声が、聞こえた。

甘やかな声が、宥めるように優しく、囁く。


――――『泣かないで。泣かないで、アスラン。『お前』は『私』が守る。いつもいつも、一緒にいるから』――――


――誰?

問い返すアスランを、優しい腕が抱きしめる。

藍色の髪に、翡翠の瞳の、自分と同じ幼子。

まるで双子のようにそっくりな『彼女』がそう言って、アスランを抱きしめる。

その彼女に、アスランは問い返した。


君は、誰?

彼女は、ゆるりと微笑み。

口元に、笑みを刷く。


――――『アレックス。私は、アレックス。そう呼んで、アスラン。
……愛しい私の半身』――――










第T章-02-









 泣かないで、アスラン。
 泣かないで、アスラン。

 泣いているアスランに、そういえばそう声をかけていた。

 転寝から目覚めて、『アスラン』はゆっくりと伸びをする。
 どうしようもなくこの躯は今、睡眠を欲している。
 それが、目覚めた反動ゆえのものなのか。それとももっと別の理由があるのか、それは良く分からないけれど。
 今までずっと、『自分』が眠っていたのだから、これからは起きていられたらいいのに。
 ずっとずっと、起きていられたらいいのに。
 早く彼に逢いたくて。彼の姿をこの網膜に焼き付けたくて、うずうずする。
 早く早く。彼に逢いたい。

 ずっとずっと見つめていられたら、いいのに。
 『アスラン』の目を通してしか、彼には触れられなかったから。
 いや、時々、アスランと意識の交代は、行われていたけれど。アスランも、知らないうちに。
 その時しか、彼に触れられなかった。
 見つめていたいよ。
 貴方の寝顔も、笑顔も、怒った顔も。何もかも何もかも、見つめていたいよ。


――――『アレックスは、ずっと僕の傍にいてくれる?』――――



 うっとりと細められた翡翠の瞳が、苦痛に眇められた。
 脳裏に響く、声。
 あの子の。あいつの。あの出来損ないの。
 あの出来損ないの『アスラン』の、甘い声。


「ふざけるな」


 小さく、彼女は呟く。
 ふざけるな。ふざけるな。いい加減にしろ。
 先に自分を拒絶したのは、お前なのに。
 ぴたりと整合していた自分と言う人格を、否定したのはお前なのに。
 何を、今更。
 何を今更、そんな言葉で。
 そんな言葉で、懐柔されたりなんか、しない。


「そっくりだ。私とお前は本当に、よく似ているよ、アスラン。だからお前が、憎くて堪らない」


 日のあたる場所にいたのは、いつもいつも『アスラン』。
 自分だって、生きているのに。
 アスランの躯の中で、一つの人格として生きている。自我だって、あるのに。
 それなのに、日のあたる場所にいるのはいつも、『アスラン』。
 イザークが愛したのも、『アスラン』。
 似ているのに。何もかも、一緒なのに。
 それなのに、自分は『アスラン』の中に押し込められ、『アスラン』は日のあたる場所にいる。
 イザークに、愛されている。
 イザークを、一番に想えないくせに。
 イザークを、一番愛しているのは、自分なのに。それなのに、イザークを、取った。
 赦さない、赦さない。

 ふっと、アスランは目を閉じた。
 いけない、いけない。
 怒りに、我を忘れてしまっては、いけない。
 これから、なのだ。
 全ては、これからだ。
 これから、色々なものが流転する。
 その中に、自分が含まれていればいいな、と。切に思う。

 上手く、立ち回らねば。
 イザークに気づかれないように、気づかれないように。
 上手く上手く、立ち回って。
 イザークを、手に入れる。

 ふふっと、アスランは笑った。
 まるで幼子のような無邪気な笑みを、その口元に浮かべる。
 僅かに頬に差した朱が、少女の美貌に若々しい華やぎを添えていた。

 さぁ、行こう。
 プラントに、行こう。


「カガリ」
<何だ?アスラン>


 ぷっと通信機をオンにして、カガリを呼び出す。
 声をかけると、幾分頬を紅潮させた彼女が、『アスラン』にそう尋ねた。
 恋をしている。
 一目で、分かる。
 カガリは、『アスラン』を男だと思い込んで。そして恋をして。

 でも、アスランは、女だ。
 彼女の気持ちになんて、当然応えられない。――応える気も、ないけれど。
 いくら君が想おうが、『私』が一番愛するのは、君じゃないんだよ。と、『アスラン』は幾分醒めた目で彼女に相対しながら、その心の中で呟く。
 一番愛しているのは、君じゃ……君たちじゃ、ないんだよ。『出来損ないのアスラン』は、分からないけれど。


