泣かないで

嗚呼 どうか泣かないで

泣かないで

キミの哀しみを ボクは知っている

だからどうか 泣かないで

どうか一人で 泣かないで

キミの嘆きを

理解できるのは ボクだけなのだから――……。










第T章-04-









「私が支払う代価は、そうだね」


 くすり、と。ギルバート=デュランダルは、意味ありげに微笑んだ。
 それはまさに、人間を堕落へ誘う悪魔の、甘言に似ていた。
 言葉は、甘く。けれどどこか、苦い。

 しかし、それはまさに『アスラン』が、望むものだった。
 『アスラン』が望み、『アレックス』が渇望してやまないもの。ただ一人の、『対の遺伝子』であり。そして恋してやまない青年。
 どろりとした闇を宿す翡翠の瞳が、熱っぽく煌いた。


「君の持ってきた情報に対し、私は君のプラント市民権を回復すると言う代価を払おう。そして……」
「議長……」
「そして、君のザフト復隊に対しては、特務隊FAITHへの叙任、新型MSの授与、そして……」


 そこで、デュランダルは徐に言葉を区切った。
 その先を期待して、けれどどこか諦めたように。次の言葉を、美しい翡翠が待つ。
 その瞳は、もうデュランダルを殆ど映してはいなかった。彼女の瞳に、確かにデュランダルの姿は、映っているのだけれど。彼女の脳裏に存在するであろう意識の鏡に、デュランダルの姿は映し出されていない。
 彼女はデュランダルを素通りして、ただ一人を一身に追いかけていた。


「君の『対の遺伝子』を、君に還そう。……プラント市民としてね」
「……馬鹿なことを」


 けれど、デュランダルの言葉を、アスランは切り捨てる。
 そんなことは、ありえない。
 すぐそこに、恋してやまない青年の姿が、ある。
 議長の御前だからだろう。礼儀を守って、先ほどから一言も彼は、言葉を発していないけれど。それでも、強く強く煌く一対の蒼氷は、彼女を真っ直ぐと射抜いて縛り付ける。
 彼は、驚いているけれど。
 けれど同じだけ、感情を素直に吐露していた。

 還ってこい、と。そう言われている気が、して。
 求められている、その事実が嬉しく愛しい。

 けれど、有得ない。
 彼女の中の冷静な部分が、そう判断する。
 そんなことは、有得ない。



 『対の遺伝子』それは、プラントに存在する夢の形。幻想の象徴。
 彼の『対の遺伝子』は、実際には確かに『アスラン』だったけれど。けれど、彼が『対の遺伝子』と謳われた相手は、『アスラン』ではなかった。
 笑えないほど滑稽な喜劇だけれど。『アスラン』と彼は、『対の遺伝子』でありながら、『対の遺伝子』と。プラント市民に明かされることは、なかった。


「確かに、私とイザークは、『対の遺伝子』です。生まれながらの、遺伝子の片翼と。生まれながらに私たちは一対なのだ、と。父もエザリア様も仰っておられた。でも……でもイザークの婚約者は、ラクスだ」
「そう、だね。しかし……」
「議長。僭越ですが、そこから先は私が直接、彼女に話します。暫し、お時間をいただけないでしょうか」
「あぁ、構わないよ、ジュール隊長。それならば私は、席を外そう」
「いえ、我ら両名が席を外します。そして後ほど、またこちらに参上いたします」


 彼、の言葉に。デュランダルは鷹揚に頷く。
 静かな口元には、うっすらと笑みの片鱗さえ、刷いて。
 デュランダルが頷いたのを確認して、彼は『アスラン』の元へやってきた。
 手を、差し出して。彼女の腕を、掴む。
 その瞬間湧き上がったものは、紛れもない歓喜だった。


「行くぞ、アレク」
「ぁ……うん」
「では、議長。また、後ほど」


 一礼して、彼は議長の前から、『アスラン』を連れ出した――……。



**




「イ……イザーク!」
「何だ?」
「その……今回のプラント訪問は、極秘だから。人目に付きたく、ない」
「……第一声がそれか、貴様は。……心配しなくても、人目に付く恐れのないところだ」
「そ……そっか」


