大きな声で、声高に客引きをする男。

 頬を真っ赤にさせて、懸命に呼び込みをする少女。

 市場で繰り広げられる光景は、人間の逞しさを思い起こさせる。

 極寒の地でありながら繰り広げられる営みは、環境を整備され調整されたプラントでは、決して拝めない類のもの。

 しかし、男はそれに興味を惹かれる様子もなく、すいすいと人の間を縫って歩み。

 目的の場所に辿り着いた。

 そして、渡された、ディスク。

 目的のものを受け取り、男は薄く笑う。

 濃いサングラスに覆われた、その瞳は、見えなかったけれど――……。










#30 遁走曲-]@-









 目を開けてまず、眼前に間近に迫った光景に、 = は息を詰まらせた。
 闇を弾く、銀糸の髪。
 同色の長い睫毛に縁取られた瞼は閉ざされて、印象的な蒼氷の瞳は、今は見えない。
 どこかそれに寂しさを思いながら、その感情を飲み込んで、イザークを見つめる。
 鋭い光を放つ瞳が閉ざされただけで、人というのは、こんなにも印象を変えるのだろうか。
 もともとが人間離れした美貌の所有者だけに、どこか非人間的な……彫像めいた印象さえ受けた。
 その方が上下せず、全く微動だにしなかったなら、本当に彫刻だと思ったかもしれない、と。 は思う。


「イザーク……」


 起きるわけはないし、その夢路を妨げるつもりも毛頭ない。
 しかし思わず、 はその名前を呼んでいた。
 噛み締めるように、その響きを噛み砕くように、丁寧に丁寧に。彼の名を、呼ぶ。
 空気が微かに振動したけれど、彼が起きる気配はない。

 まだまだ、寝ていてもおかしくない時間だ。
  は目が覚めてしまったけれど、まだ、眠っていてもどこからも文句の出ることのない、時間。
 これから始まる戦いを思えば、少しでも眠っていた方がいいのかもしれないけれど。
 眠ってしまうのが、同様に酷く惜しく感じてしまう。

 不意に、触ってみたいな、と思った。
 彼の髪に。
 彼の肌に、触れてみたい。

 シーツの波からすんなりとした白い腕を伸ばして、そっと彼に触れてみる。

 闇を弾く銀糸は酷くサラサラとしていて、するり、と の手の中から逃げてしまう。
 白皙の肌は、冷たそうに見えたけれど温もりがあって。それに はほんの少し、安心した。
 死んでいないと、分かったから。
 生きていると分かったから、安心した。


「あんなの、あるわけないもの……」


 恐る恐る、 は自身の掌を開いた。
 白い白い、掌。
 たくさんのナチュラルの血に汚れて、見えない血がこびりついているけれど。それでも今、そこに血の筋はない。
 そこに、血痕は付着していない。

 安堵の溜息を、もう一度吐く。
 あんなこと、起こるわけがない。
 そんなの、有得ない。
 守ると、決めたのだ。
 守ると決めたのだから、彼が死ぬことは決してない。
 守ると決めたその対象を、 が殺める筈もない。
 だって、イザークはコーディネイターだ。 の、同胞だ。
 殺めるわけが、ない。そんな局面に陥るとも、思えない。
 ならば、あの夢は一体、何だったんだろう……。

 私が、殺す?
 イザークを、殺してしまう?
 ……そんなの、あるわけない。有得ない。
 兄に似た人を。
 この優しい人を、殺してしまうなんて、そんなこと。そんなこと、ある筈がない。


「嫌な……嫌な夢……忘れなさい、


 忘れなければ。
 あの夢が現実となってしまいそうで、怖い。
 これ以上何も失いたくないのに、喪うことが現実となってしまいそうで、心が震える。
 あれは、夢だ。
 もうすぐ、かつてない規模の戦闘行為が開始されるから。かつてないほどの作戦が、実行されるから。だから、気が高ぶって。それで、悪夢を見たんだ。
 それだけの、ことだ。きっときっと。

 ぎゅっと、 は自身の身を抱きしめる。
 怖かった。
 怖くて。怖くて堪らない。


?どうした、また、嫌な夢を見たか?」


 不意に頭上からかかってきた声に、視線を転じると、先ほどまで閉じられていたはずの蒼氷の瞳が、しっかりと見開かれ。
 まっすぐと、 を見つめていた。


「イザーク……」
「他に誰がいると言うんだ、馬鹿者」
「……それもそうだね」


 しっかりとした声で話すイザークに、今更ながら不思議に思う。
 一体イザークは、いつから起きていたのだろう。


「まだ夜明けは遠い。もう少し、寝ろ」
「……ん」
「オペレーション・スピットブレイク発動まで、結構な時間もある」
「そうだね」


 でも、寝ろと言われても。
 眠れなかった。
 眠るのが、怖い。

 つい先ごろ眠ったときには、夢は見なかった。
 見なかったけれど、酷く眠りが浅かったような気がする。
 体内に蓄積された疲労が和らいだとはとても言いがたいけれど。でも、熟睡してあの夢を見るくらいだったら、夢なんて見なくていいから浅い眠りで構わない。
 夢も見ないほど熟睡、なんて。 は滅多にないから。