「急なことで申し訳ないんだが、休暇を貰えないだろうか」
<休暇?どうしたんだ、急に>


 彼女の言葉に、カガリは怪訝な顔をした。
 無理も、ない。今まで、いくらカガリが休暇を取らせようとしても、色々な言い訳を口にしてのらりくらりとかわしてきたのは、『アスラン』の方だったから。
 けれど次の瞬間には、カガリは笑って頷いた。快諾した。


<いいぞ。これから忙しくなる。今のうちに、身体を休めてくれ、アスラン>
「有難う、カガリ」


 その口元に、アスランは笑みの欠片を刷いた。
 カガリの頬が、ますます赤くなる。
 『出来損ない』ならば微笑ましく思うのかもしれないが、今その躯を支配している『アスラン』は、そんなことちっとも思わなかった。

 物事には、優先順位が存在する。
 今その躯を支配している『アスラン』にとって、彼女の優先順位の第一位を占めるのは、イザーク=ジュール。その人だけ。
 それ以外の殆どは、十巴一絡げに括られて、底辺に位置しているに過ぎない。
 彼女にとっての大切なものの順番は、一番大切なイザークを頂点に置き、それ以外は『その他』で括られているのだ。
 彼女にとっての『世界』は、『イザークとその他』で構成されている。
 『その他』に属するカガリが何を言ったところで、何をしたところで、それは『アスラン』の関心を惹く材料には決してなりえない。

 第一、カガリにだって『アスラン』は必要ないのだ。
 彼女は、そんなつもりはないのかもしれないけれど。
 でも、彼女だって本当は、『アスラン』を必要とはしていない。

 カガリはそんなこと思ってもみないのかもしれないけれど。
 けれど、そう言うことだ。
 カガリだって、ラクスだってキラだって、本当の意味で『アスラン』を必要とはしていない。
 何でも話し、苦楽を分け合うものとして、『アスラン』は認識されていない。
 そうでなかったらどうして、“フリーダム”と“アークエンジェル”のことを、『アスラン』には話さなかったのか。
 結局彼らにとって、その程度と言うことだ。
 それを、『アスラン』は知らなくて。気づかなくて。漸く気づいて、深く深く傷ついた。
 それだけの、こと。

 あぁ、そのことには、感謝してもいいかもしれない。
 そのおかげで、こうして取って代わることが出来たのだから。
 そのことは、本当に本当に。
 感謝しているよ……。

 くすり、と。アスランは唇だけ、笑みの形に歪める。


「俺がいない間、カガリのことが心配なんだが……」
<心配するな、アスラン。キラだっているから、大丈夫さ。他にも、頼りになる護衛はいるしな>
「そう……それなら、安心だな」


 心配そうな彼女に、カガリはそう言った。
 それがどれだけ無神経な言葉であるかも、きっと目の前の金髪のお姫様は、知らない。
 でも、いいよ。
 そう胸中で呟きながら、彼女はカガリの身を案じる色だけを、意識して浮かべた。

 お前の代えは、幾らでもいるから、大丈夫。
 カガリの言葉は、そう言っているも同然だ。
 人によってはそれが、心配させないための強がりとも取れるかもしれない。けれど人によっては、お前の存在は取るに足りないものだと言われているも同然の受け取り方をする。
 そして『アスラン』は、後者だ。
 『アスラン』は、後者の受け取り方をするタイプの人間だ。
 幼い頃から、両親は忙しく、彼女に構う余裕など、なかった。
 そう言う幼少期を過ごした『アスラン』は、何も言わないがどこかで、心配ならずっと一緒にいてくれよ!そう言われるのを、待っている。
 自分から他者に踏み込めない『アスラン』は、他者に踏み込まれるのを待っている、と言える。


「だから、お前たちじゃ駄目なんだよ」
<アスラン?何か言ったか?>
「いや……何も言っていないよ、カガリ」


 ポツリと呟いた言葉に、カガリが問い返す。
 けれどアスランは笑顔を浮かべて、その言葉を封じた。
 案の定、目に見える形でしか物事を判断できないカガリは、何も口にしていないと判断したのか、そのまま頷いた。


「じゃあ……そうだな。一週間ほど、休暇を貰うよ」
<あぁ、行ってこい>
「今度、プラントで議長と会談の予定だったな。その準備もあるから……早めに戻ってくるよ」
<そんなに気にすることはない、アスラン。ゆっくりして来い>
「……分かった」


 元気付けるように言うカガリに、『アスラン』は冷たく笑った。
 けれどカガリが、その笑みに気づいた様子もまた、ない。

 カガリにとって自分は、その程度なのだろう。
 その程度なのに、自分に恋していると当たり前のように信じ込むカガリの盲目っぷりが、おかしい。

 君じゃ駄目だよ。君たちじゃ、駄目だ。
 君たちは誰も、『アスラン』を一番に選べないのだから。
 誰かの一番になりたいと心のどこかで願っている『アスラン』を、一番にできないのだから。