 腕を引かれながら。けれど彼女は、混乱していた。
 先ほどの議長の言葉。その真意が、分からない。

 イザークは、モノじゃない。
 幾ら『還す』と言われても、モノの受け渡しではないのだから、そう上手くいくとは思えない。まして、イザークには既に、定められた相手がいる。それを放棄することは、果たして可能なのだろうか。
 ……やはり、可能とは思えなかった。
 今、プラントにラクス=クラインはいない。定められた相手として、彼が隣に立つべき少女は、いない。
 幾ら彼がその婚約を無効と訴えても、プラント市民がそれを受け入れるとは、思えない。
 それだけの、幻想なのだ。『対の遺伝子』といい『定められた相手』と謳われる、その幻想は。
 そして彼はその幻想の、片翼を担う、者。

 プラントに生きる、幻想を。その夢の形を、彼は紡ぐ立場に、在るのだ。
 ラクス=クラインはもう、プラントにいなくて。彼女はその隣に、イザークではない男を侍《はべ》らせているけれど。それでもそれが、プラントを支配する、夢の形。
 一般の、善良なプラント市民はまだ、その夢を信じている。その幻想を、生きている。
 その幻想を自ら生み出したクライン派と、その幻想の終焉を垣間見たザフトの中では、もう死んでしまった幻想だけれど。

 彼の歩みが、止まった。
 つれてこられた場所は、プラント――評議会が構えられているアプリリウス・ワン――を一望できる、展望室の最上階だった。
 眼下に広がるのは、空気のない真空の宇宙で、這いずるように懸命に生活の場を開拓し、生活を営んできたコーディネイターたちの、その努力の結晶だ。


「……キレイ」
「先の大戦でかなりの打撃を被ったが、プラントも、ここまで復興した」
「そうか……良かった」
「見せてやりたかった。貴様は、戦争の爪痕を深く残し、悲嘆に暮れるプラントを見たのが、最後だっただろうから」
「うん……有難う」


 嗚呼、駄目だ。
 彼にあったら、言いたいことがたくさんあった。『アスラン』ではなく、『アレックス』を見て欲しくて。自分のものに、したくて。
 言いたいことも、色々あったのに。
 眼下に広がる景色と、穏やかなその顔に、何を言いたいのか、忘れてしまう。


「アレク……いや、もう、偽名を言う必要はないか。ここには、誰もいないから」
「……俺が、『アスラン』として此処にいるならば、そうだろうね」
「どういう意味だ?」
「俺が、プラントの『アスラン=ザラ』として此処に立っているか、オーブの『アレックス=ディノ』として此処に立っているかで、俺を意味する名前は変わるんじゃないか、って。そう言うことだよ」


 にこり、と。『アレックス』は笑う。
 その笑顔は、どこまでも麗しく。けれどどこか、毒のある。議長の前で見せた、独特の笑みを、浮かべて。
 そんな彼女に、イザークは苛立たしそうに舌打ちをした。


「君は……どっちの俺に、此処に立って欲しいのかな……?」


 囁きながら、彼の首にその腕を回す。
 深く深く。彼の吐息を飲み込むように、顔を近付けて。唇が触れ合いそうなほど……吐息が感じられるほど、顔を寄せ合って。
 深く鮮やかな翡翠の瞳を見せ付けるように。彼の蒼氷の瞳を、覗き込む。

 苛立たしげに眉を寄せながら、それでも彼の片手が、『アスラン』の腰に回された。
 口付けを乞うように、『アレックス』は伸び上がる。
 しかし唇と唇とが触れ合うよりも早く、彼のもう片方の手が、『アスラン』の後頭部を抑え。そのまま、荒々しい仕草で唇を塞いだ。


「っん……」


 不意をつかれて、言葉を飲み込んだ。
 要らない言葉を吐くアスランの唇を、塞ぐ。近すぎて見えない、深く深くどこまでも鮮やかな翡翠はきっと、驚いて見開かれているのだろう。
 それを思うと、少し愉快だった。
 彼にとって要らない言葉ばかりを吐くのなら、呼吸なんて止めてしまえば、いい。

 触れ合うだけの口付けでは満足できず、その唇に舌を這わせる。
 毒を吐くくせに、その唇は酷く、甘く。微かに洩れる、その吐息さえも甘くて。

 微かに開かれた甘い唇の、その狭間から侵入し、思うさま貪る。
 蜜が溢れて、白い『アスラン』の頬を、濡らした。
 漸く解放すると、『アスラン』はぐったりとイザークに凭れかかる。
 さすがに、久々だと言うのに無茶をしたかと一瞬青褪めたが、すぐにその心配は杞憂であることを、悟った。『アスラン』はイザークの胸に凭れながら、肩を震わせていた。――笑っているのだ。


