誇り高き、白き軍服。

生贄の赤の上に立つ、『穢れてはならぬ白』。

それは、穢れなき忠誠の証。

プラントのために生き

プラントのために死ぬ

その、純潔の誓いの証。









ちた純潔の白










「ですから、キラにお願いしたのです」


 青の瞳を輝かせて、議長に就任した女は、周囲の非難を意に介した様子もなく、微笑んだ。
 その笑顔にあからさま潜む媚態に、眉を顰める。
 白けた空気が、辺りを包んだ。

 しかし彼女が、それに気づいた様子はない。
 いや、気づきもしないのだろう。
 彼女にとって、周囲の人間などというものは、意に介するに足らぬものなのだ。
 彼女にとって『大衆』とは所詮、己の意志に迎合するだけの存在でしかないのだろう。
 それは余りにも、民衆を馬鹿にした考えだ。
 これほどの……あからさまな身贔屓の例を見て、眉を顰めぬものなど、いない。


「仰っている意味が分かりません、ラクス=クライン?」


 冷静な声で、アスランの隣に立つイザークが、唇を開いた。
 感情を押し殺したような声音ではあるが、長く彼とともに戦場にあったものは、きっとその声だけで彼の機嫌が限りなく最悪の方向に振り切ったことを悟るだろう。
 イザーク=ジュールは、あからさまに目の前の女に、反感を隠そうとしなかった。
 むしろ、愚かな女だ、と。蔑んだ色さえちらつかせている。
 気がつかないのは、色ボケして微笑み会っている二人――ラクス=クライン『議長閣下』と、キラ=ヤマト『隊長』――ぐらいだろう。


「あら、ジュール隊長。わたくしが今申しあげた通りですわ」


 何故そう言葉を返されるのか、分からない。
 そう問いたげに、彼女は小首を傾げた。
 微笑むその笑顔は、他者の諫言など無言のうちに拒絶している。
 甘言吐く輩しか、彼女の周りには必要ないらしい。
 利己的な女に、彼は舌打ちした。


「あぁ、そうですか、ラクス=クライン」
「はい。お分かりいただけましたか?」


 薄く笑みを浮かべて、イザークは沈黙した。
 怒りと、嘲りと、屈辱と。
 ない交ぜになった感情が、彼のそれ以上の発言を抑止していた。
 彼自身、言葉が見つからないのだろう。

 プラント最高評議会議長。
 至高の地位に立つ女が、これほどまでにお粗末な常識しか有していないとは、思いもしなかったのだ。
 唇を噤んだイザークに変わって口を開いたのは、アスランだった。


「何故、キラが白なのですか、ラクス」
「あら。アスランは、キラの功績がそれに相応しくないと仰るのですか?」


 分からない。
 心底、分からない。
 そう言いた気な女を、この時初めて撃ち殺してやりたいと思った。

 何故、キラが白を着ると言うのだろう。
 着れるのだろう。
 どれだけ面の皮が厚ければ、それほどの決断が出来るというのか。

 押し黙るアスランに、それまでラクス=クラインの陰に隠れていたキラは、嗜めるように口を開いた。


「平和のため、世界のためには、僕がこうしてラクスと一緒に皆を指導していかなきゃ、駄目じゃない?」


 室内を包む空気は、一気に漂白した。


「指導する、だと……!?」


 ギリ、と。唇を噛み締める音を、確かに聞いたと思った。
 漂白された空気は、どこまでも冷たく。
 微笑み合う二人に、無言の敵意をぶつける。
 それに気づいた様子も、何かを悟った様子も、ない。

 彼ら二人を包む周囲の空気だけが、他と一線を画して甘ったるい欺瞞を抱えていた。

 嗚呼、彼らは気づかないのだろうか。
 その身が纏う、純白。その意味を。
 知ろうとさえ、しないのか。
 何故、こんなにも痛い悪意を向けられねばならないのか、何故それを知ろうとしない?
 知ろうとしさえすればまだしも、救いはあるのに。

 アスランの隣のイザークは、もう嘲弄に使う言葉さえも惜しいとばかりに、そっぽを向いている。
 嗚呼、きっと彼は決めたのだろう。
 彼は、きっと、自ら決めてしまったのだ。
 きっと、今此処で。

