大きな声で、声高に客引きをする男。 頬を真っ赤にさせて、懸命に呼び込みをする少女。 市場で繰り広げられる光景は、人間の逞しさを思い起こさせる。 極寒の地でありながら繰り広げられる営みは、環境を整備され調整されたプラントでは、決して拝めない類のもの。 しかし、男はそれに興味を惹かれる様子もなく、すいすいと人の間を縫って歩み。 目的の場所に辿り着いた。 そして、渡された、ディスク。 目的のものを受け取り、男は薄く笑う。 濃いサングラスに覆われた、その瞳は、見えなかったけれど――……。 #30 遁走曲-]@- 闇を弾く、銀糸の髪。 同色の長い睫毛に縁取られた瞼は閉ざされて、印象的な蒼氷の瞳は、今は見えない。 どこかそれに寂しさを思いながら、その感情を飲み込んで、イザークを見つめる。 鋭い光を放つ瞳が閉ざされただけで、人というのは、こんなにも印象を変えるのだろうか。 もともとが人間離れした美貌の所有者だけに、どこか非人間的な……彫像めいた印象さえ受けた。 その方が上下せず、全く微動だにしなかったなら、本当に彫刻だと思ったかもしれない、と。 は思う。 「イザーク……」 起きるわけはないし、その夢路を妨げるつもりも毛頭ない。 しかし思わず、 はその名前を呼んでいた。 噛み締めるように、その響きを噛み砕くように、丁寧に丁寧に。彼の名を、呼ぶ。 空気が微かに振動したけれど、彼が起きる気配はない。 まだまだ、寝ていてもおかしくない時間だ。 は目が覚めてしまったけれど、まだ、眠っていてもどこからも文句の出ることのない、時間。 これから始まる戦いを思えば、少しでも眠っていた方がいいのかもしれないけれど。 眠ってしまうのが、同様に酷く惜しく感じてしまう。 不意に、触ってみたいな、と思った。 彼の髪に。 彼の肌に、触れてみたい。 シーツの波からすんなりとした白い腕を伸ばして、そっと彼に触れてみる。 闇を弾く銀糸は酷くサラサラとしていて、するり、と の手の中から逃げてしまう。 白皙の肌は、冷たそうに見えたけれど温もりがあって。それに はほんの少し、安心した。 死んでいないと、分かったから。 生きていると分かったから、安心した。 「あんなの、あるわけないもの……」 恐る恐る、 は自身の掌を開いた。 白い白い、掌。 たくさんのナチュラルの血に汚れて、見えない血がこびりついているけれど。それでも今、そこに血の筋はない。 そこに、血痕は付着していない。 安堵の溜息を、もう一度吐く。 あんなこと、起こるわけがない。 そんなの、有得ない。 守ると、決めたのだ。 守ると決めたのだから、彼が死ぬことは決してない。 守ると決めたその対象を、 が殺める筈もない。 だって、イザークはコーディネイターだ。 の、同胞だ。 殺めるわけが、ない。そんな局面に陥るとも、思えない。 ならば、あの夢は一体、何だったんだろう……。 私が、殺す? イザークを、殺してしまう? ……そんなの、あるわけない。有得ない。 兄に似た人を。 この優しい人を、殺してしまうなんて、そんなこと。そんなこと、ある筈がない。 「嫌な……嫌な夢……忘れなさい、 」 忘れなければ。 あの夢が現実となってしまいそうで、怖い。 これ以上何も失いたくないのに、喪うことが現実となってしまいそうで、心が震える。 あれは、夢だ。 もうすぐ、かつてない規模の戦闘行為が開始されるから。かつてないほどの作戦が、実行されるから。だから、気が高ぶって。それで、悪夢を見たんだ。 それだけの、ことだ。きっときっと。 ぎゅっと、 は自身の身を抱きしめる。 怖かった。 怖くて。怖くて堪らない。 「 ?どうした、また、嫌な夢を見たか?」 不意に頭上からかかってきた声に、視線を転じると、先ほどまで閉じられていたはずの蒼氷の瞳が、しっかりと見開かれ。 まっすぐと、 を見つめていた。 「イザーク……」 「他に誰がいると言うんだ、馬鹿者」 「……それもそうだね」 しっかりとした声で話すイザークに、今更ながら不思議に思う。 一体イザークは、いつから起きていたのだろう。 「まだ夜明けは遠い。もう少し、寝ろ」 「……ん」 「オペレーション・スピットブレイク発動まで、結構な時間もある」 「そうだね」 でも、寝ろと言われても。 眠れなかった。 