「眠れないのか?」
「……うん」


 イザークの言葉に、 は頷いた。
 眠れない。
 眠れない。
 眠りたく、ない。
 夢を。
 あの夢を。
 あの夢を、見たくなくて。


「眠れないわ。眠れない……眠りたくない」
「……何故?」
「……」


 夢を、見たくないわ。
 あの夢を。
 あの夢を、見たくないの。
 そう、言葉にすることは、憚られた。

 もう、今日になっている。今日、オペレーション・スピットブレイクは発動される。
 ザフトが威信をかけて発動する、その指令が。その作戦が。今日、開始される。それが叶えば、コーディネイターにとって宇宙は再び、安寧を約束する場所となってくれる。
 その為に、その為に。
 『ヴァルキュリア』は戦わねば、ならない。

 口先だけの言葉を、幾ら語ろうともそれは誰の心も動かすことは出来ない。
  嬢、と。我らのヴァルキュリア、と。ザフト軍兵士たちが を呼ぶのは、彼女が彼らと同じ目線に立ち、同じように戦場に身を置き、彼らとともに戦うからだ。
 本来ならば、庇護されるべき然るべき家柄の、娘。
 本来ならば、その名を次代に繋ぐ、娘。
 プラントでも名家の一つと数えられる、 家の、今はもう唯一の生き残りとなったと言われる、彼女が。
 その家柄の娘が、惜しげもなくその身を祖国のために捧げるから。
 だから、彼らは呼ぶ。
  嬢、と。
 誰に強要されたわけでもなく、誰がそれを求めたわけでもなく。
 ただ彼らは、当たり前のように彼女をそう呼ぶのだ。
 我らのヴァルキュリア。我らの戦乙女。 嬢。 = 、と。

 戦う覚悟は、ある。
 敵を殺す覚悟はある、と。少女はそう言う。
 それでも。嗚呼それでも。どうしてどうして、この少女はこんなに脆く。こんなに哀しく。こんなにも愛しいのか。

 眠れないといって、躯を丸める。気づかれないように気づかれないように。
 イザークの眠りを妨げないように躯を丸めて。
 息を潜めて。
 柔らかな小さな白い手で、イザークの頬に触れた少女は。
 その手は、イザークのものとは比べ物にならないほど小さく。比べ物にならないほど柔らかいのに。
 同じ銃を握り、同じナイフを握り、人を屠るためのMSの、そのグリップを握る。

 小さな手。
 柔らかな手。
 白い手。
 その手は本当は、花を手折るためにあって。煌くリングに飾られるために、あった筈なのに。
 本来ならば守られる立場にあるはずの少女の、情熱はだから哀しく。けれど少女がその道を選択しなければ、自分たちは逢うことも無かった筈だと、イザークは思う。
 いや、逢うことはあったのかもしれない。逢えたのかも知れない。
 二人はともに、名家に生を受けている。
 アスラン=ザラにラクス=クライン。
 ならばイザーク=ジュールに =
 それは当然考えられる婚姻の形ではあったけれど。
 そうやって巡り会った女性に、情熱を寄せることはないだろう、と。イザークは自分で思うのだ。


「夢……が」
「夢?」
「夢が、怖い。眠りたく、ない。あの夢に、食い尽くされそうで……押し潰されそうで……怖い」


 怖い、と言って。
 煌く瞳は、漆黒と蒼穹。
 闇に沈む漆黒と、闇を弾く蒼穹。
 嗚呼どちらも。嗚呼どちらも、彼女の性質だ。
 闇を厭いながら闇に沈み、光を厭いながらその輝きに染まる。
 どちらとも相容れない。彼女は、きっと相容れること叶わないのだろう。
 過去を。その指針を。その基盤を。彼女は持たないから。何も何も持たないから、それ故により一層孤立していく。世界から、彼女は孤立する。

 夢が。
 夢が怖い、と。彼女は言う。
 何の夢を見たのだろう。どんな絶望に直面したのだろう。
 どんな、夢を。
 何に、怯えている?