 しかしアスランにとって彼らは、一応「親友」であり、「元婚約者」だ。
 そう簡単に彼らを、自らの人生から切り離すことなど出来ない。
 何とか言葉を紡ごうとするも、その唇はいかな言葉も形作ろうとしなかった。
 彼自身、きっと驚き呆れてしまったのだ。
 その唇が言葉を紡ぐことを忘れてしまうくらい、驚愕した。
 自らの「親友」が紡いだ言葉の、あまりの倣岸さ。あまりの不遜さ。そしてその、面の皮の厚さに。
 しかしこれでは、いけない。
 何とか、言葉を。彼らを諌めなくては、ならない。

 アスランは、隣のイザークに視線で訴える。
 そして音を発せず、唇を動かした。


『何とか言え』
『ふん。馬鹿馬鹿しすぎて、最早かける言葉も惜しい』
『何を我侭なことを言っているんだ!このままこの二人に暴走させるわけには行かないだろう!』
『自業自得だ。俺は知らん』
『この二人が泣こうが喚こうがそれは君の感知するところじゃないというのであれば、それはそれでいい。でも、そうなったとき、泣くのはプラント国民だぞ!』


 アスランのように、イザークも音を発せず唇を動かす。
 勿論、周りに悟られぬよう、その動きは微々たる物だ。
 しかし、アカデミーで一通りの読唇術を学ぶ彼らにとって――また、互いを理解し合っている彼らにとって、それは決して難しいことではなかった。
 けれど、キラは分からないだろう。

 彼は、アカデミーを出たわけではない。
 ごく普通の工業カレッジの学生であったに過ぎない身だ。
 本来、如何にMSの操縦技術が優れていようと、他国の軍で准将の地位に上り詰めることなど不可能なはずだ。
 何も出来ない幼稚園児に、ほいほいと位をやるほど、『軍』という組織は甘いものではない。
 そこで消費されるものが『命』である以上、無能な者が組織の上位に上り詰めてはいけないのだ。
 しかし、彼は上り詰めた。
 その上、今こうしてザフトで、白を纏う『隊長』にまで就任しようとしている。
 それは、何たる愚行か。


「どうしたの、アスラン。イザークさんと、お喋り?」


 キラの言葉に、イザークは鼻を鳴らして哂った。
 彼らしくもない行動だが、呆れて物が言えないというその気持ちは分かるから、アスランも咎めようとは思わなかった。
 イザーク=ジュールという男は、確かに何様?と思われる言動をとることが多い男ではあるが、名門家の嫡男として生まれただけあって、守るべき礼節を、本来はしっかりと弁えている。
 その彼が、礼節を守る価値も必要もないと断じたのだろう。そうでなければ、こうして自らの上位者たる女性――ラクス=クライン――の前で、あからさまにその恋人を侮蔑する筈がない。
 否、だからこそ侮蔑したのだろうか。本来、実力ではとても、上り詰めること叶わぬ地位に、女の力で上り詰めるキラを。


「キラ、そんな愚かなことはやめろ。一体誰が、お前の命令に従うと思うんだ?」


 アスランとしては、せめてもの慈悲で紡いだ言葉だった。
 誰が、従うというのだろう。
 実力ではなく、恋人の権勢とコネで自分たちの上位者となった上官に。
 誰が、従うというのだろう。
 ザフトに「たたき上げ」の軍人など存在しなく、みなアカデミーで教育を受けたものばかりの中、軍人の常識など、知ろうともしない上官に。
 軍人の誇りも恥辱も、知りもしない上官に。
 従うわけなど、ないと言うのに。
 今なら、まだ間に合うというのに――……。







 白。

 純潔の白。

 我らの誇り。

 我らの誇りの色彩。

 穢れなき純潔の忠誠。

 二心なき忠誠の証。







 この色とともに在り、この色とともに死んでいった同胞たち。
 だからこそ、この色を穢す者は、赦さない。
 同じ白の軍服であっても、オーブのものとは、違うのだ。
 同じような感覚で、その身に纏ってほしくなどない。