眠るのが、怖い。 つい先ごろ眠ったときには、夢は見なかった。 見なかったけれど、酷く眠りが浅かったような気がする。 体内に蓄積された疲労が和らいだとはとても言いがたいけれど。でも、熟睡してあの夢を見るくらいだったら、夢なんて見なくていいから浅い眠りで構わない。 夢も見ないほど熟睡、なんて。 は滅多にないから。 「眠れないのか?」 「……うん」 イザークの言葉に、 は頷いた。 眠れない。 眠れない。 眠りたく、ない。 夢を。 あの夢を。 あの夢を、見たくなくて。 「眠れないわ。眠れない……眠りたくない」 「……何故?」 「……」 夢を、見たくないわ。 あの夢を。 あの夢を、見たくないの。 そう、言葉にすることは、憚られた。 もう、今日になっている。今日、オペレーション・スピットブレイクは発動される。 ザフトが威信をかけて発動する、その指令が。その作戦が。今日、開始される。それが叶えば、コーディネイターにとって宇宙は再び、安寧を約束する場所となってくれる。 その為に、その為に。 『ヴァルキュリア』は戦わねば、ならない。 口先だけの言葉を、幾ら語ろうともそれは誰の心も動かすことは出来ない。 嬢、と。我らのヴァルキュリア、と。ザフト軍兵士たちが を呼ぶのは、彼女が彼らと同じ目線に立ち、同じように戦場に身を置き、彼らとともに戦うからだ。 本来ならば、庇護されるべき然るべき家柄の、娘。 本来ならば、その名を次代に繋ぐ、娘。 プラントでも名家の一つと数えられる、 家の、今はもう唯一の生き残りとなったと言われる、彼女が。 その家柄の娘が、惜しげもなくその身を祖国のために捧げるから。 だから、彼らは呼ぶ。 嬢、と。 誰に強要されたわけでもなく、誰がそれを求めたわけでもなく。 ただ彼らは、当たり前のように彼女をそう呼ぶのだ。 我らのヴァルキュリア。我らの戦乙女。 嬢。 = 、と。 戦う覚悟は、ある。 敵を殺す覚悟はある、と。少女はそう言う。 それでも。嗚呼それでも。どうしてどうして、この少女はこんなに脆く。こんなに哀しく。こんなにも愛しいのか。 眠れないといって、躯を丸める。気づかれないように気づかれないように。 イザークの眠りを妨げないように躯を丸めて。 息を潜めて。 柔らかな小さな白い手で、イザークの頬に触れた少女は。 その手は、イザークのものとは比べ物にならないほど小さく。比べ物にならないほど柔らかいのに。 同じ銃を握り、同じナイフを握り、人を屠るためのMSの、そのグリップを握る。 小さな手。 柔らかな手。 白い手。 その手は本当は、花を手折るためにあって。煌くリングに飾られるために、あった筈なのに。 本来ならば守られる立場にあるはずの少女の、情熱はだから哀しく。けれど少女がその道を選択しなければ、自分たちは逢うことも無かった筈だと、イザークは思う。 いや、逢うことはあったのかもしれない。逢えたのかも知れない。 二人はともに、名家に生を受けている。 アスラン=ザラにラクス=クライン。 ならばイザーク=ジュールに = 。 それは当然考えられる婚姻の形ではあったけれど。 そうやって巡り会った女性に、情熱を寄せることはないだろう、と。イザークは自分で思うのだ。 「夢……が」 「夢?」 「夢が、怖い。眠りたく、ない。あの夢に、食い尽くされそうで……押し潰されそうで……怖い」 怖い、と言って。 煌く瞳は、漆黒と蒼穹。 闇に沈む漆黒と、闇を弾く蒼穹。 嗚呼どちらも。嗚呼どちらも、彼女の性質だ。 闇を厭いながら闇に沈み、光を厭いながらその輝きに染まる。 どちらとも相容れない。彼女は、きっと相容れること叶わないのだろう。 過去を。その指針を。その基盤を。彼女は持たないから。何も何も持たないから、それ故により一層孤立していく。世界から、彼女は孤立する。 夢が。 夢が怖い、と。彼女は言う。 何の夢を見たのだろう。どんな絶望に直面したのだろう。 どんな、夢を。 何に、怯えている? 「魘されていたが……何があった?」 「言えない……」 「言えよ」 「言ったら、現実になりそうで。真実になりそうで。当たり前になりそうで。怖い怖い怖い怖い」 「ならない。口にした夢は……口に出された幻想は、現実の前でその効力を失う。現実にはならない。真実にはならない。