泣いている声が、する。

泣いている。

誰かが、泣いている。

『……してよ……!』

……泣かないで。

泣かないで……。

囁くのに、向けられるのは怒りの感情。

『お前……が!お前なんかが、いるから……!』

『愛して……愛してよ、イザーク……!私の方が……私が……!』

『私』のほうが、貴方を愛している。

『アスラン』なんかよりも、私のほうが……




















「……嫌な夢」


 ベッドから身を起こして、彼女は呟いた。
 今ひとつ、感覚が掴みにくい。
 この躯を我が物とするのは、2年ぶりだから、少しラグが生じているのかもしれない。
 そういえば、目線が高くなっている。身長も、若干伸びたのだろう。
 鏡に映る自身を見やりながら、彼女は思う。
 身体つきも、若干違っている。
 以前より、女らしい曲線を描くようになっていた。
 さらしで潰していた胸だって、形は崩れていないようだ。それに少し、満足そうに笑った。


「悔しいか?……『アスラン』?」


 クツリ、と彼女は笑った。
 自身の身の内で、眠る『彼女』に。


「大丈夫。お前にもちゃんと、イザークは見せてやるさ……」


 見せない、何て。
 そんな優しいことは、してやらない。
 自分がどんな思いで、彼を見つめていたか。思い知るといい。


「本来、主人格はこの私だ。それなのに……!」


 ガン、と鏡の横の壁を殴りつけた。
 この髪も、瞳も。
 顔も何もかも。
 大嫌いだ。

 本来、主人格は彼女なのだ。
 少なくとも彼女は、そう認識している。
 そうでなくては、「アレ」が表に出ている間、「自分」という人格が起きているなど、有得ない話ではないか。
 「自分」が起きているとき、「アレ」は寝ているというのに。
 それなのに。
 弱い、癖に。
 「彼」を一番に想えないくせに。
 自分から彼を、奪った。
 誰が、赦すものか。



 身の内を蝕む、激しい自分自身への憎悪。
 分かたれた二つの、人格。
 それは、何を意味するのだろうか。
 アスラン自身にも、それは分からなかった。

 身の内に、彼女は二つの人格を抱えている。
 それは綺麗に整合していた。――幼い日、『アスラン』が『彼女』を拒絶するまでは。
 『アスラン』が『彼女』を拒絶し、整合していたはずの人格は分かたれた。


「お前が『私』を拒絶するなら、『私』はお前を否定する」


 簡単なことだろう?
 クツリと笑って、彼女はもう一度、鏡の前の自身を省みた。

 日に焼けることを知らぬ気な、真っ白の肌。
 宵色の髪に、それと同色の睫毛に縁取られた翡翠の瞳。
 背は少し伸びたけれど、体重は減った。
 しかし、2年前はガリガリで女性らしさの欠片もなかった躯は、確実に女性らしくなっていて。
 『少女』から『大人の女性』に向かう、その過渡期にあった。

 うん、大丈夫。

 一通り眺めて、アスランは笑う。
 これなら、大丈夫。
 きっとイザークも、気に入ってくれる。



 あぁ、早く逢いたい。
 イザークに、逢いたい。

 彼女のイザークへの想いは、どこか喪われた過去を哀惜するような、そんな色調を持っていた。
 イザーク=ジュールは、彼女が敬愛してやまない父に、似ていると思う。
 プラントを愛し、コーディネイターを愛し。
 頑ななまでに自分の意志を貫く。
 どうしようもなく不器用な生き方しか、出来ない。そんな父に、彼は似ていると、思う。
 だから余計に、イザークが欲しかった。
 最初はそんな理由で、イザークを愛した。