「魘されていたが……何があった?」
「言えない……」
「言えよ」
「言ったら、現実になりそうで。真実になりそうで。当たり前になりそうで。怖い怖い怖い怖い」
「ならない。口にした夢は……口に出された幻想は、現実の前でその効力を失う。現実にはならない。真実にはならない。当たり前にはならない。だから、言え」


 言ってくれなくては、その身が何を抱えているか、分からない。
 何が彼女を食い潰そうとしているのか、分からない。
 何が彼女を恐怖させているのか、分からない。
 言ってくれなくては、どんな言葉も、紡げない。
 言葉にされなくても相手の気持ちが分かる、と。慮れると思うほど彼は傲慢ではなく、大人でもなかった。
 だから、言ってくれなくては、何も分からない。


「……死ぬ夢」


 やがてポツリ、と呟かれた言葉に、彼は先を促す。


「アンタが……イザークが、死ぬ夢」
「俺が?」
「……私が!貴方を、殺す夢……!」
「俺を?」
「私が!私が、貴方を……!貴方の血で、私の手を!染めて……」


 真っ赤な真っ赤な、血が。
 綺麗な綺麗な白皙を。
 綺麗な綺麗な銀糸を。
 穢して、貶めて。
 真っ赤に真っ赤に、染め上げて。
 私の足元に、貴方は眠っていたの。
 眠るように穏やかに……死んで。私の手は、血塗れで。私の全身は、血塗れで。
 ころした……。
 わたしが、ころした。
 わ た し が 、 こ ろ し た 。


『そう、お前が殺したんだよ』


 怒りと悲しみで、目の前が真っ赤になって。真っ赤になるのに、どこか冷静な部分が白く残って。
 あぁ、殺したのね、と。
 無感動に彼を見下ろして。
 『誰か』が言った。
 あぁ、殺してしまったね、と。
 ついにお前は、彼までその手で血祭りに上げてしまったのだね、と。


「傍にいる」
「イザ……」
「貴様なんぞに、俺が殺されるか、馬鹿馬鹿しい」
「なっ……!」



 イザークの言葉に、 は声をあげようと、して。
 言葉を紡ごうと、するけれど。
 それよりも早く、イザークの唇が彼女の名を、呼んで。
 声は、似ていないのにね、と。思った。
 声は、似ていないのに。その優しさは、似ていて。その温かさは、似ていて。
 いとしいと、思う。
 どこまでも、それは家族愛に似ていると、自分で思うけれど。


…… …… = 。ザフトのヴァルキュリア。我らの、ヴァルキュリア。俺のヴァルキュリア」
「……俺の、は余計だわ」


 所有物ではないわ、と。
 そう、彼女は口にする。
 けれどもう殆ど、彼女はザフトの所有物ではないか。
 ザフトの……プラントの……その名を冠する柵に捉えられた籠の鳥。
 みな、口にするのだ。その名を、誇らしげに。呼んで、柵に縛り付けるのだ。
 我らのヴァルキュリア。
 我らの戦乙女。
 ザフトのヴァルキュリア。
 そう、みな呼ぶのだ。


「そうか」
「そうよ。私は、モノじゃないもの」


 そう、少女は言って。
 柵は、否定しないのだな、と。
 そう、思う。
 モノじゃない。そう言う彼女は。彼女を戒める数多の鎖さえも、愛するのだろうか。
 それが価値だ、と。彼女は言うのだろうか。
 堪らない気持ちに、なる。
 それでも、言葉にすべきは唯一つ、だ。


= 。ザフトのヴァルキュリア。我らのヴァルキュリア。貴様は、俺を殺したりはしないさ」
「何故?」


 何故、そう言い切れるの?
 少女の漆黒の瞳が。蒼穹の瞳が。息も出来ないほどの静謐を秘めて、彼にそう語りかける。
 けれどどうしてそう、言い切れるのだろう。
  にだって、分からない。
 何が起こるか、分からない。
 何に絶望するか、分からない。

 “ワルキューレ”の武装は、兄の意志を受けてか、強力なものが装備されている。
 地球軍が製造した新型モビルスーツなど、その日ではない。唯一、地球軍の新型モビルスーツが優れていた点は、“フェイズシフト装甲”だった。
 それだけは、兄である = の開発したモビルスーツに、備わってはいなかった。

 その、強力な武装で。
 ともすれば、味方を灼いてしまうことも、あるのではないか。
 あの夢は、 にそんな疑念さえも抱かせていた。
 強すぎる、力で。
 強力すぎるその、力で。
 味方さえも、灼いてしまうのではないか、と。
 思わずには、いられない。震えずには、いられない。


「同胞だからな」
「同胞だから?」
「お前には、殺せないだろ」


 こともなげに、イザークは言う。
 そんなことは、有得ない、と。
 それは何よりも雄弁に物事を語っているような気がして。何よりも雄弁に、彼の気持ちを語っているような気がして。