 血に汚れても、その色に気づかぬほどに深いレッド。
 血を吸う度に、その赤は深みを増す。
 生贄の色。
 一目で分かる、小隊長クラスが纏いし色彩。
 ザフトの赤。
 そして、レッドの上に君臨する、穢れなき『白』――……。
 『赤』を経ずに、白を纏うなど、赦されない。


「今、僕が出来ることは、これだけじゃない?だったら、できることをしないと。ラクスの目指す、平和な世界のために……」
「下らん綺麗事を言うのは、よすんだな」
「イザーク!」


 あくまでも笑みを絶やさずに言葉を紡ぐキラに……その言葉の内容に、ラクスは嬉しそうに微笑んだ。
 彼女の思うとおりの言葉を紡いでくれる彼に、笑みはますます深まる。
 呆れて、物も言えない。

 幸せそうに。
 本当に、幸せそうに。
 外の世界の疲弊などまるで知らぬ気に笑い合う、二人。
 そんな二人に、ついにイザークが口を開いた。
 鋭い弾劾の言葉を、乗せて。


「そうだね。そうやって、僕たちのやることを悪く言う人たちが出るのは、仕方がないよ。でも、そう言う人たちの心を、ラクスは鎮めようとしているんだ」
「……」
「だから……」


 嗚呼、何て何て無意味な言葉。
 一体何をどうしたって、彼と言葉が重なることなど、ないのではないだろうか。
 彼とは常に、平行線である気がしてならない。
 そもそも、何故疑いもせずに自らの正義を信じられるというのだろう。
 自分たちこそが正義だと、臆面もなく言うことが出来るのだろう。

 嗚呼、そうか。と、アスランは一人合点がいったとばかりに頷いた。
 彼らが、彼らの正義を信じる筈だ。
 それ以外の正義など全て、強大過ぎる武力で粉砕していくのだから。

 『強すぎる力は争いを呼ぶ』
 かつて、オーブ首長国連邦代表首長閣下が紡いだ、綺麗事。
 綺麗事紡いだその舌の根も乾かぬうちに、自らは強大過ぎる力持つことを肯定する、その厚かましさ。その厚顔さ。
 自ら省みて、恥じ入ることもないのだろうか。



 見えぬ断絶が、互いの間に広がっていた――……。



**




「やっていられるか!」


 結局彼らの会話はそれ以上成立せず、それぞれが執務室に引き取ることとなった。
 そして、執務室に入室と同時に、彼は爆発した。
 いっそ、議長に就任した女の前で爆発しなかったことに、自分で自分を褒めたいぐらいだ。

 怜悧な印象を与えやすい銀糸の麗人は、その実非常に激しやすいことで有名だ。
 案の定、その眉間には盛大に皺が刻み込まれ、白皙の肌には激情ゆえに朱が上っていた。


「落ち着け、イザーク」
「落ち着け、だとアスラン!?これが落ち着いていられるか!」


 その激情に、アスランは溜息を吐いた。
 本当に。
 イザーク=ジュールは大人になった、と。誰もが口にする。
 戦時中の彼を知るものたちにとっては、確かに彼は大人になったように見えるのかもしれない。
 無闇やたらと激することはなくなったし、個人プレーに走ることも少なくなった。
 しかし、やはり彼は変わらない。
 その高潔さ、その純粋さは、変わらないのだろう。

 純潔の白を纏うに相応しい、高潔にして誇り高い、人。


「ラクス=クラインは何を考えている!ザフトはあの女の玩具ではない!」
「……そうだな」
「この色を……よりにもよって、この色を……何も知らない子供に与えるなど!正気とはとても思えん!」
「あぁ、まったくだ」


 この色は、彼にこそ相応しい。
 纏うものが誇りを持つからこそ、その色は輝きを増す。
 彼とキラでは、違うのだ。

 確かにキラは、力を持っているかもしれない。
 モビルスーツの操縦に関しては、余人の追随を許さぬ技量を有しているかもしれない。
 しかし、それだけだ。
 それ以外の一体何を、キラはできるというのだろう。