 父に、捨てられた。
 母に、捨てられた。
 そんな彼女にとって、父に似たイザークに愛されたら、どれだけ幸せだろう、と。そう思うだけで、心が震える。


「愛して、くれる……?」


 問いの形に連ねた言葉が、空気を震わせる。
 そして、微笑んだ。


「愛して、くれる」


 彼が愛した『アスラン』は既に深い眠りに就き、その覚醒を促すものは何もない。
 今度こそ、手に入れる。
 イザークを、そしてこの躯を。


「手土産の用意は、出来たし……」


 その事実を齎せば、世界はどんな風に動くだろう。
 どんな風に流転し、変遷するだろう。
 考えるだけで、楽しい。
 そして今度こそ、プラントに……コーディネイターに、明るい未来を。

 そうすればきっと、父は褒めてくれる。
 イザークは、愛してくれる。
 彼は何よりもプラントを愛し、同胞を愛し。祖国を守護するために自身は力と命を尽くすべきだ、と。疑いもせずに信じている人だから。

 そしてイザークは、『アスラン』を愛している。
 アスラン=ザラの、彼をも凌ぐ能力と才能を、彼は憎みながら愛している。
 アスラン=ザラの、非常に徹しきれない性質を、彼は侮蔑しながら愛している。
 そして彼女の持つ能力と精神、その相反する性質を、彼は慈しむように愛しているから。



 彼は、愛するだろう。
 変わらず、アスランを。
 そしてこの手には、彼が愛してやまないプラントを脅かす情報をも、握っている。


「愛して……ね?イザーク。『アスラン』ではなく、『私』を」


 無邪気に、彼女は笑い。
 それから徐に、通信機に向かった。
 通信先は、プラント。
 評議会議長の下へ――……。



**




 突如繋げられた通信に、彼――ギルバート=デュランダル――は興味深そうな顔を向けた。
 『アスラン=ザラ』。通信の相手は、確かにそう名乗った。
 その名が持つ意味合いぐらい、彼は知っている。
 その名がどれほどプラントに衝撃を与えるか、それは通信相手とて分かっているだろう。それでもその相手は『アスラン=ザラ』と名乗った。
 その事実に、彼はその口元を綻ばせた。


「どうなさいますか、議長」
「そうだね……私も話をしてみたい。是非、通信を繋いでくれたまえ」
「はっ!」


 了解し、側近は通信機に向かった。
 画像が、焦点を結ぶ。
 現れたのは、確かに『アスラン=ザラ』だった。

 肩先まで伸びた髪は、暁の空にも似た深い藍色。
 瞳は、所有の難しい最高級の翡翠のようだ。
 その瞳が、いっそ毒を孕んで笑みを作った。


「やぁ、初めましてだね、アスラン。……そう呼んでいいかね?」
「えぇ、構いません、議長。お時間をとっていただき、感謝いたします。……人払いをお願いしても、よろしいですか?」
「あぁ、構わないよ」


 にこり、と笑って、彼は人払いを命じた。
 側近たちが、微かな衣擦れの音とともに退出していく。
 その音が聞こえなくなって漸く、口を開いた。


「パトリック=ザラ前評議会議長の娘、アスラン=ザラです」
「娘……!?」


 彼女の言葉に、彼は瞠目した。
 アスラン=ザラは、男である筈だ。


「えぇ、私はパトリック=ザラの娘です。確かに軍のIDには男性と記載してありますが、私のプラント市民としてのIDには、女性として記載されている筈です」
「そう……かい。すまないね、アスラン。あまりにも想像の範囲外のことだったから、驚いたよ」
「驚かれるのも、無理はありません。……パトリック=ザラは、自らの政治的基盤を受け継ぐ男児を希望していました。しかし私は……母胎で何らかの影響を受けたのでしょうね。染色体が異常を起こして、女児として生を受けてしまった……」


 いっそ優雅なまでに微笑んで、彼女は答えた。
 自らの出生のことを明かしている筈なのに、まるで他人事を話しているかのような、そんな印象さえ受ける。
 しかし、さすがに彼はプラント最高評議会議長だった。
 アスランの発言に呑まれっ放しでは、なかった。