「誰かに見られたら大変だ、イザーク。君は、『ラクス様の婚約者』なんだから」
「だから、それは!」
「ねぇ、イザーク」


 不意に、『アスラン』の笑い声がやんだ。
 笑みに崩れていた、花のように麗しい顔《かんばせ》を、今度は皮肉に歪める。
 翡翠の瞳に、冷たい光を、宿して。


「ねぇ、イザーク。信じられると思うのか?」
「……アスラン」
「どれだけ、どれだけ嘆いたと思う?ある日突然、俺の『遺伝子の片翼』であり、『生まれながらに一対』であった君が、君と、ある日いきなり、そうではなくなった。ある日いきなり、俺の片翼であった人は、他の少女と一対と謳われた。ねぇ、イザーク。俺が、どれだけ嘆いたと思う?」


 俺たちが、どれだけ嘆いたと思う?
 言葉にはしないけれど、『アレックス』はそう思った。
 どれだけ嘆いたというのだろう。その嘆きが、彼に分かるだろうか。
 母を喪い、対の存在を奪われた。その苦しみが、分かるだろうか。――分かるわけがない!

 嘆いた、嘆いたよ。『二人』で。
 その喪失を、嘆いた。どうして、どうして、と。
 刷り込み出会ったのかもしれないけれど、『アスラン』も『アレックス』も、対の存在である彼を、彼に、恋した。
 刷り込みだったのかも知れないけれど。だからこそ、より強く。誰よりも強く、恋したのに。
 それなのにその存在は、一度離れた――引き離された。
 その嘆きを、痛みを。思い返すことは、こんなにも容易い!


「イザーク、イザーク、イザーク。君に、分かるわけがない」
「……そうだな」


 確かに、イザークには分からない。
 『アスラン』が味わったとか言う絶望は、イザークのものではなく。その嘆きも痛みも、イザークのものではなく。
 『アスラン』を襲った悲しみは『アスラン』のもので。理解したいと思っても、それは真実理解したことにはなりえない。仮に理解できたとしてもそれは所詮そう『認識』するだけの話で。そう『実感』するわけでは、ないのだから。
 『アスラン』の苦しみは、『アスラン』だけのもので。『アスラン』の嘆きは、痛みは『アスラン』だけのもので。それは決して、真実理解できるものではなくて。そんなことは、分かっているから。


「話を聞くよ、イザーク」
「……アスラン」
「君の言い分を聞く。それから、俺はさっきの質問に答える。それでいいだろ?」


 つん、と顔を上げて、『アスラン』は言った。
 どこか、イザークはその様子に違和感を感じる。
 彼の知る『アスラン』とはちょっと、様子が違っているように、感じられたから。
 けれどささやかな違和感はすぐに、霧散した。2年。2年だ。
 二人が離れてからもうすぐ、2年になる。それは、決して短いとはいえない月日が、二人の間に流れているのだ。印象が変わってしまうのも、当たり前ではないか。
 溜息を飲み込んで、イザークは静かに口を開いた。


「ラクス=クラインと俺の婚約を貴様が言っているのならば、それはとうに破棄されている――破棄した」
「出来るわけがない」
「……出来た。したんだ。今、プラント国民の誰一人、俺とラクス=クラインが婚約者だと信じているものはいない」
「どうしてそれができたって言うんだよ。ラクスは、オーブにいるんだ。ラクス=クラインが表に出ず、お前の言葉だけで、プラント国民の何人が、お前の言葉を信じると思う?」
「確かにな」


 『アスラン』の言葉に、イザークは静かに頷いた。
 確かに、そうだ。その通りだ。
 人々の中に息づくのは、『ラクス=クライン』と言う平和の象徴、聖女の幻想で在って。彼女の『対の遺伝子』と言うものも、周りの人間にしてみれば、彼女に付属するオプションに過ぎない。
 ラクス=クラインの付属物にしか過ぎない彼女の婚約者であるイザーク=ジュールの言葉を、プラント国民の何人が信じると言うのだろう。
 答えは、簡単だ。簡単に求められてしまう解答。初級の数学よりも、簡単に。
 答えは、ゼロに等しい。それだけだ。