当たり前にはならない。だから、言え」 言ってくれなくては、その身が何を抱えているか、分からない。 何が彼女を食い潰そうとしているのか、分からない。 何が彼女を恐怖させているのか、分からない。 言ってくれなくては、どんな言葉も、紡げない。 言葉にされなくても相手の気持ちが分かる、と。慮れると思うほど彼は傲慢ではなく、大人でもなかった。 だから、言ってくれなくては、何も分からない。 「……死ぬ夢」 やがてポツリ、と呟かれた言葉に、彼は先を促す。 「アンタが……イザークが、死ぬ夢」 「俺が?」 「……私が!貴方を、殺す夢……!」 「俺を?」 「私が!私が、貴方を……!貴方の血で、私の手を!染めて……」 真っ赤な真っ赤な、血が。 綺麗な綺麗な白皙を。 綺麗な綺麗な銀糸を。 穢して、貶めて。 真っ赤に真っ赤に、染め上げて。 私の足元に、貴方は眠っていたの。 眠るように穏やかに……死んで。私の手は、血塗れで。私の全身は、血塗れで。 ころした……。 わたしが、ころした。 わ た し が 、 こ ろ し た 。 『そう、お前が殺したんだよ』 怒りと悲しみで、目の前が真っ赤になって。真っ赤になるのに、どこか冷静な部分が白く残って。 あぁ、殺したのね、と。 無感動に彼を見下ろして。 『誰か』が言った。 あぁ、殺してしまったね、と。 ついにお前は、彼までその手で血祭りに上げてしまったのだね、と。 「傍にいる」 「イザ……」 「貴様なんぞに、俺が殺されるか、馬鹿馬鹿しい」 「なっ……!」 「 」 イザークの言葉に、 は声をあげようと、して。 言葉を紡ごうと、するけれど。 それよりも早く、イザークの唇が彼女の名を、呼んで。 声は、似ていないのにね、と。思った。 声は、似ていないのに。その優しさは、似ていて。その温かさは、似ていて。 いとしいと、思う。 どこまでも、それは家族愛に似ていると、自分で思うけれど。 「 …… …… = 。ザフトのヴァルキュリア。我らの、ヴァルキュリア。俺のヴァルキュリア」 「……俺の、は余計だわ」 所有物ではないわ、と。 そう、彼女は口にする。 けれどもう殆ど、彼女はザフトの所有物ではないか。 ザフトの……プラントの……その名を冠する柵に捉えられた籠の鳥。 みな、口にするのだ。その名を、誇らしげに。呼んで、柵に縛り付けるのだ。 我らのヴァルキュリア。 我らの戦乙女。 ザフトのヴァルキュリア。 そう、みな呼ぶのだ。 「そうか」 「そうよ。私は、モノじゃないもの」 そう、少女は言って。 柵は、否定しないのだな、と。 そう、思う。 モノじゃない。そう言う彼女は。彼女を戒める数多の鎖さえも、愛するのだろうか。 それが価値だ、と。彼女は言うのだろうか。 堪らない気持ちに、なる。 それでも、言葉にすべきは唯一つ、だ。 「 = 。ザフトのヴァルキュリア。我らのヴァルキュリア。貴様は、俺を殺したりはしないさ」 「何故?」 何故、そう言い切れるの? 少女の漆黒の瞳が。蒼穹の瞳が。息も出来ないほどの静謐を秘めて、彼にそう語りかける。 けれどどうしてそう、言い切れるのだろう。 にだって、分からない。 何が起こるか、分からない。 何に絶望するか、分からない。 “ワルキューレ”の武装は、兄の意志を受けてか、強力なものが装備されている。 地球軍が製造した新型モビルスーツなど、その日ではない。唯一、地球軍の新型モビルスーツが優れていた点は、“フェイズシフト装甲”だった。 それだけは、兄である = の開発したモビルスーツに、備わってはいなかった。 その、強力な武装で。 ともすれば、味方を灼いてしまうことも、あるのではないか。 あの夢は、 にそんな疑念さえも抱かせていた。 強すぎる、力で。 強力すぎるその、力で。 味方さえも、灼いてしまうのではないか、と。 思わずには、いられない。震えずには、いられない。 「同胞だからな」 「同胞だから?」 「お前には、殺せないだろ」 こともなげに、イザークは言う。 そんなことは、有得ない、と。 それは何よりも雄弁に物事を語っているような気がして。何よりも雄弁に、彼の気持ちを語っているような気がして。 「だから、寝ろ」 「……夢、が」 「その夢は、正夢にならない夢だ。幻聴だ。貴様がそう信じれば、そんな夢は見ない。