「話が逸れてしまったね。……君の話は一体、何だい?」
「議長に、お話があるんですよ」
「それは一体、何かな?」
「私が持っている情報を、買ってくださいませんか?」


 嫣然と、通信機越しに彼女は微笑んだ。
 美姫に見慣れている筈の彼さえ、思わず呑まれてしまうほど麗しい。
 しかし一体、この滲み出るような毒は、何だというのか。
 これは、一筋縄ではいかないだろう。

 彼は慎重に、口を開いた。


「情報を……かね」
「えぇ」
「見返りは?」
「それは後ほど。直接お目にかかって、お話したいのですが。一先ず一度、プラントに迎え入れていただけませんか?」
「プラントに、かね?」
「えぇ」


 にこり、と彼女は笑った。
 彼の脳裏に、天秤が思い浮かぶ。
 果たしてメリットとリスクと、どちらに大きく傾くだろうか。

 アスラン=ザラ。彼――いや、彼女か――の影響力を、デュランダルは勿論欲している。
 その能力、知名度。どれを取っても、彼が望む世界のために必要だ。
 何より、『彼女』が手の内にあることで、もう一つ、欲しい人材を手中に収めることが出来る。

 二者を。必要なもの二つを、同時に手に入れたいと願う自分を、デュランダルは別に強欲だとは思わない。
 必要なのだ、どうしても。これからの世界のために。自分が望んだ世界のために。必要なものに手を伸ばして、何が悪い。そうやって戦略を整えることが、彼の役割だ。
 彼は軍人ではない政治家なのだから、実際に戦略を練るなどとありえない。そうではなくこの場合は、勝利のための環境を整える、と言うべきか。
 勝つために。そして不必要に奪われないために、勝利の条件を整える。それが、彼の役割なのだ。議長としての、彼の。
 そしてそのためには、目の前で微笑む『彼女』と、『彼』が必要だった。どうしても。

 けれどよもや、アスラン=ザラのほうからコンタクトを取ってくるとは、さしものデュランダルとて考えていない。
 コンタクトを取ってくるならばそれは、『彼』を通じてのものだと思っていたのに。
 さて、これから情勢はどう転がるのだろうか、と。彼は動揺を気取られぬよう謎めいた微笑を浮かべる。
 彼女の力は、欲している。
 それに付随してくるだろうもう一つの力も、当たり前のように欲している。
 しかし、それを持ちかけてくるのが彼女からだとは思ってもみなかった。
 まして、この情勢だ。プラントはまだ、彼女を迎え入れる用意が整ってはいない。

 これはどちらに、傾くだろう。
 メリットか、それともデメリットか。
 リスクに傾くのであれば、到底受け入れられる提案ではなかった。彼女の持つ、その名の意味合いを考えれば。


「もしも買う価値がないと思われたなら、その場で捕らえて強制送還していただいても、構いません」
「ほう……」
「けれど、議長ならばきっと買ってくださるものと信じています。私が買っていただきたい情報は……」


 彼女の笑みが、更に深まった。
 けれど瞳、は。
 その美しい翡翠にも似た色合いの瞳は、笑っていなかった。
 冷たい瞳のまま、その口元だけが、笑みの形に歪む。


「オーブのこと、なのですから……」


 天秤が、大きく傾いた――……。







 今回は、ブログ掲載のものに加筆して再掲いたしました。
 ズル再び(悪夢再び風に)。
 今現在は、『もう一つの人格のアスラン』としかお話できない『彼女』ですが、勿論ちゃんと名前はあります。
 その名前も、近々お話にしたいなぁ……。

 『彼女』がイザークを好きなのは、イザークが父親に似ているから、と言う。
 まったくもってファザコンか、結局!見たいな内容ですが。
 顔はともかく、中身は割合似ていると思うんだ。とにかくコーディネイターのために!的な性格が。

 此処までお読み戴き、有難うございました。
 しかし一体誰が、この連載を望んでいるのか。結局私が一番、楽しんでいる気がしてならない。