時は、巡った。

何のラグもなく、時は巡って。

だから青年は、嬉しそうにその口角を吊り上げる。

笑みの形に歪められた唇は、けれど微笑と呼ぶには程遠く。

『彼』の執着を示して、どこまでも続く底なし奈落のよう。


……早く早く、還っておいで』


随分と長い間、留守をしていたものだ。

そんなこと、赦した覚えはないのに。

早く早く、還っておいで。

うっとりと、男は哂った――……。










#30 遁走曲-]A-










「信じてなんか、いない」


 コックピットにその身を滑り込ませて、は自分自身の躯を、抱く。
 まるで何かから、守るかのように。
 彼女の防衛本能は、強いから。
 何かに怯えて、自身を抱く行為は、けれどとても哀しい。

 信頼していないわけじゃ、ない。
 仲間を、イザークを。信頼していないわけでは、決してない。信頼していないわけではないけれど、縋りつくことには戸惑いを覚え、躊躇いを覚える。あれだけ、彼に縋って傷つけたくせに、と。自嘲しながら思うけれど。


「綺麗じゃ、ない。この手に染み付いた血を、忘れていないわけじゃ、ない」


 でも、仕方ないじゃない。
 悲観するわけじゃない。嘆くわけじゃない。
 でも、仕方ないじゃない。
 評議会を統べるコーディネイター第一世代は、ナチュラル殺しに忌避を感じずには、いられない。それは明確な『親殺し』だから。ナチュラルに、『子殺し』の禁忌がないにしても。
 第一世代のコーディネイターに、忌避を感じる『親殺し』を行わせるわけには、いかない。それは、二世代目の役目だ。
 そのことに禁忌を感じない。罪の意識を負わない、二世代目の役目だ。


「守れ、なかった……」


 軍人になり、『ヴァルキュリア』と呼ばれ。それでも、守れなかった。
 守れたものも、確かにあったのかもしれないけれど。それでも、守れなかったものの、なんと多いことだろう。

 兄を、喪った。
 もう一人の兄をも、喪って。
 戦友といっても差し支えのない、仲のよい年上の同僚。
 同じ年の……弟のようでも兄のようでもあった少年。
 全て全て、の手の中からすり抜けていった者たちだ。

 守れる力を。それだけの力を、この手は確かに持っている筈なのに。どうしてどうして。大切なものを、何一つ守れないのだろう。
 あの時見た悪夢は、この現実を確かに指し示していたのだろうか。
 お前には、大切なものは何一つ、守れやしないのだ、と。


「違う……違う……」


 頭を、抱えて。
 は、首を横に振る。
 守るもの。守れるもの。確かに確かに、守ってみせるもの。
 大切なものを。大切な人を。この手に抱えられるものは決して、多くはないけれど。
 それでも、抱えられるだけのものをかき集めて。縋るようにかき集めて、守れるもの。守ってみせるもの。
 それが出来なくて、何が『ヴァルキュリア』か。


「守る……守るよ……守れるもの。そうでしょう?そうでしょう、?」


 自分自身に、問いかける。
 大丈夫、大丈夫。
 そう、自分自身に語りかける。

 貴女は、『ヴァルキュリア』。
 戦う力も、戦う覚悟も持っているでしょう、
 問いかけに、『』は頷く。
 是、と。頷く。

 戦う力は、持っている。漆黒と鋼色のボディーの美しい、“ワルキューレ”。
 戦う覚悟は、ある。とうに決めている。
 躊躇いは、愛した兄がそれを決して望まないだろう、と。それだけを知っているからだ。ナチュラルを信じ、けれどプラントを愛していた最愛の兄。穏健で中立的な人柄であった兄は、決しての覚悟を容認しないに違いない。
 間違っているとは、言わないだろう。兄は、他者を否定するような人ではなかったから。
 けれど、正しいことをしている、と。褒めることもしないだろう。あの人は、妹を戦場に出すことを、欠片も望んでいなかった。