 さぁ、行こう。
 『彼』のもとへ、行こう。
 『手土産』はこちらに、ある。

 通信をオフにすると、アスランは立ち上がった。
 まずはとりあえず、オーブを出よう。
 此処からプラントを目指すのは、愚策としか言いようがない。
 何かしようとすればそれは、カガリやキラに筒抜けになる。そんな愚策を起こすほど、アスランは愚かではなかった。

 とりあえず、親プラント寄りの国に身を寄せて。
 そこからもう一度、議長に連絡を取ろう。
 そこへ、シャトルを差し向けてくれると、議長は確約してくれたのだから。

 さぁ、行こう。

 微笑を一つ添えて、アスランは扉を開いた――……。



**




 ギルバート=デュランダルに直接話を通したことが、功を奏したのか。
 それともやはり、プラントはオーブを苦々しく思っていたのか。
 あぁ、もしかしたら。それだけ彼女の持つ情報を、議長は欲しているのかも、知れない。
 それも、面白いな、と。
 艶やかな唇を緩やかに吊り上げて、彼女は哂った。

 正規のルートを使ってプラント入国の叶わぬ彼女に差し向けられた、議長専用の特別シャトルの、一室で。
 ぽすん、と背凭れに背を凭れさせる。
 それから、その左手の薬指に嵌められた指輪を、撫でた。

 大切な人から、『彼女』に贈られたもの。
 でもこの指輪も、今は自分のものだ、と。『アスラン』は哂う。

 彼の瞳を模した、ブルーサファイアの納められた指輪。
 彼の指にはきっと、この瞳を模したエメラルドが輝いているのだろう。
 嗚呼、何て幸せ。
 この身が、自分のものになった。
 焦がれて病まぬ人が、もうすぐ触れてくれる。
 嗚呼、何て幸せ。

 プラント国内に入ったとたん襲撃を受ける、だとか。射殺される、だとか。あるいは強制送還されるなどと、彼女は欠片たりとも思っていなかった。
 あの議長ならばきっと、この情報を買ってくれる。
 それは予感ではなく、確信だった。


「汚いことは全部……全部私が引き受けてやるよ、『アスラン』?」


 今、こうして身の内で深い眠りについている彼女に囁きかける。
 この声はきっと、届いていないだろうけど。
 ずっとずっと眠っているといい。
 その箱庭は、とても心地よい安寧に満たされているから。
 アスランが大好きな、微温湯のような安寧が、そこにはあるから。
 だから、眠っているといい。

 辛いことも、哀しいことも。
 全部全部引き受けてあげるから。
 安心して、眠っているといい。


「眠っているといい、『アスラン』その箱庭は、とても心地よいだろう?」


 『彼女』に一体、何ができると言うのか。
 何の力もない、愚かなだけの女。

 他にも、いた。
 愚かな女は、『アスラン』だけではない。
 あの女。
 レノア=ザラ。
 アスランと自分の、『母親』。
 最も、あの女はアスランだけの『母親』で、自分にとって特に意味のある存在ではないけれど。
 それでもこの人格を産み落とした、『母親』であることに、変わりはない。
 自分を拒絶し、『アスラン』だけを愛した、あの女。


「私のほうが、力があった。私のほうが、父上のお役にだって立てた。私のほうが、こいつよりずっと優れていた。なのに……!」


 なのに、『母』は。
 出来損ないの『アスラン』を愛した。
 出来損ないを愛して、自分を、捨てた。

 自分の方が、優れていたのに。
 自分の方が、父の役にだって立てた。
 そしてイザークの役にだって、立てる。
 隊長職を務める大切な人。
 唯一の人の役にだって、立てる。
 だって、優れているのは『自分』なのだ。『アスラン』などではない。断じて。


「何故、『私』を捨てたのです、母上。何故?」


 今はもう、彼岸の地に旅立った母に、そう問いかけずには、いられない。
 何故、自分を愛してくれなかった。
 何故、自分を捨てた。
 『アスラン』と自分と、一体どこがどう、違うと言うのか。





 それは、鏡に映った自分の姿を、憎悪するにも、似ていた――……。







 ズル再び其の三な『白い闇』です。
 もう一人のアスランの『アレックス』は、愛称です。
 本名は、一応別に用意しているのですが。
 とりあえず、今のところは『アレックス』で。
 しかし、本当に。
 緋月だけが楽しんでいる気がしてならない長編ですが。
 思いがけずこのもう一人のアスランを好きと言っていただけたりして、すごく嬉しかったです。
 頑張っていこう、うん。
 とりあえず、オーブだとかキララクだとかに厳しい内容になると思いますが。
 全然OKバッチコイ☆な方に愛していただけると、幸い。

 此処までお読みいただき、有難うございました。