絶対に見ない。それでも見ると言うなら……」 夢が、怖いのです。 夢を見ることが、怖いのです。 この手が、貴方の血で赤く染まっている。 何て何てそれは、悪夢。 「その夢は、祓ってやる」 蒼氷の瞳が鮮烈に煌く。 赤い軍服に包まれた腕が、 の頬を撫でた。 お互いがお互いとも、軍服のままで。そのままでは寝苦しいから、軍服の詰襟を緩めたり、ベルトを外したりしながら眠りに就いた。 まるでそこから先が、互いに触れてはならない境界線であるかのように。 「……傍に、いてくれる?」 「あぁ」 「離れないで、離れないでずっと、傍に。傍に、いてくれる?ずっとずっと、生きていてくれる?私をおいて逝ったり、しない?」 「あぁ」 やがてポツリと呟かれた言葉に、イザークは頷いた。 離れない、と。傍にいると。 言葉にしない約束を、彼女の上に降らせるかのように。 何度も何度も、頷く。呟く。 縋って。 弱くて。 ごめんなさい、ごめんなさい。 それでも貴方の言葉が、私を救ってくれる。 ごめんなさい、弱くて。 ごめんなさい、傲慢で。 ごめんなさい。……貴方を、傷つけて。 瞳からは涙が零れそうになるけれど。泣けない。泣かない。泣いてはいけない。そんな権利も資格も、 は有していない。 それなのに甘やかしてくれる手が、嬉しくて。その温もりが、愛しくて。 それでも手を伸ばすことは躊躇われるから、その軍服の袖口を掴む。 苦笑いを一つして、イザークの手が同じように の軍服に触れて。その肩を一つ、叩いた。 眠れ、と。 その仕草がそう、語っていた。 悪い夢を見たなら、その夢は祓ってやるから、と。 そう言っているように、感じられたから。 だから、ん、と。頷いた。 小さく躯を丸めて、瞳を閉じる。 大丈夫だ、と。囁くその声を。囁くその言葉を。囁くその人を。信じたいと、思ったから――……。 少女は眠る 穏やかな穏やかな眠りが彼女を満たし その目覚めを促す 世界を 灼きつくすために――…… ** ずっとずっと、彼女は箱庭の中で眠っていた。 『時が来ていないから』 彼女の絶対者はそう言って、酷く哀しげに笑って見せた。 まだ、時が来ていないからね。だから君の出番は、まだなんだよ。まだまだ。もう少しだけ、待って。もう少し、もう少しだけ。 やがて君の出番はやってくるよ。必ず、やってくるから。 だからもう少しだけ、眠っていて。 囁く声に、彼女は頷く。 絶対者の言葉は、彼女にとって絶対で。その言葉に背くなんて、彼女自身、思いもよらないことだから。 眠っていればいいの?もう少し、もう少し。 もう少しだけ、眠っていればいいの? 彼女の声なき声を、彼女の絶対者は聞いたのだろうか。知覚したのだろうか。 嗚呼、きっと分かっているのだ。 だって彼は、彼女の絶対者だから。唯一絶対の人……だから。 そう、思って。 違う、と。彼女は首を振る。 違う。違う。違う。違う。 ち が う 。 『 ち … … が う 』 満たされた液体の中、こぽこぽとその液体を揺らして。波紋を作りながら、彼女は言う。 違う。違う。違う。違う。 それは、違う。 『ちが……う』 『違わないよ』 彼女の否定の言葉を、その人は心地よく断じた。 違うよ。違う。違うよ。 お前の絶対者は、自分をおいて他にないのだ、と。否定の言葉を募らせる彼女に、青年はそう言って笑って見せる。 違うわ。 ……違わないよ。 貴方だけが、私の『天』ではないでしょう? 違わないよ。君がそう信じているのだとしたら、それこそがおかしい。 違う。私の『天』は、貴方だけじゃ、ない。それは違う。おかしい。 『彼』は?『彼』はどこ?『彼』はどこにいるの?逢いたい、逢いたい、逢いたい、逢いたい。 『彼』が贈ってくれた、小さな花のリングは、どこ?どうして私、持っていないの?『彼』はどこ?『彼』は、どこにいるの? 彼女は問うけれど。彼女の絶対者は、薄い笑みを湛えたまま、何も言わず。ただ、彼女の唇から迸る問いを聞いていた。それは、嘆きにも似ていたのに。 『おやすみ。まだ、時は来ていないのだから』 ――嫌よ、待って!『彼』はどこ?『彼』はどこ?教えてよ、『彼』は、どこにいるの? 『時が来れば、出会えるよ。君の大切な彼は、君が目覚めるのを待っている。「彼」はプラントを愛しているから。