 撃つ覚悟も、撃たれる覚悟もない甘ちゃん。
 戦場に出る覚悟もなく、ただ巻き込まれるがままにモビルスーツに搭乗し、多くのものを殺戮し。
 前大戦終結後は、オーブに隠棲。
 自ら犯したことに対する責任は一切負わず、ただ次なる戦いの準備だけをしていた、彼。
 彼にできることは、天秤がどちらかの陣営に傾いたときに颯爽と登場し、強大すぎる力で全てを薙ぎ払うことだけだ。


「俺はこんな未来を見るために、あの女を援護したわけでは、ない!」
「分かっているよ、イザーク」


 唇を噛み締め、後悔の海に溺れそうになっている彼の頬を、そっと掌で包み込む。
 分かっている……分かっているよ……と。囁くように。

 あの時、戦局は疲弊していた。
 ギルバート=デュランダルは、遺伝子という本人に選択の理由のないものを使って、人類から「選択肢」という名の自由を奪おうとした。
 そして、プラントを撃った兵器を修復し、その砲口をオーブに向けた。
 だから、イザークは離反した。
 決して、ラクス=クラインが正しいと思ったわけでは、ない。ただ、あの兵器が許せなかった。それを使うデュランダルに対する不信は、自分でもどうしようもなかった。
 だから……けれど……。

 自らの行為は、プラントを守るためのものだった、と。
 胸を張って言えない自分が、いる。
 あの時はそう、信じていた。
 プラントのために。その気持ちだけで、精一杯だった。
 けれど今、プラントの現実は、どうだろう。

 復興は、遅れている。
 理由は、簡単だ。
 ラクス=クラインはオーブに対し、いっそ過剰とも言える支援策を打ち出している。
 武装は放棄すべきと訴え、プラントの非武装化が進められていた。
 人心は……荒廃している。

 なぜ、それを見ようとしないのだろう。
 なぜ、他者の気持ちを慮ろうとしないのだろう。


「俺は……」


 後悔など、似合わないことは分かっている。
 それでも、悔やまずにはいられなかった。
 今のプラントの、現実。
 それを見れば、どうしても。
 悔やまずには、いられない。
 こんな未来のために、戦ったわけじゃない。

 欲しいのは、ただ一つだった。
 ただ、プラントを守りたい、それだけだったのに……。



 アスランは、イザークの頭をそっと抱える。 後悔の海に押しつぶされようとしている彼を、慰めることはできない。
 言葉ではどんなことも、言えるけれど。
 でも、彼が自分から立ち上がる決意をしなくては、彼が動くことはできないだろうと、思う。
 イザークだって、アスランが悩む時そうやって、待っていてくれた。
 もっともイザークの『待つ』は時限式で、常にアスランのこめかみに向かって拳銃を突きつけているような、そんなところがあったけれど。


「俺、は……」
「何だ?イザーク」
「俺は、自分なりのけじめを、果たしたつもりだ」
「……あぁ」
「『レクイエム』を、地球に向けては、いけなかった」
「……わかっているよ」


 イザークは、民間人を誤って殺した。
 軍人として、それは決して赦されないこと。
 軍人ならば、殺してもいいのか、と。そういう人間もいるかもしれない。
 軍人も民間人も、同じ人だ、と。同じ人である以上、軍人も殺してはいけない、と。そういう人間も、いるだろう。
 それは、勿論そのとおりだ。
 軍人も民間人も、同じ『人』だ。
 しかし、覚悟が、あるから。

 軍人ならば、覚悟を決めている筈だ。
 戦場で人を殺める覚悟。
 戦場で、殺される覚悟を、決めている。
 戦場という場所は、殺し合いが唯一合法的に認められてしまう、合う意味狂気に満ちた場所なのだ。
 殺さなければ、殺される。
 そういう環境下にあるからこそ、生きるためには戦わなくてはいけない。
 それはなんて、原始的な。
 何て原始的な、ことだろう。

 戦場で生き残るためには、些細な人間性など擲たなくては、ならない。
 自分が今、こうして屠ろうとしている相手にも家族がいて。守りたい人がいて。愛する人がいる。
 そんなことを考えていては、自分が殺される。
 それが、戦場。
 その滑稽なまでの原始性が、戦場なのかもしれない。