「例えば貴様がラクス=クラインと婚約して、それで今、その婚約はとうに破棄されていると言っても、誰も信じないだろう。貴様は三隻同盟の一員として、ラクス=クラインとともに戦っている。でも、アスラン。俺は、違う」
「イザーク」
「俺は、婚約者が『平和のために』プラントと戦うことを誓ったとき、『プラントのために』彼女と戦った側の人間だ。あの女を神聖視し、崇める立場の人間からすれば、赦し難い背信行為だ」


 彼らの信奉する聖女への、裏切り行為にも等しい。
 イザークはそう言う。
 けれど、『アスラン』には、そうは思えない。
 プラントで今もなお生きている『ラクス=クライン』と言う名の幻想。その幻想が生きている以上、ラクスの行為は、プラント国民にとっても、英雄的所業として語り継がれているのではないだろうか。
 ラクス様がプラントのために戦ったのと同様に。その婚約者であるイザーク=ジュールもまた、プラントのために戦ったのだ、と。そう言う幻を見て、その幻を愛しているのではないのか。
 それが、ラクス=クラインと言う聖女の、幻想だ。いつでもプラントを愛し、プラントを慈しみ、プラントのために歌う。それが、ラクス=クラインの幻想。
 その幻想は途切れることなく、今もなお語り継がれている。
 心地よい、その夢。その幻想。


「戦時中に、まず俺の方からクライン派へ申し入れた。ラクス=クラインが国家反逆罪でプラント中を追われているときだ。ザラ前議長の口ぞえもあった。まぁ、かなり反感を買った挙句、裏切るつもりかと連中からは罵られたが、その時は、ザラ派の母を持つ俺の立場は、結構強かったからな」
「へぇ……」
「戦後、今度は俺が断頭台へ送られそうになった。その時、今度はクライン派から言われたさ。ラクス=クラインに、俺は相応しくない婚約者なのだ、と。今度はクライン派から破棄が宣告された。まぁ、ラクス=クラインの体面を慮ってか、公にはされなかったな。『プラントのために』戦った婚約者を、戦局が定まってから見捨てたのでは、彼女の伝説に傷がつくとでも考えたのだろう」
「そんな……」
「そして、今回。公に、俺たちの婚約の破棄を、訴えた……方法は、今は明かせない。でも、公的にも、俺とラクス=クラインの婚約は、破棄されている」
「それを、信じろと?」
「俺には、そうとしか言えない」


 信じろ、と言われれば。信じたいとしか、『アスラン』には、『アレックス』には、答えられない。
 それは、『彼女』が。『彼女たち』が、何よりも望んでいたこと。
 その望みを、こんな形で与えられて。どうしていいのか、『アレックス』には、分からなかった。
 何ともしようのないことだな、と。『アレックス』は溜息を吐く。
 『あいつ』だったら、どんな反応を返すだろう。あの『アスラン』だったら、どんな反応を。イザークに、返すだろうか。
 イザークの望む返答を、『アスラン』ならば返せたのだろうか。自分のように、困ることなく。

 だって、なんと返せばいいのか、分からない。

 嬉しい、嬉しい、嬉しい。
 彼に婚約者がいないならば、それは本当に嬉しい。それが、『アレックス』の本心だ。本当に本当に恋してやまない相手だから。その相手が、今フリーであるという事実は、掛け値なしに嬉しい。
 でも、『アスラン』はそう言うだろうか。
 『アスラン』ならば、嬉しいとは言わない気が、する。周囲に気を遣いすぎるほどに気を遣って、自分の身を食い殺すタイプの人間だ、『アスラン』は。
 イザークだって、それは知っているだろう。だから、ここで『アレックス』が嬉しいと言えば、違和感を感じるに決まっている。

 『アスラン』ならば、どう答えるだろう。
 『アスラン』ならば、イザークに何と言って答えるだろう。

 苛々としながら、『アレックス』は思う。
 『アスラン』よりも『アレックス』はずっと、その精神が幼かった。『アスラン』の時間よりも彼女の彼女としての時間は、ずっと少なかったから。


「だから、戻ってこい、『アスラン』」


 もう一度、帰ってこい。
 プラントに、此処に。
 帰ってこい、『アスラン=ザラ』と。イザークが、言う。










帰って来い

 帰って来い アスラン=ザラ

俺の元に 帰っておいで






 真摯な蒼氷に。
 『アレックス』は釣り込まれるように、頷いていた――……。







 『白い闇』第4話をお届けします。
 ほら、勝手設定のオンパレード《笑》。
 いえ、ここからが本番なのですが。
 お付き合いいただけましたら、幸いです。

 ここまでお読みいただき、有難うございました。