君がプラントを守りたいと願っていることを知れば、「彼」はまた、君を愛してくれるよ。……だから、時をお待ち』 巡り巡る時を。 流転する狭間で、運命の輪を回しながら。 時を、待つ。 いつ、『彼』は来るの? 溶液に満たされた鳥籠の中、溢れる溶液をこぽこぽと揺らしながら、『彼女』が尋ねる。 いつ、彼は来るの?と。まるで祈るように、願うように。 早く早く、その時が巡ればいいのに。 瞳に歓喜とかなしみを乗せて、『彼女』が囁く。 早く早く、と。 逢いたい。逢いたい。逢いたい。 期待に、瞳が輝く。 それを見やって、彼は囁いた。 『逢えると、いいね。早く早く、逢えるといいね』 見返した『彼女』は、当たり前のように頷き。 期待に満ちた瞳を、閉じる。 眠っている間に、時が巡ればいい。 運命の輪を回して、『彼』がすぐ傍に、来ていたらいいのに――……。 満たされた安寧の箱庭の中。狂気の檻の中で『彼女』は静かに、瞳を閉じた――……。 花の咲き誇る庭園で、キラは目覚めた。 まるで天国のような……そんな、現実感を全く伴わないその景色をぼんやりと眺める。 すると頭上から、天使の妙なる調べのような、天上の歌声のような、そんな声が、かかって。 瞠目するキラの目の前で、少女がにこりと、微笑んだ。 まるで天使のような、温かい笑顔。 優しい、声。 「おはようございます、お目覚めですか?」 愛らしい容姿に、アスランにさえ向けたことがないであろう満面の笑みを、浮かべる。 あからさまに潜む媚態は、けれど彼女の清楚な雰囲気も相俟って、あくまでも清雅な印象を与える。 「ぼ……くは……」 「お分かりになります?」 <ハロ!ゲンキ!オマエ、ゲンキカ?> 「ラ……クス……さん」 「あらぁ。ラクスとお呼びくださいな、キラ。でも、覚えていてくださって、嬉しいですわ」 <マイド!マイド!> キラの答えに、ラクスは嬉しそうに笑みを深める。 ラクスのピンクのハロが跳ねて、キラのベッドに飛び乗った。 すい、と、気配を感じさせぬ様子で、男が歩み寄る。 閉じられた瞳は、彼が盲人であることを示していた。 「彼が目を覚ましたのですね?」 「はい、マルキオ様」 「驚かれたのではありませんか?このような場所で。ラクス様が、どうしてもベッドは此処へ置くのだと言って聞かなくて」 「だって、こちらの方が気持ちよいではありませんか。お部屋より。ねぇ?」 このような場所、といわれて、キラは辺りを見回す。 ガラス張りの小さな、温室のようだ。 陽光が降り注いで、確かに気持ちの良い環境かも、知れない。 けれど確かに、病人や怪我人のベッドを置く場所としては、相応しくない気がする。 ラクスに同意を求められても、だからキラは、何とも答えようがなかった。 「僕は……」 「貴方は傷つき倒れていたのです。私の祈りの庭で。そして私が此処へお連れしました」 「キラ?」 「ど……して……?ど……して」 キラの脳裏に、最も近しい記憶が蘇る。 殺し合いをした。 こ ろ し あ い を し た 。 親友と、殺しあった。 その、記憶が。 その記憶が、蘇って。 キラはベッドから弾かれたように起き上がると、震えだした。 「貴方はSEEDを持つ者。故に……」 「キラ!?」 震えるキラは、泣いていた。 アメジストの瞳から、大粒の涙が零れ落ち。 それはもはや零れ落ちるという次元ではなく、滂沱の如く流れる。 「僕は……アスランと、戦って……」 「……ぇ?」 「死んだ筈、なのに……」 「キラ……」 傷つくキラの背を、ラクスはそっと支える。 落ち着かせるように優しく、その手に触れて。 蒼灰色の瞳には、ただ悲しみがあった――……。 リクライニング式のベッドを起こして、ベッドサイドに設えられたテーブルで、ラクスは二人分の紅茶を淹れた。 虚空を眺めるキラが、自嘲気味に哂う。 そっとキラの分の紅茶をキラの前に置いて、ラクスはキラの話を促した。 「どうしようも、なかった……僕は、彼の仲間を……殺して」 アスランを庇うように向かってきた、漆黒の機体。 その機体の胴を薙ぎ払い。 そのコックピットを、刃で貫いた。 「アスランは、僕の友達を、殺した。だから……」 キラの言葉を聞いていたラクスが、自分の分の紅茶の入ったティーカップを傾け。 そして徐に、口を開く。 