「だから、寝ろ」
「……夢、が」
「その夢は、正夢にならない夢だ。幻聴だ。貴様がそう信じれば、そんな夢は見ない。絶対に見ない。それでも見ると言うなら……」


 夢が、怖いのです。
 夢を見ることが、怖いのです。
 この手が、貴方の血で赤く染まっている。
 何て何てそれは、悪夢。


「その夢は、祓ってやる」


 蒼氷の瞳が鮮烈に煌く。
 赤い軍服に包まれた腕が、 の頬を撫でた。
 お互いがお互いとも、軍服のままで。そのままでは寝苦しいから、軍服の詰襟を緩めたり、ベルトを外したりしながら眠りに就いた。
 まるでそこから先が、互いに触れてはならない境界線であるかのように。


「……傍に、いてくれる?」
「あぁ」
「離れないで、離れないでずっと、傍に。傍に、いてくれる?ずっとずっと、生きていてくれる?私をおいて逝ったり、しない?」
「あぁ」


 やがてポツリと呟かれた言葉に、イザークは頷いた。
 離れない、と。傍にいると。
 言葉にしない約束を、彼女の上に降らせるかのように。
 何度も何度も、頷く。呟く。

 縋って。
 弱くて。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 それでも貴方の言葉が、私を救ってくれる。
 ごめんなさい、弱くて。
 ごめんなさい、傲慢で。
 ごめんなさい。……貴方を、傷つけて。

 瞳からは涙が零れそうになるけれど。泣けない。泣かない。泣いてはいけない。そんな権利も資格も、 は有していない。
 それなのに甘やかしてくれる手が、嬉しくて。その温もりが、愛しくて。
 それでも手を伸ばすことは躊躇われるから、その軍服の袖口を掴む。
 苦笑いを一つして、イザークの手が同じように の軍服に触れて。その肩を一つ、叩いた。
 眠れ、と。
 その仕草がそう、語っていた。
 悪い夢を見たなら、その夢は祓ってやるから、と。
 そう言っているように、感じられたから。

 だから、ん、と。頷いた。
 小さく躯を丸めて、瞳を閉じる。
 大丈夫だ、と。囁くその声を。囁くその言葉を。囁くその人を。信じたいと、思ったから――……。



ゆるりと瞳を閉じ

少女は眠る

穏やかな穏やかな眠りが彼女を満たし

その目覚めを促す

世界を 灼きつくすために――……



**



 彼女はずっと眠っていた。
 ずっとずっと、彼女は箱庭の中で眠っていた。


『時が来ていないから』


 彼女の絶対者はそう言って、酷く哀しげに笑って見せた。
 まだ、時が来ていないからね。だから君の出番は、まだなんだよ。まだまだ。もう少しだけ、待って。もう少し、もう少しだけ。
 やがて君の出番はやってくるよ。必ず、やってくるから。
 だからもう少しだけ、眠っていて。

 囁く声に、彼女は頷く。
 絶対者の言葉は、彼女にとって絶対で。その言葉に背くなんて、彼女自身、思いもよらないことだから。

 眠っていればいいの?もう少し、もう少し。
 もう少しだけ、眠っていればいいの?
 彼女の声なき声を、彼女の絶対者は聞いたのだろうか。知覚したのだろうか。
 嗚呼、きっと分かっているのだ。
 だって彼は、彼女の絶対者だから。唯一絶対の人……だから。

 そう、思って。
 違う、と。彼女は首を振る。
 違う。違う。違う。違う。
 ち が う 。


『 ち … … が う 』


 満たされた液体の中、こぽこぽとその液体を揺らして。波紋を作りながら、彼女は言う。
 違う。違う。違う。違う。
 それは、違う。


『ちが……う』
『違わないよ』


 彼女の否定の言葉を、その人は心地よく断じた。
 違うよ。違う。違うよ。
 お前の絶対者は、自分をおいて他にないのだ、と。否定の言葉を募らせる彼女に、青年はそう言って笑って見せる。

 違うわ。
 ……違わないよ。
 貴方だけが、私の『天』ではないでしょう?
 違わないよ。君がそう信じているのだとしたら、それこそがおかしい。
 違う。私の『天』は、貴方だけじゃ、ない。それは違う。おかしい。
 『彼』は?『彼』はどこ?『彼』はどこにいるの?逢いたい、逢いたい、逢いたい、逢いたい。
 『彼』が贈ってくれた、小さな花のリングは、どこ?どうして私、持っていないの?『彼』はどこ?『彼』は、どこにいるの?

 彼女は問うけれど。彼女の絶対者は、薄い笑みを湛えたまま、何も言わず。ただ、彼女の唇から迸る問いを聞いていた。それは、嘆きにも似ていたのに。


『おやすみ。まだ、時は来ていないのだから』


 ――嫌よ、待って!『彼』はどこ?『彼』はどこ?教えてよ、『彼』は、どこにいるの?


