破滅のときが、近づいている――……。










天上篇〜Y〜









 壮大な音色が耳朶を打つ。
 壮大にして、華麗なる……その音色。
 圧倒的に響くそれは、音楽界に不滅の金字塔を打ち立てた男の創作した楽曲。
 オペラ「ニーベルングの指環」
 その第3夜『神々の黄昏』。

 詞の一節を、妙なるその声が歌い上げる。
 小さな……微かな、声。
 けれどその声を、言葉を。聞きとめたものが、いた。


「ラグナロクかね、イザーク」
「えぇ、ザラ総統」


 クルーゼに次いで、親衛隊ナンバー2の地位に就いたイザークに、総統であるパトリック=ザラはそう、尋ねた。
 それに、微かな微笑で答える。

 『ラグナロク』
 神々の、黄昏。


「君の言葉は、誰に向けてのものかね」
「……私自身へ、ですよ」


 滅亡への、序曲。
 それは、彼自身にこそ、相応しい。彼はそう、思っていた。

 愚かな男だ。
 どうしようもなく、愚かな男だ。
 自害するにも、値しない。


「君へ……?」
「大切なものを何一つ守れない、愚かで。自己欺瞞と自己弁護と保身だけは一人前にこなせる、そんな私には、滅亡が相応しい。それだけです」
「ほぅ……?」
「アスランと言う名前を、ご存知ですか?総統」
「何……アスラン……?」
「貴方の、ご息女でしたね」


 彼女の遺品を整理していて、見つけた。
 小さな短い、遺書。
 イザークを赦し、愛している、と。
 そう書かれた遺書の末尾は、こう結ばれていた。


『Athrun Zala』


と――……。


「娘を、知っているのか!?どこだ!娘は、どこに……」
「……死にました」
「何……だと……?」


 胸倉を掴みかからん勢いで尋ねる総統に、イザークはそう、答えた。
 アスランは、彼が忠誠を誓う男の、娘だった。
 本来ならば、あのような暮らしを送る必要のなかった、幼い娘。
 結核で、死んでしまった。


「アスランは、結核を患い息を引き取りました。……看取ったのは、私です」
「君……が?なぜ?」
「貴方に捨てられたアスランは、路上で客引きをしていたのですよ。大人たちが、彼女を食い物にして」
「そんな……」


 呆然と、総統は呟く。
 その様子に、聞いていたのと話が違うな、と。思った。
 彼女の話では、総統はアスランの母レノアを殺し、アスランを捨てた、とのことだったから。


「アスランを捨ててはいない……!逸れて、探したが……手がかり一つ……!」
「逸れた?アスランは、貴方に捨てられた、と言っていましたが」
「大切な娘を、誰が捨てるものか!」


 顔を赤くして、総統は叫ぶ。
 その言葉に、嘘はないと思った。
 けれどもう、どうでもいい。

 ただ、知っていて欲しかっただけ。
 彼の娘であった少女が、死んでしまったことを、教えようと思っただけ。
 きっと彼女は、それを望んでいただろうから。
 そうでなければ、遺書にわざわざザラの姓を使って署名などしないだろう。
 だから、教えたのだ。
 それだけだ。



 生きて、欲しかった。
 それだけを、願っていた。
 そんな彼女を、喪ってしまったのだから――……。












 繰り返される、抗争。
 この国は、どれだけの犠牲を捧げて他に君臨するつもりなのか。
 しかしその血みどろの闘争劇にも、動じなくなっていた。
 心が、麻痺したように動かない。

 シホは笑顔で、彼を出迎えた。
 監視の目を誤魔化してくれたのだろう。
 母は、何も言わなかった。



 戦争は、負けが込んできた。
 軍は、敗退を余儀なくされ、各地に広がる拠点を次々と放棄せざるを得なくなり。
 首都が、陥落した――……。






「シホ、母上を頼む」
「はい、イザーク様」


 涙を堪えた妻が、しっかりと頷いた。
 その方に寄り添うようにして、エザリアとシホは共に支えあっている。
 首都陥落より2日前。
 イザークはエザリアやシホを密かに、逃がした。
 シホの胎内には、彼の子供がいたから。


「母上、シホと私の子供を、お願いします」
「イザーク」
「私は、私の責任を果たします」


 パトリック=ザラは、毒を呷って自害した。
 ラウ=ル=クルーゼは、戦闘の最中命を落とした。
 イザークは、責任を果たすべき立場に、あった。

 彼の祖国は、負けたのだ。
 連合の圧倒的な物量に……猛攻に、負けた。
 責任を、負わなくてはならない。
 この戦争の、責任を。


 親衛隊は壊滅し、イザークは逮捕された。
 裁判が開かれ、判決が言い渡される。
 判決は、有罪。そして、死刑だった――……。



**




 逮捕の前日、ニコルはイザークの元へ急いでいた。
 彼は己の執務室の椅子に端然と座り、静かに時を待っている。
 何が起こるのか。
 捕まればどうなるのか。
 知らないわけではあるまい。