「俺は、先の大戦で民間人を誤って殺した」
「……あぁ」
「殺したのは、民間人だけではない。それは、分かっている。でも、どうしても……どうしても、それが……」
「それが頭から離れないんだろ?分かっているよ、イザーク。だから君は……」


 だからイザークは、『レクイエム』の光の刃を地球に向けて振り下ろすことを、許容できなかった。
 そこにいるのは、軍人だけではない。
 何千何万という無力な民間人を、無慈悲に殺戮し尽くすことを、意味するから。
 そしてそれを、プラントにさせたくなかった。
 ザフトにさせたくなかった。
 そんなことをして、自身の血塗れの手に慄き嘆くのは、自分だけで十分だ。


「純潔は、堕ちた」
「アスラン?」
「俺たちが誓った、誓いは穢された。赦せるか?イザーク」
「……赦せるわけが、ない」
「俺もだよ」


 アスランの胸に顔を埋めたイザークが、顔を上げた。
 灼熱を宿したアイスブルーが、真っ向からアスランを見据える。
 その眼光の鋭さに、アスランはイザークが……イザークの精神が回復したことを、知った。
 知覚した。


「この軍服を信じ、我等の正義を信じ、殉じた数多の将兵の祈りを、踏み躙るなど」
「この軍服を信じ、我等の正義を信じ、殉じた数多の将兵の願いを、踏み躙るなど」
「「絶対に、赦せない」」


 言葉が、重なった。
 それに想いも、重なる。

 この軍服を信じ、正義を信じ、そして殉職した数多の兵士たち。
 アカデミーで同期だった、ラスティ、ニコル。
 先輩だった、ミゲルにハイネ、オロール、マシュー。
 それだけじゃない。もっとたくさんの兵が、二度に渡る戦争で、殉職した。
 みな、信じていた。
 みな、祈っていた。
 プラントの安寧を信じ、その為に戦場に出て、命を落とした。
 それを脅かし、その願いを穢すやつらを。
 その思いを陵辱するものを、赦しては、いけない。
 それは何よりも、彼らの遺志を穢す行為なのだから。


「シンやルナマリアも、計画に加えようか、イザーク」
「シホにディアッカ。この二人も欠かせない」
「計画は、水面下に進めよう。万が一発覚したら、その場で切り捨てる。枝を絶って、幹を残す。俺がミスをした場合も、同様に処理してくれ」
「俺もだ。アスラン。俺がミスを犯して計画が露呈した場合も、同様に処理しろ」


 ふっと、アスランが華のように笑えば、イザークも硬質な美貌に笑みの欠片を刷く。
 コーディネイターの中にあってさえ、際立って造作の整った二人なればこそ、息を呑むほどに美しく。
 それでいて、どこか禍々しい笑みを、浮かべて。
 唐突に、その距離が詰まった。
 まるで誓いのように、唇が重なる。
 それはどこか、神聖な荘厳ささえ、纏いながら――……。



**




 憎むな、と言いますか。

 憎しみを捨てろ、と言いますか。

 ならば私は、そんな貴方たちにこそこう言いたい。

 ならば、帰せ、と。

 私が愛した人を帰せ、と。



 それが出来るなら、私は喜んで。

 貴方たちを憎むこの感情を、捨て去ってみせましょう。









 捨てきれない思い出に執着して、這いずるように日々を過ごすことを無様と言うならそれは、その人間はまだ、捨てきれないほどの執着を覚えたことがない人間だ、と。
 私は私を無様と嘲る人間を哀れむだろう。
 そう、彼女――サーシャ=ミリアム――は思う。
 目の前に映し出されているのは、議長に選出されたラクス=クラインとキラ=ヤマト。
 幸せそうに、幸せそうに微笑み合う姿は、まさに初々しい恋人同士そのもので。
 だから余計に、彼女の憎悪を煽った。

 私にだって、いた、と。
 私にだって、いた。
 愛する人が、かけがえのない人が、いた。
 でももう、どこにもいない。
 大切な人は、奪われた。
 奪ったのは、目の前で微笑むラクス=クライン。
 かつて、『プラントの聖女』と呼ばれた女だった。

