――――『おはよう、』――――

――――『だ……れ……?』――――

――――『だ。お前の兄の。お前の名前は=。私は=だ』――――

髪を梳いてくれる手。

……知っている、この感覚。どこかで……。

安心する。『兄』……兄様……。

――――『兄……様……?覚えてない、私。貴方のこと……』――――

――――『仕方がない。それは、お前の責任ではない。……事故にあったんだ。……酷い事故だった……』――――

――――『事故……?』――――

髪を梳きながら、そっと抱き寄せられる。

優しい手。優しい笑顔。

――――『そう。でも、お前は生きていてくれた。……有難う』――――

プラントとプラントとを行き来する最中に、搭乗していたシャトルで事故が起こり、私は記憶を失った。

そう、兄は言った。

それは、ブルーコスモスによる、テロ行為の一環だったらしい。

生きていてくれてよかった。

記憶がなくても、それでもお前が私の愛しい妹であることは変わりない。

そう、兄が言ってくれなかったら、今頃私はここにいなかったかもしれない――……。





ヴァルキュリア
#19   なたがしい〜後〜






がイザークと合流したのと時を同じくして、アスランはニコルと合流した。

聞こえる波音に、電子音が混ざり始めた。

アスランは目覚め、“イージス”のコックピットに駆け上がった。

無線のスイッチをオンにすると、馴染み深い声が飛び込んできた。

<アス……アスラン……聞こえ……ますか。応答……お願いします……>

「ニコルか!?」

<アスラン!良かった!今、電波から位置を>

案じるようなその声は、年若い彼の同僚のものだった。

「どうした!?」

機体の下から聞こえる声に目を向けると、件の少女が立っていた。どうやらアスランは、彼女を起こしてしまったらしい。

「無線が回復した!」

少女の問いに、アスランはそう返す。

その時、別のアラートが鳴り響き始めた。

どうやらそれは、沖に向かって投下したソノブイからのもののようだ。

「海か……!」

音の正体を確認し、アスランはラダーを使って地上に降りた。

そして、そこに立つ少女に告げる。

「こっちは救援がくる。他に、海からもなんか来るぞ。お前の機体のある方角だ」

「!?」

「俺はコイツを隠さなきゃならない。できれば、こんな所で戦闘になりたくないからな」

アスランの言葉に、少女は自分たちの立場を思い出したかのようだった。

一晩、同じ火を囲んで過ごした。本来出会うはずのなかった二人……。

「あ、うん……。私も機体の所へ戻るよ……。どっかに隠れて、様子を見る」

「そうか」

「……じゃあ」

ニコリと微笑んで、少女は機体のほうへと歩いていく。

気付けばアスランは、その背中に声をかけていた。

「お前!地球軍じゃないんだな?」

「ち・が・う――!」

少し怒ったような、その声。

子供っぽいその反応に、アスランの顔に笑みが浮かびかけ、凍る。

(軍人でもないくせに、皆……)

何故、軍人でないのに戦う?

何故?何故、キラと戦わなければならない?何故……?何故……?