蒼灰色の瞳に、悲しみを乗せて。 「貴方はアスランを殺そうとしたのですね。そして、アスランも貴方を……」 よぎるのは、あの死闘だった。 あの時、互いの前にいるのは、親友ではなかった。 『敵』だった。 殺すべき……滅ぼすべき、『敵』。 友人ではなかった。そうは、思えなかった。 「でもそれは、仕方のないことではありませんか?戦争であれば」 ラクスの言葉に、キラは顔を上げた。 怜悧な目で、ラクスはキラを見下ろす。 そこには、優しさなんてなく。ただ事実を事実として突きつける、そんな酷薄さがあった。 怜悧冷徹な、目が。 そして、キラは思う。 何てことを話したのだろう。 彼女は、アスランの婚約者なのに。 けれどラクスに、アスランを喪ったかも知れない悲しみも悲哀も何も、なかった。 ただ彼女は穏やかに微笑み。穏やかに事実を突きつける。 「お二人とも、敵と戦われたのでしょう?……違いますか?」 「てき……」 ラクスの言葉を、キラは反芻する。 確かに、『敵』だった。 あの時、アスランは『敵』だった。 けれどそうしてラベリングすることに、どうしようもない恐ろしさを感じる。 アスランは、友人だった。親友だった。けれど戦争は、それさえも赦してくれない。 そのことに、キラは戸惑いを隠せなかった――……。 食事を載せたカートを押して、ラクスは屋敷から温室へと繋がる廊下を歩く。 どこかはしゃいだ様子でラクスを先導するハロは、ラクスの湧き立つ気持ちを分かっているのだろうか。 ぴょんぴょんと跳ねながら、温室へ足を踏み入れ。 しかしそこに、求める人影は、ない。 <ナンデヤネ〜ン!> 「あら?……あらあら?」 ラクスはくるくると踊るように辺りを見回す。 一体、どこに行ってしまったのだろう。 まだ、包帯は外せないというのに。 あくまでもおっとりとした動作で、ラクスはキラを探し始めた。 キラはそのころ、温室より階段を下りた小さな石畳の踊り場にいた。 プラントの贋物の海が、目の前には広がり。 地球を模したのだろうか。カモメが、飛んでいる。 遠くを眺めながら、キラは思案に沈んだ。 思い出されるのは、友人のこと。 トールのこと。 銃口を向ける地球軍の兵士からキラを庇ってくれた。 志願して、“スカイグラスパー”に搭乗した。 できることをするのだと、言って。 そしてキラを庇って。アスランに、撃たれた。 ぐっと、唇を噛み締める。 溢れてくるのは、悲しみで。この悲しみが癒される日は、決して来ないだろうと思う。 死んでしまった。死んでしまった、友人。 大切だったのに。こうして自分は生きていて、彼は死んでしまって。 虚空を見上げるキラに、背後から優しい声がかかった。 「何を見ていらっしゃいますの?」 問いかけて、少女はキラの隣にやってきた。 蒼灰色の瞳いっぱいに、悲しみの色と同情の色を浮かべて。 優しい優しい声で、彼女は囁く。 まるでキラを、哀れむかのように。 「キラの夢は、いつも哀しそうですわね……」 哀れみの眼差しを向けるラクスに、キラは応えなかった。 ただ、哀しい目で彼女を見つめ。 ゆっくりと、その瞳が逸らされる。 「哀しい……たくさん、人が死んで……僕も、たくさん……殺した」 ヘリオポリスで過ごしていた日々が、とても遠くのことのように感じられる。 あの頃は、戦争なんて知らなかった。そんなもの、どこか遠い世界で起こっていることだった。 けれど今、それは間近で。身近で。たくさんの人が、死んだ。たくさんの人を、守れずに。そしてたくさん、殺して。 感極まって、キラは泣き出した。 手摺に突っ伏すと、ラクスがキラの頬に向かって手を伸ばす。 「貴方は戦ったのですわ。それで守れたものも、たくさんあるのでしょう?」 キラの頭を撫でながら、にこりとラクスは笑った。 アスランさえ目にしたことはないだろう笑顔の大盤振る舞いを、して。 甘やかな甘やかな声が、キラの戦いを肯定する。 それに、キラは涙も忘れてラクスを見入った。 「でも……」 そんなキラの前で、ラクスは憂いに満ちた眼差しをする。 どこか遠くを見つめる瞳に、その静謐な美しさに、キラは問う言葉を忘れ。 ただ黙って、相手を見つめることしか、出来ない。 やがてラクスは、ぱちん、と手を合わせた。 先ほどまでの静謐な雰囲気は鳴りを潜め、天真爛漫と笑う。 