 確かに、彼女自身は直接手を下してはいない。
 彼女の命を受けた“フリーダム”が戦場に乱入して彼のモビルスーツの武装とカメラを奪い。
 彼と敵対していた“ガイア”が、彼のモビルスーツを一閃した。
 けれどその元凶を招いたのはまさしく、恋人と幸せそうに微笑む女だった。


「赦せ、と。言うの……?」


 私から、大切な人を奪ったのに?
 ハイネを、奪ったのに?
 そう、彼女は思う。

 赦せ、と。
 赦さなくては、いけないのか。
 いいや、違う。
 どうして、赦せるというのだろう。
 どうして、赦せなどといえるのだろう。
 そんな傲慢な言葉を、どうして。
 彼を奪ったのは、お前たちだというのに!


「赦せるわけが、ないじゃない」


 ポツリ、と彼女は呟く。
 赦せるわけが、ない。
 彼は、奪われた。
 その命は、喪われた。
 その命を奪った人間が、赦せなどと。
 何と言う、傲慢か!

 モニターに映し出された男女を眺めて、少女は唇を噛み締める。
 何度も、何度も。
 噛み締めた唇が切れて、血の味が滲んだけれどもう、その感覚さえも分からない。

 どこにもいない!
 どこにもいない!
 どこにもいない!

 愛した人はもう、どこにもいない!
 その人を奪った人間は、その痛みを負うでもなく。ただ『赦せ』というのだ。命を奪ったことは仕方がない。だから、赦せ、と。ラクス=クラインがしたことなのだから、赦せ、と。
 奪ったものが紡ぐ、その言葉ほど滑稽なものはないというのに!


「赦せない……のよ」


 唇を噛み締めて、少女は歩いた。
 その傷みを、ぶつけるために。
 それが救いにも何にもならなくて。ただ空しいだけの行為と分かっているけれど。
 問い質さずには、いられなかったから。

 さぁ、いきましょう。
 私の絶望を、叩きつけるために。


 ……それは一人の少女が、奪われたゆえに下した、哀しい決断。



**




 広大な敷地と、それに相応しい広大な邸宅。
 ジュール家の人間に、虚飾を好む趣味などない。落ち着いた佇まいの中に、けれど見るものがみれば思わず唸るほど、その内装は高価なもので埋め尽くされていた。
 その、広大なジュール邸。
 そこに、数人の男女が集っていた。

 白を纏う少女――ルナマリア=ホーク。
 FAITHは返上したが、赤服の少年――シン=アスカ。
 赤服の少女――シホ=ハーネンフース。
 黒服を纏う青年――ディアッカ=エルスマン。
 赤服にFAITHの徽章を輝かせる青年――アスラン=ザラ。
 そしてこの邸宅の主。ザフトが誇る、エリート中のエリートのみが配属されると噂されるほどの隊を率い、最も作戦成功率の高いことで名高いジュール隊の隊長。白の隊長服を纏った青年――イザーク=ジュール。
 彼らの姿が、邸宅にあった。


「誰にもつけられていないな?」
「そんなヘマをする人間ならば、隊長が此処に呼ばれることはないのではないですか?」
「シホの言うとおりだ、イザーク。そんな奴ならお前らが、此処に呼ぶわけがないだろう」
「私もシンも、尾行は撒いてきました」
「結構簡単だったであります」
「その変な敬語は相変わらずだな、シン……は、置いておいて。そろそろ本題に移ろう、イザーク」


 アスランの言葉に、イザークが一つ、頷いた。
 何も、茶飲み話をするために、此処に人を呼んだわけではないのだ。
 彼らを呼んだのは、それなりの理由があるから。
 それだけだ。
 此処に呼んだのだって、ジュール家の邸宅ならば、セキュリティが万全だから。その一言に、尽きる。
 ザフトでは現在、盗聴・盗撮行為が横行している。
 それが、自由と平和を愛する聖女と謳われる女の、裏を返せば本性だろう。


「これからここで交わされる内容は全て、他言無用に願う。秘密を漏洩した者は、自らの命を持ってその責を負わせる。それを、まずは納得してもらいたい」


 イザークの言葉に、全員が神妙な顔で頷く。
 その瞳に煌く感情は、皆がみな、同じ色だった。
 絶望と、嘆きと、怒りと。
 共有した様々な感情ゆえに、彼らはそこに集った。