幼馴染の顔が、よぎる。その苦しげな声音と共に。

「カガリだ!お前は?」

アスランの胸の澱みを吹き払うかのような、澄んだ声。

何故、自分がそうしたのか。アスランには分からなかった。

分からないまでも、気付けばアスランはカガリという名の少女に己の名を名乗っていた。

「アスラン!」

アスランが答えると、少女は笑顔で頷き、やがて踵を返した。

しばしその後姿を見送り、彼もまた、歩き出す。

彼の在るべき場所へ――……。



**




イザークの毅い瞳が、真っ直ぐにの右目を凝視している。

色違いの瞳。青い瞳。

「その瞳の色は……?」

「……オッドアイなんて、珍しくもないでしょう?」

コーディネイター。

人為的に、その遺伝子に改変を加えた存在。

それならば、オッドアイも珍しくはない。両親がそれを、子供の容姿に望んだのならば、がオッドアイであることも頷ける。

また、遺伝子に改変を加えたが故に起こる問題の一つとしても、まだしも納得できる。

遺伝子に改変を加えたが故に、彼女の瞳の色素を司る遺伝子が、正常に働かなかったのだとしたら、彼女がオッドアイであってもおかしくはないし、隠すのも理解できる。

しかし、それすらもはるかに凌駕して、彼女のその瞳は異常だった。

「何故、そんな色なんだ?」

「……知らない」

「知らない筈がないだろう?自分のことだろうが」

「知らないのよ。分からない。目覚めたときは、この色だったもの。兄さんも何も言わなかったもの。分からないわよ、私には」

分からないといい続ける少女。しかし、そんなはずがあるものか。少女にとっては生まれたときから慣れ親しんでいる筈の自身の容姿だ。

母であるエザリアと酷似した容姿を持つイザークにしても、自身のその容姿は生まれたときから慣れ親しんでいるもので、それは、緑の頭髪をもつニコルにも言えることだろう。

生まれたときから慣れ親しんでいるもの。自身の容姿とは、まさにそれなのだ。

それを、分からない?

「何で分からない?そんな筈があるか」

「分からないわよ……!!だって私……覚えてないんだもの。私には、8歳までの記憶が、ないんだもの!!」

血を吐くような、それは慟哭だった――……。



**




腕に嵌めていた通信機から、電子音が響く。

「アスラン。です。イザークと合流したわ。そっちは?」

「俺も、ニコルと合流した。先に帰っていてくれ」

「分かりました。……また後でね」

は言い、通信をきる。

先ほどの、我を忘れて叫んだ少女とは思えない、冷静なその声。

そのまま少女は、イザークに向き直った。

「……何から話せばいい?」

「とりあえず、基地に戻ったら聞かせてもらう。その瞳は……」

異常……なのだ。

の瞳は。ありえない。の瞳は、ただのオッドアイではない。……気づいていないのか?自分の瞳の異常さに。

「分かった。ちゃんと話す。でも、前もって言っておくけど、私が分かることなんて、大してないよ」

が持つ記憶は、実際には彼女のものではない。

8歳以後の記憶は、彼女自身のものと自信を持って言えるが、それ以前の記憶は、ビデオに納められていたものだったり、兄に話してもらったりして集積されたものなのだ。

そして兄が語らなかった以上、は自身の容姿について、殆ど何も知らない――……。

それでも、イザークは頷いた。







記憶。それは、過去より蓄積されるもの。

それは時に、その人間の生きた確かな証ともなりうるもの。





基地に着き、パイロットスーツから軍服に着替える。

そして、基地指令隊長へ着任の挨拶。

それらを済ませると、そのまま真っ直ぐとはイザークによって彼女の自室にと宛がわれた部屋へと連れて行かれた。

瞳には、今はカラーコンタクトが入っている。

部屋につき、ロックをかける。

少女はベッドに腰掛け、イザークはその正面に立つ。

腰を下ろすその間すら、もどかしい。

そのまま、開口一番にイザークは尋ねた。

どういうこのなのか、と――……。

「私には、8歳以前の記憶がないの」

イザークが目を瞠るのが、わかる。

けれどにとってそれは、事実なのだ。

今更覆しようもない、事実――……。

「旅行……なのかな。プラントとプラントとを行き来してる最中に、シャトルで事故が起こって。私はそれに巻き込まれたって、兄さんが教えてくれたの」

「シャトル事故……?」

そんなものが、あっただろうか。

マティウス市は、航空宇宙工学、造船工学を司るプラントである。

イザークの母であり、マティウス市代表のエザリアは、航空宇宙工学博士の資格を有している。

シャトル発着などの航空、造船関係の情報は、ジュール家が握っていると言っても過言ではない。

しかしそのような情報は、入ってこなかったはずだ。もっとも、少女が事故に遭ったのは彼女が8歳の頃――イザークが10歳の頃だから、イザークが覚えていないだけなのかもしれないが。

何かが、引っかかった。

10歳の頃……。それは、リヒト=、ルチア=夫妻が死亡した、『テルミドールの悲劇』が起こった年でもある。

これは一体、何の符号だ?