『時が来れば、出会えるよ。君の大切な彼は、君が目覚めるのを待っている。「彼」はプラントを愛しているから。君がプラントを守りたいと願っていることを知れば、「彼」はまた、君を愛してくれるよ。……だから、時をお待ち』


 巡り巡る時を。
 流転する狭間で、運命の輪を回しながら。
 時を、待つ。


 いつ、『彼』は来るの?


 溶液に満たされた鳥籠の中、溢れる溶液をこぽこぽと揺らしながら、『彼女』が尋ねる。
 いつ、彼は来るの?と。まるで祈るように、願うように。
 早く早く、その時が巡ればいいのに。
 瞳に歓喜とかなしみを乗せて、『彼女』が囁く。
 早く早く、と。
 逢いたい。逢いたい。逢いたい。

 期待に、瞳が輝く。
 それを見やって、彼は囁いた。


『逢えると、いいね。早く早く、逢えるといいね』


 見返した『彼女』は、当たり前のように頷き。
 期待に満ちた瞳を、閉じる。
 眠っている間に、時が巡ればいい。
 運命の輪を回して、『彼』がすぐ傍に、来ていたらいいのに――……。

 満たされた安寧の箱庭の中。狂気の檻の中で『彼女』は静かに、瞳を閉じた――……。




**




 花の咲き誇る庭園で、キラは目覚めた。
 まるで天国のような……そんな、現実感を全く伴わないその景色をぼんやりと眺める。
 すると頭上から、天使の妙なる調べのような、天上の歌声のような、そんな声が、かかって。
 瞠目するキラの目の前で、少女がにこりと、微笑んだ。
 まるで天使のような、温かい笑顔。
 優しい、声。


「おはようございます、お目覚めですか?」


 愛らしい容姿に、アスランにさえ向けたことがないであろう満面の笑みを、浮かべる。
 あからさまに潜む媚態は、けれど彼女の清楚な雰囲気も相俟って、あくまでも清雅な印象を与える。


「ぼ……くは……」
「お分かりになります?」
<ハロ!ゲンキ!オマエ、ゲンキカ?>
「ラ……クス……さん」
「あらぁ。ラクスとお呼びくださいな、キラ。でも、覚えていてくださって、嬉しいですわ」
<マイド!マイド!>


 キラの答えに、ラクスは嬉しそうに笑みを深める。
 ラクスのピンクのハロが跳ねて、キラのベッドに飛び乗った。
 すい、と、気配を感じさせぬ様子で、男が歩み寄る。
 閉じられた瞳は、彼が盲人であることを示していた。


「彼が目を覚ましたのですね?」
「はい、マルキオ様」
「驚かれたのではありませんか?このような場所で。ラクス様が、どうしてもベッドは此処へ置くのだと言って聞かなくて」
「だって、こちらの方が気持ちよいではありませんか。お部屋より。ねぇ?」


 このような場所、といわれて、キラは辺りを見回す。
 ガラス張りの小さな、温室のようだ。
 陽光が降り注いで、確かに気持ちの良い環境かも、知れない。
 けれど確かに、病人や怪我人のベッドを置く場所としては、相応しくない気がする。
 ラクスに同意を求められても、だからキラは、何とも答えようがなかった。


「僕は……」
「貴方は傷つき倒れていたのです。私の祈りの庭で。そして私が此処へお連れしました」
「キラ?」
「ど……して……?ど……して」


 キラの脳裏に、最も近しい記憶が蘇る。
 殺し合いをした。
 こ ろ し あ い を し た 。
 親友と、殺しあった。
 その、記憶が。
 その記憶が、蘇って。
 キラはベッドから弾かれたように起き上がると、震えだした。


「貴方はSEEDを持つ者。故に……」
「キラ!?」


 震えるキラは、泣いていた。
 アメジストの瞳から、大粒の涙が零れ落ち。
 それはもはや零れ落ちるという次元ではなく、滂沱の如く流れる。


「僕は……アスランと、戦って……」
「……ぇ?」
「死んだ筈、なのに……」
「キラ……」


 傷つくキラの背を、ラクスはそっと支える。
 落ち着かせるように優しく、その手に触れて。
 蒼灰色の瞳には、ただ悲しみがあった――……。



**




 リクライニング式のベッドを起こして、ベッドサイドに設えられたテーブルで、ラクスは二人分の紅茶を淹れた。
 虚空を眺めるキラが、自嘲気味に哂う。
 そっとキラの分の紅茶をキラの前に置いて、ラクスはキラの話を促した。