 ちらり、と。イザークはアスランに視線を寄越した。
 アスランは頷き、イザークに代わって言葉を引き継ぐ。
 その一連の流れに、これからこの場で行われる話の内容、その主体がアスラン=ザラであることを、彼らは認識した。

 指揮を執るのは、アスランなのだ。
 イザークは、それを補佐する。
 彼らにとって、それは当たり前の流れだった。

 ザラ家のアスラン。
 ジュール家のイザーク。
 イザークの母であるエザリア=ジュールは、亡きパトリック=ザラの右腕とも謳われた女傑だった。
 それと、同じことだ。
 ザラの片腕となってその覇を支えるのは、ジュール。それが、彼ら二人の間にあった。


「あえて俺は、皆に問いたい」


 柔らかなテノールの声が、空間を震わす。
 口調は、優しげ。
 まるで、明日の天候を聞くような、何気なさ。
 その口調のまま、彼は言った。


「今のこの、クライン政権をどう思っているか」


 翡翠の瞳を緩やかに和ませて、青年は言った。
 口元に、笑みの片鱗さえも浮かべながら。
 彼は、尋ねるのだ。
 それが何を意味する言葉なのか。そんなことは分かっているだろうに。

 翡翠の瞳が、緩やかに微笑む。
 その瞳の奥に、ちらり、と。
 本当に僅かに、滾る憎悪が、揺れた――……。







 あぁ、おかしい。

 おかしい、おかしい。

 おかしいわ。

 おかしくて、堪らない。

 間違いよ。

 少なくとも私にとって、貴方たちは全て、間違いだわ。







「最早、彼らの愚行に対し、かける言葉とて、惜しい。率直に言うならば、俺のクライン派に対する認識は、『愚行』の一言に尽きる」


 翡翠の瞳が、和む。
 穏やかに、穏やかに。
 彼の持つ性質をそのまま現すかのように、穏やかに。
 穏やかに穏やかに、彼が笑う。

 けれどその口調が。その言葉が。
 彼の一見優しげに聞こえる声音、穏やかな微笑を全て裏切る。


「ザフトの、白の軍服。それに寄せる想いは、どれほどのものだっただろう。誰もが憧れ、手にしたいと願い、望み。その中で、隊員の命に責任を持ちうるだけの技量と責任とを負うこと可能なものにのみ赦される、それは誇りの色。そう。この軍服。この色は、我らザフト兵全ての誇りの色」


 流れた流血を、そうと認識させぬよう赤い軍服。
 最前線で作戦指揮を任される赤服は、最も多くの敵兵を討ち取ることを要求される。
 そして、必要とあらばその身を盾とし、部下を守ることさえも。
 だからこその、赤。
 流した流血を認識させぬほどに染め上げられた、赤。
 一目でそれが指揮官であると認識させる、生贄の色。
 それが、赤。

 そしてその上に君臨するのは、白。
 赤服の中でも、功績あるものに赦される、色彩。
 赤を通過して受け取る、色彩。

 もっとも多くを殺し、最も多くを犠牲とし。
 しかし、その犠牲を全て、白で押し込め覆い隠す。
 塗り固められた、白い白い罪。
 それが、白。
 白で覆い隠し。
 白で押し隠し。
 それでも、罪は罪として、厳然たる事実として屹立する。

 その色を纏うものは皆、知っていた。
 コーディネイターに宗教の概念などないが、もしもナチュラルの言うとおり、死後の世界があるとして。その審判を受けるならば。
 間違いなく、自分は、ナチュラルの言う、地獄行きだ、と。
 誰もが、理解していた。
 それが罪であることを、認識していた。
 それでもそれでも。
 守りたいと願い、誓い。それゆえに剣持ち。
 それ故に、あえて人殺しの汚名も汚辱も被ろう。
 それで守りたいものが、愛するものが、大切なものが、祖国が。守れるならば、いかほどの泥も被ろう。
 それが、その色を纏うものの、誇りではなかったか。心ではなかったか。