『テルミドールの悲劇』イザークの父は、それで亡くなった。

「事故の後遺症で、私は記憶喪失になったのだと、兄さんが言って――……」

「それは、『テルミドールの悲劇』の前か?後か?」

「『テルミドールの悲劇』……?」

「貴様の両親が亡くなった事件だろうが」

「……覚えてない……。兄様に言われて、両親が地球で……騙し討ちに遭って亡くなったことは知ってるわ。でも……それは、知らない。それで、父様と母様は亡くなったの?」

埒が、明かない。

不自然なくらいに、途切れている記憶。

事故からもう、7年が経っている。少しくらいは、喪われた記憶を思い出してもおかしくはないだろうに。何故こうも何も覚えていない?

まるでこれでは……。

「思い出さなくてもいいって、兄様が言ったの」

「思い出さなくてもいい?」

「そう。あまりにも辛かったから、記憶を失くしたんだろう。だから、無理に思い出さなくてもいいって」

まるでそれでは、故意に記憶を封じたみたいだ。

「だから私は、覚えていないの」

漆黒の瞳を僅かに伏せて、は静かに言った。

記憶。

それは、大切なものではないのか。自分という人間を形作るものの一つではないのか。

何故それを、こうも容易に捨てられる?

「私は、兄さんがいれば、それだけで良かった」

……」

「兄さんが要らない『記憶』なら、私も要らない」

言い切るその強さは、どこから来るのだろう?

愛しているとどんなに叫んでも、きっと彼女には届かない。

彼女にとって、大切なものは=ただ一人なのだ。

それを、思い知らされる。

どうしても、彼女には届かない。

彼女の心を占める人間は、永久に=ただ一人なのではないか、と。

らしくもないその焦燥に、胸が灼けるほどの妬心を感じる。

どれだけ想っても、少女のは届かない。きっと自分など、彼女にとっては兄の代わりでしかない。

それが、言葉に出来ないほど悔しくて、哀しくて……。

それは、衝動だったのかもしれない。

堪え切れない感情の、その発露のままに、イザークは少女を抱きしめていた。

腕の中で、彼女が抵抗するのが、分かる。

しかし男のイザークと女のでは、圧倒的なまでの力の差がある。

そのまま捻じ伏せるように、少女を押し倒し、その唇に口付けていた。

「ん……んぅ……」

その唇が、他の男の名を呼ぶことに、耐えられなかった。

吐息を奪いつくすようなその口付けは、嫉妬からくるものだったのかもしれない。

身を固くして口付けに耐える少女の唇に、口付けたままそっと舌を這わす。

長い口付けに息苦しさを覚えた少女が、うっすらと唇を開くと、それを抉じ開け、舌を侵入させる。

「ん……やっ……」

微かに聞こえる途切れ途切れの哀願は、けれどイザークの衝動を抑える効力を発揮したりはせず。

余計に彼の情熱を煽って。

逃げを打つその躯を更に深く口付けて戒める。

白いの頬を、どちらのものとも分からぬ唾液が伝い、白いシーツの上に染みを作った。

長い長い、責め苦にも等しい口付けから解放すると、二人の間を名残の銀糸が伝う。

「な……何で、こんなこと……」

上がる息を抑えながら、苦しげに言い募るを見下ろすイザークのその端正な顔は、よりもずっと苦しげで。

自分を見下ろすアイスブルーの瞳の、その切ない輝きに、胸が痛くなった。

「……きなんだ……」

「イザーク?」

「貴様が、好きなんだ……」

自分でも、どうしようもないくらいのこの思いは、いつか少女を食い殺しかねないほどの凶暴なものになりそうで。

それでも、今はこうして言葉を紡ぐしか出来ない。

愛しているのだ、と。自分でもどうしようもないほど、愛しいのだと……。

告げられるその言葉が、あまりにも哀しくて。

涙が、出た――……。





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『あなたが欲しい』は、サティ作曲の曲です。

イザークの気持ちを表すには、なかなかナイスなタイトルだと思ったのですが。

あらぬことをお考えになった方がいらっしゃったら、混乱させてしまってすみません、と予め謝らせていただこうと思います。

私は、嫌いな曲ではないですね。『あなたが欲しい』は。



ここまで読んでいただき、有難うございました。