「どうしようも、なかった……僕は、彼の仲間を……殺して」


 アスランを庇うように向かってきた、漆黒の機体。
 その機体の胴を薙ぎ払い。
 そのコックピットを、刃で貫いた。


「アスランは、僕の友達を、殺した。だから……」


 キラの言葉を聞いていたラクスが、自分の分の紅茶の入ったティーカップを傾け。
 そして徐に、口を開く。
 蒼灰色の瞳に、悲しみを乗せて。


「貴方はアスランを殺そうとしたのですね。そして、アスランも貴方を……」


 よぎるのは、あの死闘だった。
 あの時、互いの前にいるのは、親友ではなかった。
 『敵』だった。
 殺すべき……滅ぼすべき、『敵』。
 友人ではなかった。そうは、思えなかった。


「でもそれは、仕方のないことではありませんか?戦争であれば」


 ラクスの言葉に、キラは顔を上げた。
 怜悧な目で、ラクスはキラを見下ろす。
 そこには、優しさなんてなく。ただ事実を事実として突きつける、そんな酷薄さがあった。
 怜悧冷徹な、目が。

 そして、キラは思う。
 何てことを話したのだろう。
 彼女は、アスランの婚約者なのに。
 けれどラクスに、アスランを喪ったかも知れない悲しみも悲哀も何も、なかった。
 ただ彼女は穏やかに微笑み。穏やかに事実を突きつける。


「お二人とも、敵と戦われたのでしょう?……違いますか?」
「てき……」


 ラクスの言葉を、キラは反芻する。
 確かに、『敵』だった。
 あの時、アスランは『敵』だった。
 けれどそうしてラベリングすることに、どうしようもない恐ろしさを感じる。
 アスランは、友人だった。親友だった。けれど戦争は、それさえも赦してくれない。
 そのことに、キラは戸惑いを隠せなかった――……。



**




 食事を載せたカートを押して、ラクスは屋敷から温室へと繋がる廊下を歩く。
 どこかはしゃいだ様子でラクスを先導するハロは、ラクスの湧き立つ気持ちを分かっているのだろうか。
 ぴょんぴょんと跳ねながら、温室へ足を踏み入れ。
 しかしそこに、求める人影は、ない。


<ナンデヤネ〜ン!>
「あら?……あらあら?」


 ラクスはくるくると踊るように辺りを見回す。
 一体、どこに行ってしまったのだろう。
 まだ、包帯は外せないというのに。
 あくまでもおっとりとした動作で、ラクスはキラを探し始めた。



 キラはそのころ、温室より階段を下りた小さな石畳の踊り場にいた。
 プラントの贋物の海が、目の前には広がり。
 地球を模したのだろうか。カモメが、飛んでいる。

 遠くを眺めながら、キラは思案に沈んだ。
 思い出されるのは、友人のこと。
 トールのこと。
 銃口を向ける地球軍の兵士からキラを庇ってくれた。
 志願して、“スカイグラスパー”に搭乗した。
 できることをするのだと、言って。
 そしてキラを庇って。アスランに、撃たれた。

 ぐっと、唇を噛み締める。
 溢れてくるのは、悲しみで。この悲しみが癒される日は、決して来ないだろうと思う。
 死んでしまった。死んでしまった、友人。
 大切だったのに。こうして自分は生きていて、彼は死んでしまって。

 虚空を見上げるキラに、背後から優しい声がかかった。


「何を見ていらっしゃいますの?」


 問いかけて、少女はキラの隣にやってきた。
 蒼灰色の瞳いっぱいに、悲しみの色と同情の色を浮かべて。
 優しい優しい声で、彼女は囁く。
 まるでキラを、哀れむかのように。


「キラの夢は、いつも哀しそうですわね……」


 哀れみの眼差しを向けるラクスに、キラは応えなかった。
 ただ、哀しい目で彼女を見つめ。
 ゆっくりと、その瞳が逸らされる。


「哀しい……たくさん、人が死んで……僕も、たくさん……殺した」


 ヘリオポリスで過ごしていた日々が、とても遠くのことのように感じられる。
 あの頃は、戦争なんて知らなかった。そんなもの、どこか遠い世界で起こっていることだった。
 けれど今、それは間近で。身近で。たくさんの人が、死んだ。たくさんの人を、守れずに。そしてたくさん、殺して。
 感極まって、キラは泣き出した。
 手摺に突っ伏すと、ラクスがキラの頬に向かって手を伸ばす。


「貴方は戦ったのですわ。それで守れたものも、たくさんあるのでしょう?」


 キラの頭を撫でながら、にこりとラクスは笑った。
 アスランさえ目にしたことはないだろう笑顔の大盤振る舞いを、して。
 甘やかな甘やかな声が、キラの戦いを肯定する。
 それに、キラは涙も忘れてラクスを見入った。


「でも……」


 そんなキラの前で、ラクスは憂いに満ちた眼差しをする。
 どこか遠くを見つめる瞳に、その静謐な美しさに、キラは問う言葉を忘れ。
 ただ黙って、相手を見つめることしか、出来ない。