 ルナマリアが、顔を俯けた。
 彼女は今、艦一隻の艦長となっている。
 もともとは赤を纏うMSパイロットであったけれど、MS乗りとしての技量は、決して高く評価されていなかった。
 彼女はMS乗りを引退し、艦一隻を率いている。シンは、彼女の艦に搭乗していた。

 イザークは、顔を俯けることをしない。
 彼は誇り高く、常に前だけを見つめるタイプだから。
 ただ、同じ想いが二人の胸には去来するのだろう。
 その軍服を。白の軍服を。渡され、誇りを持って袖を通した日。

 その感傷が、二人には共通していた。

 そして、残りの新旧赤服組にしたって、それは同じだ。
 赤の軍服を手渡された日の、思い出。誇りを持って、プラントを守ると誓約した。
 そして、願ったのだ。いずれ、白を、と。
 軍での出世への渇望ではなく、より多くを守れる色。
 白への、不純物のない純粋な、憧れ。
 それを、誰しもが経験している。
 いずれ、あの色を、と。いずれ、この手に白服を、と。
 願い、憧れた。


「だからこそ、俺は皆に問う。今のクライン政権を、どう想っているのか、と。我らの誇りを踏み躙った、あの女。彼女の治世を、どのような想いで見ているのか、と」
「あの女の治世なんて、ザフトの者は望んでいない!」
「そうです……!どれだけのザフト兵が、彼女の言葉に逡巡し、命を落としたと思うのですか?それを思えば、とても赦せるものではありません」


 シンの言葉が、堰を切ったように溢れ。ルナマリアがそれに続いた。
 他の年長組は、誰も言葉にはせず。黙っていた。
 けれど、彼らのほうがより一層、憎悪は深いのかもしれない。
 彼らの時代、戦争はまさしくその加速度をましていて。
 誰もが、アカデミー卒業後は即戦力となることを望まれた。
 赤服の栄光の陰で、精神的に追い詰められ放校となったものたちも、多かった。
 あまりにも高いラインに設定された最低ラインをクリアすること叶わず、意に沿わぬ部署に配属されたり、除隊させられたものも、多かった。
 思いや願いだけでは何も守れず。けれど守りたいと願い。それが叶わないから、そこで出会ったともに思いを繋いで欲しい、と。  自分の覚悟も、ともに戦場に連れて行け、と。
 願うように祈るように。そう呟いて去る背中を、何度送り出したことか。
 栄光の陰で、常に絶望が存在していた。
 それを、彼らは知っていた。

 どれだけの思いで、仲間が、友が去り。どれほどの思いを、自分たちに残していったのか。
 どれだけの思いで、仲間が、友が散り。どれほどの思いを、自分たちに刻んで逝ったのか。
 彼らは、知っていた。


「プラントが抱いた、ラクス=クラインという聖女の幻想は、とうに潰えた」
「ラクス=クラインは、プラントを愛さない。彼女が愛するのは、唯一キラ=ヤマト。そして彼女と志を同じくするオーブのみ。あの女は、自らの理想のためなら……そしてその理想を共にするオーブのためならば、プラント如き、いつでも捨て去るだろう」
「そして彼女は、穢した」
「俺たちが抱いた誇りを。俺たちをおいて散った仲間たちの思いを。あの女は穢した」


 アスランの言葉を、イザークが引き取り。
 イザークの言葉の続きを、アスランが引き取る。
 テノールと、ハイヴァリトン。
 異なる二つの響きが、さながら歌のように心地よく、耳朶を刺激する。
 その声はまるで、滅亡の序曲を奏でるかのように。

 そして、アスランは言った。


「だからこそ、俺は問う。俺たちは、誰に忠誠を果たすべきなのか、と」







 プラントを捨てた、ラクス=クライン?

 それとも、プラントの市民?

 どちらに、忠誠を誓う?

 さぁ、考えねばならない。

 さぁ、選ばねばならない。

 よりよき未来のために。

 コーディネイターの未来のために。

 さぁ、選びなさい。

 さぁ、思い出しなさい。

 何のために、その軍服を纏った?







 ……答えは、とうの昔から決まっていた――……。