 親衛隊隊員の多くは、国外へ逃亡した。
 彼らは憎悪の対象となっており、逮捕されれば、死刑は免れない。
 彼ら自身がそれを、知っていたから。


「イザーク様!」
「何だ、ニコル。まだこんなところにいたのか。お前はさっさと逃げろ」
「いいえ!逃げるのは、イザーク様のほうです!逃げてください……!」
「断る」
「どうして……!?」
「誰かが責任を負わねば、戦争に決着はつかない。俺が逃げれば、俺より下位の者が責任を負う羽目になってしまう。俺で、止めねば。責任は、俺が負う」
「何故、貴方が!?」


 彼は隊員の中でもっとも、暴力とは無縁だった。
 勿論、まったく振るわないと言えばそれは、嘘になるけれど。
 彼は出来るだけ人道的に逮捕者を処遇していた。
 他の隊員のように、サディスティックにいたぶる事も、傷つけて遊ぶことも、なかった。
 それなのに、何故。
 何故、彼が責任を負うのだ。


「有難う、ニコル」
「イザーク様……」
「俺を案じて、此処まで来てくれたんだな、有難う」


 淡く笑って、ニコルが仕える青年はそう、言った。
 その瞳を見て、ニコルは悟った。
 彼は、死ぬ気なのだ。
 そう、悟らざるを、得なかった。


「ニコル、頼みがある」
「何ですか?」
「これを……」


 そう言って、イザークはつややかに美しい銀糸を、自らのナイフで切り落とした。
 長く伸ばされたそれが、顎のラインほどの長さに、なる。
 切り落とした銀糸を、彼はニコルに差し出した。


「これを、ある場所に埋めて欲しい」
「どちらに?」


 尋ねる少年に、彼はある丘の名を上げた。
 そこにある墓の近くに、埋めて欲しい、と。


「俺の躯は貴女と共に眠れないけれど、心は、貴女の傍にあります、と。そう言ってくれ」
「分かりました。……どちらの、お墓なのですか?」
「……俺の最愛の人の、墓だ」
「分かりました」
「頼んだぞ?」
「はい」


 頷いて、ニコルは駆け出した。
 彼の意志を、果たすために。

 イザーク=ジュール逮捕の、前日のこと、だった――……。



**




「イザーク=ジュール、出ろ」


 声をかけられ、彼は静かに、牢を出た。
 晴れた、日。
 心地よく、晴れた日。
 設えられた処刑台の周りには、処刑を見物するために訪れた観客で溢れかえっていた。
 悪趣味なことだ、と。鼻で笑う。

 心は、穏やかだった。




 瞳を閉じて、彼は束の間黙祷を捧げた。
 愛した、少女。
 誰よりも愛しくて、何よりも大切だった。
 ただ、ずっとずっと愛していた。

 その、少女。
 もうすぐ、逢える。
 沸き立つ歓喜を、一体どう言葉にすればいいのだろう。

 泣くな、と。彼は囁いた。
 泣かないで、欲しい。
 もう、泣かせないから。

 たくさん、傷つけた。
 それでも、最期の最後まで微笑んで……泣きながら微笑んで旅立った、愛しい少女。
 彼を、待っていてくれていた。

 もう、離れることはない。
 もう、離れないから。
 これからは、ずっとずっと一緒だ。
 だから、泣かないで欲しい。







 まっすぐと、前を見据える。
 良く、晴れた日。
 本当に、いい日だ。
 嗚呼、いっそこのまま、天使に出逢えそうな。そんな美しい、日。
 こんな日に死ねるのは、幸せなことなのではないだろうか。




 空は、高く。
 青く広がる、彼女の髪よりも淡い色の空。
 風が、吹いた。
 優しく撫ぜるように吹く風に、もうすぐだから、と笑う。

 今、君に逢いに行く。
 もう、離れることはない。
 死の苦痛の果てにあるのは、愛しい君の笑顔だから。
 だから。
 だから死ぬことは、怖くない。



 愛している、アスラン。
 今、君に逢いに行く。

 首に縄が、かけられた。
 無粋なそれが、喉を圧迫する。
 床が抜けて、宙吊りになって。
 首を圧迫されて、骨が折れて。それで、お仕舞い。
 君が負った傷に比べればこんなもの、受くるは容易い。

 ふっと、その口元を笑みが飾った。
 風に浚われて溶けてしまいそうなほど、儚い儚い、それでいて優しい微笑。
 幸せそうに、その瞳が細められる。
 愛しさを。
 より切なる愛しさを、こめて。
 その唇が、名を紡ぐ。


 愛している、アスラン。













 今、君に逢いに行くよ――……。




黄昏は深淵に沈み

神々はヴァルハラの城と共に滅び

『神話』は崩壊する

神話の、滅亡。

その滅亡は新たな時代の礎となる





運命は時を刻み

一つの時代が

こうして終わった――……