泣き濡れた瞳が、俺を呼ぶ。

助けて、助けて、助けて。

何度も何度も、俺を呼ぶのに。

空を切る手は、まだ。

君を守れるほどに、強くはない――……。





君を守りきれずに、今夜も空しく死なせてしまう。










#30 遁走曲-]D-









 嗚呼、嗚呼、嗚呼。
 どうして、どうして、どうして。
 どうして、彼女が。
 どうして彼女が、そんな。
 そんな、どうして。
 どうして、どうして。
 還って来ると、言ったじゃないか。
 帰って来ると。また、すぐに逢えると。
 そう、言ったじゃないか。
 それなのに。それなのに。それなのに。
 それなのに、どうして。
 どうして、彼女が。
 愛しい少女が。
 どうして。

 白い白い腕が、だらり、と。
 だらり、と垂れて。血の雫が、白い肌を彩って。
 微かに、肉の爛れた臭いが。
 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。

 言葉に出来ない思いを、ただただ連ねた。
 ただただ、言葉を連ねて。
 連なった言葉に、重なった想いに、もう一つのそれが同じ軌跡を描いて。

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。
 帰って来ると、言ったのに。
 どうして、どうして、どうして、どうして。
 こんなのは、おかしい。こんなのは、嘘だ。こんなのは、間違っている。

 ――――あぁ、そうだね。間違っているよ。その通り、こんなことは間違っている。

 重なった想い。重なった願い。重ねた願望。
 全て全てが同じ軌跡を描いて。
 同じ願望を象って巡った。

 間違っているんだ、こんなこと。
 ――――そう。その通り。君の、言う通り。
 こんなことは、間違っている。
 ――――そう。間違っている。
 彼女がこんな目に遭うなんて、間違っている。おかしい。
 ――――そう。間違っている。おかしいよ、こんなことは。

 間違っている、間違っている、間違っている。
 これは何かの、間違いだ。
 ――――そう、その通り。これは、何かの間違いだ。
 あってはならないこと。あってはならない、ラグ。
 おかしいよ。おかしいね。こんなこと、あってはならなかった。想定していなかった。

 誤りは、正さねば。
 そう、それこそが正しい。



 重なり合った、願い。同じ軌跡を描いた、感情の行く先。
 嗚呼、でも。
 その対象たる。
 同じ願望を抱いた。
 『 アナタ 』 ハ 、 ダレ ?










「イザーク?ねぇ、イザークってば」
「あ……あぁ、何だ?」
「何だ?じゃないわよ、もう。急に口数が少なくなったかと思えば、遠くを見つめてぼんやりして……私の声も聞こえなかったんでしょう?戦場でそれじゃあ、死ぬわよ」

「あ……あぁ、そうだな」


 イザークの言葉に、キョウカは頬を膨らませた。
 けれど、イザークにだって、分からない。

 急に、頭に靄がかかった気がした。
 何か……何か、を。忘れていた何かを、思い出しそうな……思い出せそうな。
 見覚えのあるイメージが、頭の中に次々と浮かんで。
 けれどアレは、一体なんだったのだろう。
 そうして提示されたキーワードの数々に、イザーク自身は全く、覚えがなかった。
 身に覚えがないだけではなく……本当に、分からなかったのだ。
 浮かんだイメージの数々を、解釈することさえ、できなかった。


「気のない返事ね。どうしたの?まだ此処は戦場で、外では戦闘をしていて。私たちは此処に、補給のためにいて、それが完了するまで、此処で休息を取っている。……貴方が気を散らすなんて、珍しい」
「そう、か?」
「えぇ、珍しいと思う。貴方の集中力が切れるなんて、珍しいんじゃないかしら」
「そうか?」


 少女は、そう言うけれど。イザークにその自覚は欠片たりともなかったから。少女の言う言葉の、その意味がよく分からなかった。

 欠けた記憶が、ある。
 欠けた思い出が、ある。
 そうとしか、考えられなかった。
 そうでなければどうして、ユヅキ家という名家の少女を、忘れることなどあるだろうか。
 その存在を、覚えていない、など。そんなことがあるわけが、ない。

 どこの家の当主がどんな人物で、その人に娘がいて、その少女はどんな女性で。その程度のデータは、年頃の少年を持つ家ならば当たり前のように集めるものだ。
 プラントでは、婚姻統制が敷かれている。
 大した法的拘束力を持つものではないが、『名家』と呼ばれる家の人間ならば、守って当たり前とされていた。
 婚姻統制は体のいい政略結婚だが、その目的が第三世代の出生率向上のため、としているならば従うより他なかった。
 家を継ぎ、次代に繋ぐのは、当たり前のことだから。『名家』と呼ばれる家に生を受けた者ならば。
 それを当然としているから。

 だから、年頃の少年少女を持つ家の人間ならば、誰だって知っていることだ。
 その年になれば、『婚姻統制にのっとった』お見合い話が舞い込んでくるのは、彼らの生きている『世界』では、当たり前のことだから。

 けれどイザークは、『識《し》』らなかった。
 知っていて当たり前である筈のことを知らず、その事実を、彼の母親が明かした覚えもなかった。
 ……そんなことは、有得ない。


「だって前、私が大切にしていたオルゴールを壊したとき、五時間かけて直してくれたでしょう?」


 こともなげに呟かれた言葉に、イザークは虚を付かれた。
 呆然と。呆然と、少女を見詰める。
 どこか呆けたその表情に、少女もまた、ぎょっとした。


「な……何よ、イザーク」
「どういうことだ?」
「え?」
「俺が、貴様のオルゴールを直した?いつの話だ」
「え……この前、直してくれたんじゃあ……」
「貴様の部屋に、オルゴールなんて、ないだろう?」
「ぁ……」


 イザークの言葉に、キョウカも驚愕する。
 そうだ。
 キョウカの部屋に、オルゴールなんて、置いていない。
 キョウカの部屋に、そんなものはない。
 彼女の部屋は、殺風景で。
 これが本当に、この年の少女の部屋かと疑うほど、殺風景で。
 そんな、『私物』を、彼女は持ち込んでいない。


「や……やだ。私、何を言っているんだろう」
「キョウカ」
「そう……よ。イザークとは、ヴェサリウスで初めて逢ったんだもの。そんなことあるわけないのに、私……何と勘違いしていたんだろう。おかしいわね、本当に」
「あ……あぁ」


 だってそんなこと、有得ないのだから。
 そんなことが、ある筈がない。起こる筈がない。
 それは、起こりえないことだ。

 おかしい、おかしい、おかしい。
 何故?
 何故、そんな間違いを?
 どうしてそんな、思い違いをしたのだろう。
 そんな、ある筈のない思い違いを、してしまったのだろう。
 おかしい、おかしい、おかしい……。


「……兄様と、勘違いしたのね。そうよ。そうに、決まっている」
「キョウカ」
「だって、合ったことがあるはずが、ないじゃない。私……邸から出たこと、ないもの。アカデミーに入学するまで、邸から出た覚えは、ないもの。それなのに……何ておかしなこと。ごめんね、イザーク。変なこと言っちゃった」
「いや、それは構わないが……」


 構わないが、どこか違和感があった。
 知らない自分にも。
 当然のことのように、彼との『思い出』を語る少女にも。

 違和感しか、感じられなかった。




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