 やがてラクスは、ぱちん、と手を合わせた。
 先ほどまでの静謐な雰囲気は鳴りを潜め、天真爛漫と笑う。


「今はお食事にしましょ?温めなおしてまいりますわね。それに、貴方はまだ、おやすみになっていなくては」


 キラの腕を取り、ラクスは温室に設えたキラの病室に向かって歩み。
 そして、囁いた。


「大丈夫です。此処はまだ、平和です……」


 その言葉に、キラとて返す言葉はなく。
 ただ黙って、ラクスのされるがままに任せているけれど。ラクスは嬉しそうにかいがいしく世話をするから。

 時が移ろい、暮色があたりを支配する。
 鮮やかな色に染まった贋物の海を眺めていると、キラを席に導いた後に食事を温めにいったラクスが、戻ってきた。
 食事のトレイを差し出し、キラの隣に立つラクスは、微笑み。
 ただただ優しく、囁く。


「ずっとこのまま、こうしていられたら良いですわね……」


 ラクスの言葉に、キラははっきりと言葉を返しはしなかったけれど。
 思うことは、同じだった。
 こうしていられたら、いい。
 こうして、戦わず奪わず。当たり前のように生活できたら、どれだけいいだろう。
 そう、思って。
 意図せず二人揃って、贋物の海を眺めた――……。



**




 スピットブレイク発動目前、キラの傷はすっかり癒えた。
 けれどそれでも、何をするでもなく彼は、ラクスの屋敷から海を眺めていた。
 このまま全て、忘れることが出来たら、いいのに。戦争の子とも。友人が死んだことも。親友と殺し合いをしたことも。全部全部、初めから夢の中の出来事であったなら、良かったのに。

 ぼんやりと海を眺めるキラに、声がかけられる。
 すっかり耳になじんだ柔らかい声は、ラクスのものだ。


「まもなく雨の時間です。中でお茶にしませんか?」


 にっこりと微笑むラクスにキラは頷き。
 ゆっくりと、立ち上がる。
 導かれるままに、ラクスの屋敷のうちへと足を進めた――……。



 天候も全てプログラムされたプラントで、天気予報は決して外れはしない。
 案の定、ラクスがキラを邸内に招じ入れて後、大粒の雨が降り始めた。
 邸内といっても、すっかりキラの病室と化した、温室だけれど。
 静かに雨を眺めるキラに、ラクスが声をかける。


「キラは雨がお好きですか?」
<ナンデヤネン!>
「不思議だなって、思って。何で僕は、此処にいるんだろうって、思って」
「キラは何処にいたいのですか?」


 キラが腰掛ける椅子の、その足元の床に跪いたラクスが、媚を滲ませて尋ねる。
 問いは、至極単純なもので。
 そうであるが故に答えを躊躇うような、そんなものだった。

 何処に、いたいのだろう。
 何処を、目指しているのだろう。
 何処へ、行けるのだろう。

 明確な答えなど出しようもない、問いだ。
 案の定、キラは分からないとしか、答えることが出来ない。


「分からない……」
「此処はお嫌いですか?」
「此処にいて……いいのかな……」
「わたくしは勿論!と、お答えしますけど」


 キラの言葉に、ラクスはそう言って笑う。
 そこで、今まで口を閉ざしていたマルキオが、口を開いた。
 小さな伝道所で、孤児たちを育ててひっそりと暮らす、盲目の伝道師は、ティーカップに満たされた紅茶を啜ると、徐に唇を開いた。


「自分の向かうべき場所、せねばならぬことは、やがて自ずと知れましょう。あなた方はSEEDを持つ者。故に……」
「ですって?」


 キラの瞳を見返して、ラクスが悪戯っぽく囁く。
 温室の扉がスライドして、壮年の男が現れた。
 ラクスの父親である、シーゲル=クラインだ。
 穏やかな男は、入室するとまず、地球行きのシャトルの状況について、マルキオに説明を始めた。
 彼は、地球に帰らねばならないのだが、そのためのシャトルがなかなか、発進できないのだ。
 ザフトが威信をかけて推し進める、オペレーション・スピットブレイクの影響だ。


「やはり駄目ですな。導師のシャトルでも、地球に行くものは全て、発進許可は出せないとのことで」


 シーゲルの言葉を遮るように、クライン邸の執事が温室に向かって内線を繋いだ。
 硬い声が、外部からの通信の有無を告げる。


<シーゲル様へ、アイリーン=カナーバ様より通信です>
「クラインだ」
<シーゲル=クライン!我々は、ザラに欺かれた!>


 画面に画像が結ばれる。
 まだ若い女性が、固い口調で話しかける。
 その声は、いっそ憤りに凝っていた。
 その激情の意味が分からず、先を促す。


「カナーバ」
<発動されたスピットブレイクの目標はパナマではない!アラスカだ!>
「何だと!?」


 『アラスカ』
 その言葉に、キラは手にしていたティーカップを取り落とした。
 キラの震えを、ラクスだけが見ていた。
 大人たちは更に、現在の状況について話を続ける。