「今はお食事にしましょ?温めなおしてまいりますわね。それに、貴方はまだ、おやすみになっていなくては」 キラの腕を取り、ラクスは温室に設えたキラの病室に向かって歩み。 そして、囁いた。 「大丈夫です。此処はまだ、平和です……」 その言葉に、キラとて返す言葉はなく。 ただ黙って、ラクスのされるがままに任せているけれど。ラクスは嬉しそうにかいがいしく世話をするから。 時が移ろい、暮色があたりを支配する。 鮮やかな色に染まった贋物の海を眺めていると、キラを席に導いた後に食事を温めにいったラクスが、戻ってきた。 食事のトレイを差し出し、キラの隣に立つラクスは、微笑み。 ただただ優しく、囁く。 「ずっとこのまま、こうしていられたら良いですわね……」 ラクスの言葉に、キラははっきりと言葉を返しはしなかったけれど。 思うことは、同じだった。 こうしていられたら、いい。 こうして、戦わず奪わず。当たり前のように生活できたら、どれだけいいだろう。 そう、思って。 意図せず二人揃って、贋物の海を眺めた――……。 スピットブレイク発動目前、キラの傷はすっかり癒えた。 けれどそれでも、何をするでもなく彼は、ラクスの屋敷から海を眺めていた。 このまま全て、忘れることが出来たら、いいのに。戦争の子とも。友人が死んだことも。親友と殺し合いをしたことも。全部全部、初めから夢の中の出来事であったなら、良かったのに。 ぼんやりと海を眺めるキラに、声がかけられる。 すっかり耳になじんだ柔らかい声は、ラクスのものだ。 「まもなく雨の時間です。中でお茶にしませんか?」 にっこりと微笑むラクスにキラは頷き。 ゆっくりと、立ち上がる。 導かれるままに、ラクスの屋敷のうちへと足を進めた――……。 天候も全てプログラムされたプラントで、天気予報は決して外れはしない。 案の定、ラクスがキラを邸内に招じ入れて後、大粒の雨が降り始めた。 邸内といっても、すっかりキラの病室と化した、温室だけれど。 静かに雨を眺めるキラに、ラクスが声をかける。 「キラは雨がお好きですか?」 <ナンデヤネン!> 「不思議だなって、思って。何で僕は、此処にいるんだろうって、思って」 「キラは何処にいたいのですか?」 キラが腰掛ける椅子の、その足元の床に跪いたラクスが、媚を滲ませて尋ねる。 問いは、至極単純なもので。 そうであるが故に答えを躊躇うような、そんなものだった。 何処に、いたいのだろう。 何処を、目指しているのだろう。 何処へ、行けるのだろう。 明確な答えなど出しようもない、問いだ。 案の定、キラは分からないとしか、答えることが出来ない。 「分からない……」 「此処はお嫌いですか?」 「此処にいて……いいのかな……」 「わたくしは勿論!と、お答えしますけど」 キラの言葉に、ラクスはそう言って笑う。 そこで、今まで口を閉ざしていたマルキオが、口を開いた。 小さな伝道所で、孤児たちを育ててひっそりと暮らす、盲目の伝道師は、ティーカップに満たされた紅茶を啜ると、徐に唇を開いた。 「自分の向かうべき場所、せねばならぬことは、やがて自ずと知れましょう。あなた方はSEEDを持つ者。故に……」 「ですって?」 キラの瞳を見返して、ラクスが悪戯っぽく囁く。 温室の扉がスライドして、壮年の男が現れた。 ラクスの父親である、シーゲル=クラインだ。 穏やかな男は、入室するとまず、地球行きのシャトルの状況について、マルキオに説明を始めた。 彼は、地球に帰らねばならないのだが、そのためのシャトルがなかなか、発進できないのだ。 ザフトが威信をかけて推し進める、オペレーション・スピットブレイクの影響だ。 「やはり駄目ですな。導師のシャトルでも、地球に行くものは全て、発進許可は出せないとのことで」 シーゲルの言葉を遮るように、クライン邸の執事が温室に向かって内線を繋いだ。 硬い声が、外部からの通信の有無を告げる。 <シーゲル様へ、アイリーン=カナーバ様より通信です> 「クラインだ」 <シーゲル=クライン!我々は、ザラに欺かれた!> 画面に画像が結ばれる。 まだ若い女性が、固い口調で話しかける。 その声は、いっそ憤りに凝っていた。 その激情の意味が分からず、先を促す。 