどけない少年が振り返った。 「イザーク様、今日はもう、お帰りではなかったのですか?廊下で、奥様がお待ちに……。中でお待ちくださいますよう、申し上げたのですが……」 「あぁ、ニコル。少し用ができた。悪いが、人払いだ。お前も、外に出てくれ」 「分かりました」 幼い容姿に笑みを浮かべて、ニコルと呼ばれた少年が退室する。 彼は、イザーク付きの従卒だった。 「何があった?」 「アスラン……アスランのところに、行ってやってくれ」 「またその話か。くどいぞ、貴様」 「……今夜が、峠なんだ」 「何……?」 「容態が悪化して、もう、意識もあまりはっきりしていない。お願いだ、イザーク。逢ってやってくれ……最期に一度、逢ってやれよ。あの子は……」 「……断る」 蒼氷の瞳を硬く閉じて、彼はそう言った。 そうしなければ、喚き散らしてしまいそうだ。 何故……?何故……?何故、と。 彼女を守れなかった自分を、撃ち殺してしまいたくて堪らない。 でも、逢えない。 ……逢っては、いけないのだ。 「イザーク!」 「ディアッカ、これを、あいつに渡してやってくれ」 「葬式用の、晴れ着……か?」 「あぁ。俺には、それしかしてやれない」 彼が引き出しから取り出したのは、真っ白の衣装だった。 飾りのないシンプルなものだが、それゆえかえって、彼女には良く似合うだろう。 そう、思う。しかし……。 「もう、着れないぜ……?」 「え?」 「服、小さすぎる。今のアスランにはきっと、着れない……」 ディアッカの言葉に、目頭が熱くなった。 成長、したのだ。 彼女は、成長しているのだ。 そうだ。今イザークは26歳。アスランは、17歳になっている筈。 別れたあの日より、成長している筈だ。体つきも、変わっているだろう。 「そう……か。大きく、なったんだな……」 小さな少女のアスランしか、知らないけれど。 どれだけ美しく、成長したことだろう。 できることなら、見届けたい。 けれどそれは、叶わない。 「イザーク、アスランのところへ……」 「……アスランとは、誰なのですか?」 「……シホ……」 外で待っていろと言っておいた筈のたシホが、静かに入室してきた。 その顔は、蒼白になっている。 それでも彼女は、まっすぐイザークを見つめ。 「お答えください、イザーク兄様。アスランとは、誰なのですか?」 「……シホ」 「お答えください!」 冷静な彼女らしくもなく、その唇から絶叫が迸る。 それでも、他の女のように泣き喚いたり、ヒステリックに罵ったりは、しない。 シホのそう言うところを、好ましく思っていた。 それでも、彼女よりもアスランを、より深く、愛してしまった。 「お答えください、イザーク兄様。アスランとは、一体誰なのですか?」 「……3年前、俺が拾って愛した、少女の名前だ」 「では……では、彼女なのですか!?兄様が家を捨ててまで選んだ娘と言うのは!」 「……そうだ」 「何が、あったのですか?」 「シホ……?」 「アスランと言う娘が、どうしたのですか」 シホの声にも言葉にも、咎める色はなかった。 ただ彼女は、事実を確認していた。 「結核に冒されている……今夜が、峠だそうだ」 「イザーク兄様」 「何だ?」 顔を上げたイザークが見たものは、扉を開け放ち、外を指差すシホの姿だった。 「シホ?」 「……行ってあげて、ください。どうぞ、お気の済むようになさってください。私は、ここでお待ちしております」 「シホ……しかし……」 「監視のことは、お気になさらないで、兄様。私が上手く言い含めておきますから」 「シホ……!?」 「必ずお戻りになると、約束して、兄様」 シホの唇が、戦慄く。 涙を堪えているのだろうアメジストが、微かに潤んで。 それでもシホは、毅然としてそう言った。 「有難う、シホ……」 その頬に口付けると、イザークは走り出した。 幸せな夢を、見ていた。 うっすらと目を開けると、途端にえもいわれぬ倦怠感に襲われる。 喉が、渇いて。 はぁはぁと、喘鳴めだけが狭い部屋に響いた。 「イザ……ク。逢いた……」 小さな唇が、彼の名を、呼ぶ。 苦しい息の下、微かに笑って。 「アスラン……!!」 「イザ……ク?」 来て、くれた? 室内に飛び込んできた男の名を、呼ぶ。 これは現実だろうか。それとも、幻なのだろうか。 嗚呼もう、どちらでも構わない。 夢なら、何て幸せな夢だろう。 「すまなかった、アスラン……!」 「イザ……」 「愛してる、アスラン。ずっとずっと、お前だけを愛してる」 「ホン……ト……?嬉、しい。僕、も……イザ、大好き……愛して、る」 嗚呼、何て幸せなんだろう。 何て何て、いい夢。 最後に彼の夢が見れるなんて何て、幸せなことだろう。 イザークだ。 大切にしてくれた。愛してくれた。 大好きな、イザーク。 イザークの腕が、アスランをしっかりと抱きしめる。 温かくて、アスランは笑った。 彼の温もりが、冷えた躯に滲みて。 うっとりと、アスランは笑う。 「眠く、なってきた……」 「……そうか」 「折角来てくれたのに、ごめんね……」 「構わないさ。ゆっくり寝ろ。……時間はまだ、あるから」 「おやす……」 「ああ、おやすみ、アスラン……」 一度二度、胸が上下して。 そして呼吸が、止まった。 「おやすみ、アスラン。もう、苦しいことは、ない。傷つくことも、ない。神の庭で、どうか安らかに……アスラン……お前を、愛していたよ……愛して、いるよ」 抱きしめ、その額に口付ける。 魂の抜けた躯は、涙が出るほど、軽かった――……。 |