<彼は一息に地球軍本部を壊滅させる気なのだ!評議会は、そんなことは承認していない!>


 けれど大人たちの言葉も、今のキラの耳には入らなかった。
 ティーカップを取り落とし、震える。
 落下したティーカップが……ティーソーサーが割れてしまったけれどそれさえも、キラは感知できなかった。

 ミリアリアが、サイが、カズイが。
 ナタルが、マードックが、フラガが、マリューが、フレイの姿が、よぎる。
 彼らは今、何処にいる?どこを目指していた?
 ……アラスカだ。

 ぐっとキラは、服の胸の辺りを押さえた。
 息が出来なくて、苦しい。
 嫌だ。また、戦うなんて。
 また、殺しあうなんて、嫌だ。
 嫌だけれど。
 大切な人たちは、あそこにいる。

 呼吸さえも止まるほどの葛藤に苛まれるキラを、ラクスは支えた。
 憂いの眼差しを、浮かべながら――……。



**




 起床予定時刻の一時間前に、 は目覚めた。
 あの夢は、見なかった。
 それに少し、安心する。
 イザークを見ると、彼は眠っていた。
 陶器で出来たお人形のような寝顔を眺めて。けれど彼は生きていると分かるから、詰めた息をゆっくりと吐く。

 ゆっくりと、彼を起こさないよう起き上がって。
 眠りを妨げたくないから、メッセージボードにメッセージを打ち込んで、部屋に帰ることにした。
 誰かに見られたら、恥ずかしい。
 そう言うことをしたわけでは、勿論ないけれど。男性の部屋から出て行く姿を見られるのは、気恥ずかしくて堪らないから。
 人通りが少ない時間を見計らって、外に出るのが得策だと思う。

 手動にして、音を立てないよう設定したドアを、ゆっくりとスライドさせる。
 きょろきょろと辺りを見回すと、誰もいないことを確認して、冷たく冷えた廊下にブーツで包まれた足を置いた。

 部屋へ至る短い距離を歩む。
 誰かと鉢合わせるなんて、思っても見なかったけれど。
 予期せぬ邂逅とでも言うべきか、 の向かいから人影が歩んでくる。
  にとって上官に当たる、ラウ=ル=クルーゼの姿を認めて、 は廊下の端に寄った。
 そして、敬礼する。


「おはようございます、隊長」
「あぁ、おはよう、


 仮面で隠れて、その瞳の色は分からない。
 ちらりと に視線を走らせた彼のその唇が、しかし にも分かる笑みの形に、歪んだ。

 幾ら最低限の身嗜みを整えて出たとは言え、軍服を着用したまま眠ったのだ。当然、軍服には皺が寄っている。
 軍人である以上、咎められても仕方のない失態だ。
 しかし、咎めるようなそんな言葉は、クルーゼの唇からは零れず。
 酷く楽しそうに、彼は哂った。


「何でしょう、隊長……」


 含み笑いに何かの意図を感じて、少女は硬い声で問う。
 しかし彼女の上官である男は、それには答えず。
 ただ、哂うだけだ。
 けれどすれ違いざまに、男は囁いた。


「まだ君は、綺麗なままでいるつもりかね?」
「……え?」
「まだ君は、綺麗な自分を信じているのかね」
「私はっ!」


 信じてなんか、いない。
 自分の穢れは、分かっている。
 たくさん殺して、たくさん壊して奪って。
 汚れた手から漂う腐臭は、認識している。

 けれど上官は、またも答えず。
 含み笑いだけを残して、廊下を歩み去る。
 口元に刻まれた笑みに、愉悦の欠片を刷いて――……。



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 『鋼のヴァルキュリア』をお届けいたします。
 またもや長くなりました。
 最近、一話一話が長くて申し訳ありません。
 いや、やっぱり夢は、多少お相手との絡みもしくは、キャラクターとの絡みがあって何ぼだろう、と。
 思うようになったため。
 鰻上りに長くなってます。

 ちょっとラクスへの点数が辛くてごめんなさい。
 でもやっぱり、ラクスのキラとアスランへの態度の差は、見ていてちょっと不快で。私がキラよりアスランが好きだからかもしれないけれど。
 ラクスはキラの前では普通の女の子でいられるのねvvみたいな、肯定的な考えはもてませんでした。
 どうせ女帝になるんだったら、孤高の女王でいてほしい。
 って、思ったりしたものです……。

 何はともあれ。
 此処までお読み戴き、有難うございました。