「カナーバ」 <発動されたスピットブレイクの目標はパナマではない!アラスカだ!> 「何だと!?」 『アラスカ』 その言葉に、キラは手にしていたティーカップを取り落とした。 キラの震えを、ラクスだけが見ていた。 大人たちは更に、現在の状況について話を続ける。 <彼は一息に地球軍本部を壊滅させる気なのだ!評議会は、そんなことは承認していない!> けれど大人たちの言葉も、今のキラの耳には入らなかった。 ティーカップを取り落とし、震える。 落下したティーカップが……ティーソーサーが割れてしまったけれどそれさえも、キラは感知できなかった。 ミリアリアが、サイが、カズイが。 ナタルが、マードックが、フラガが、マリューが、フレイの姿が、よぎる。 彼らは今、何処にいる?どこを目指していた? ……アラスカだ。 ぐっとキラは、服の胸の辺りを押さえた。 息が出来なくて、苦しい。 嫌だ。また、戦うなんて。 また、殺しあうなんて、嫌だ。 嫌だけれど。 大切な人たちは、あそこにいる。 呼吸さえも止まるほどの葛藤に苛まれるキラを、ラクスは支えた。 憂いの眼差しを、浮かべながら――……。 起床予定時刻の一時間前に、 は目覚めた。 あの夢は、見なかった。 それに少し、安心する。 イザークを見ると、彼は眠っていた。 陶器で出来たお人形のような寝顔を眺めて。けれど彼は生きていると分かるから、詰めた息をゆっくりと吐く。 ゆっくりと、彼を起こさないよう起き上がって。 眠りを妨げたくないから、メッセージボードにメッセージを打ち込んで、部屋に帰ることにした。 誰かに見られたら、恥ずかしい。 そう言うことをしたわけでは、勿論ないけれど。男性の部屋から出て行く姿を見られるのは、気恥ずかしくて堪らないから。 人通りが少ない時間を見計らって、外に出るのが得策だと思う。 手動にして、音を立てないよう設定したドアを、ゆっくりとスライドさせる。 きょろきょろと辺りを見回すと、誰もいないことを確認して、冷たく冷えた廊下にブーツで包まれた足を置いた。 部屋へ至る短い距離を歩む。 誰かと鉢合わせるなんて、思っても見なかったけれど。 予期せぬ邂逅とでも言うべきか、 の向かいから人影が歩んでくる。 にとって上官に当たる、ラウ=ル=クルーゼの姿を認めて、 は廊下の端に寄った。 そして、敬礼する。 「おはようございます、隊長」 「あぁ、おはよう、 」 仮面で隠れて、その瞳の色は分からない。 ちらりと に視線を走らせた彼のその唇が、しかし にも分かる笑みの形に、歪んだ。 幾ら最低限の身嗜みを整えて出たとは言え、軍服を着用したまま眠ったのだ。当然、軍服には皺が寄っている。 軍人である以上、咎められても仕方のない失態だ。 しかし、咎めるようなそんな言葉は、クルーゼの唇からは零れず。 酷く楽しそうに、彼は哂った。 「何でしょう、隊長……」 含み笑いに何かの意図を感じて、少女は硬い声で問う。 しかし彼女の上官である男は、それには答えず。 ただ、哂うだけだ。 けれどすれ違いざまに、男は囁いた。 「まだ君は、綺麗なままでいるつもりかね?」 「……え?」 「まだ君は、綺麗な自分を信じているのかね」 「私はっ!」 信じてなんか、いない。 自分の穢れは、分かっている。 たくさん殺して、たくさん壊して奪って。 汚れた手から漂う腐臭は、認識している。 けれど上官は、またも答えず。 含み笑いだけを残して、廊下を歩み去る。 口元に刻まれた笑みに、愉悦の欠片を刷いて――……。 『鋼のヴァルキュリア』をお届けいたします。 またもや長くなりました。 最近、一話一話が長くて申し訳ありません。 いや、やっぱり夢は、多少お相手との絡みもしくは、キャラクターとの絡みがあって何ぼだろう、と。 思うようになったため。 鰻上りに長くなってます。 ちょっとラクスへの点数が辛くてごめんなさい。 でもやっぱり、ラクスのキラとアスランへの態度の差は、見ていてちょっと不快で。私がキラよりアスランが好きだからかもしれないけれど。 ラクスはキラの前では普通の女の子でいられるのねvvみたいな、肯定的な考えはもてませんでした。 どうせ女帝になるんだったら、孤高の女王でいてほしい。 って、思ったりしたものです……。 何はともあれ。 此処までお読み戴き、有難うございました。 |