 でも私は、兄さんとは……兄様とは、違うのよ。と。は思う。
 奪われたら、憎い。殺してやりたいほど、贖わせてやりたいほどの憎悪を、感じる。
 同じだけの憎悪を、敵対する者たちの上に撒き散らしていると自覚した上で、自身の喪失に贖いを求めずにはいられない。
 だってだって。大切な人なのよ。――大切な人だったのよ。

 大好きだった。大切だった。もう一人の兄。ミゲル=アイマン。
 おちゃらけた態度で、でも周りをシビアな目で見て。それでも周囲との協調を図らんとしていた、年上の同僚。――ラスティ=マッケンジー。
 優しい子だった。本当に、優しくて、穏やかな子だった。その穏やかさは、どこか兄に似ていたような気さえする。その優しくて穏やかな子が、守るために自らを盾にしたの。大切な同じ年の友人、ニコル=アマルフィ。

 守りたかった。守りたかったわ。本当に、守りたかった。
 大切だった。大切だったの。本当に、大切だった。
 喪うことが怖くて。縋るように抱きしめて。それでも足りずに掌を腕を広げたけれど。その手の中からサラサラと砂粒が滑り落ちるように、愛した命は滑り落ちていった。


「守りなさい、『』」


 彼を。彼を。彼を。
 彼を、守りなさい。

 大丈夫。ディアッカはきっと、生きている。
 生きて、還って来るに決まっているの。今は遠くにいるけれどきっと。きっと、還って来るから。帰ってこれるから。
 でも、イザークは、違う。イザークの立つ場所は、前線だ。と同じ場所だ。
 その前線で。今まで、守りたいと願った人たちは全て。全て、喪ってしまった。
 死と隣り合わせの、極限の世界。生きるために、他者を殺す、それが前線。分かっている。自分を、哀れんだりは、しない。
 だって、が選んだのだ。

 の娘を。の後継者を。ただ一人残されたの娘を、危険な目に遭わせるわけにはいかぬ、と。そう言って、軍本部が提示した場所は、後方だった。プラントの、守備隊。
 決して公正とは言い難い、けれど軍隊とはそう言うものだ。どこの世界に、大富豪の御曹司を前線に配備する軍が存在すると言うのか。
 の後方への配備も、それと同じこと。評議会議員を勤めたリヒト=の娘。評議会入りを求められた=の妹。だから、後方へ配備されていた筈なのに。それを蹴って前線を希望したのは、だ。
 転属願いを出して、出し続けて。許可が下りるまで粘りに粘り、人事局を困惑させたのは、それはだ。
 自分で、決めた。
 それで自分を哀れむ、何て。そんなことは、しない。

 選択する、と言うこと。選ぶ、と言うこと。それが許される人間は、滅多にいないのだ。大抵の人間は、力なく嘆くしか出来ない。ユニウス・セブンに核が投下されたとき。全てを知ったコーディネイターは嘆いたけれど。その後に軍に入ると言う道を『選択』出来たものが、果たしてどれだけいただろう。
 流されて。自らの意志でもないのに入隊せざるを得なかったものも、いるだろう。希望していたものとは違う配属を余儀なくされたものも、いるだろう。
 それを思えば。自ら『選べた』だけ、はまだ恵まれている。それなのに。自分を哀れむなんて、そんなこと。
 そんなことは絶対に、しない。

 哀れみたいわけじゃ、ない。
 可哀想ね。可哀想ね、=。前線に立って戦って、血塗れで。可哀想ね、=。そんな言葉、要らない。
 哀れまれたいわけじゃ、ない。
 哀れみたいわけじゃ、ない。
 血塗れの手でも、守れた、と。そう誇れればいいけれど。いつもいつも、の大切なものは、その掌から滑り落ちてしまうから。
 懸命に懸命にかき抱いても、滑り落ちてしまうから。
 だから、嘆く。
 喪われた命を、哀惜する。

 哀れみはいらない。
 慰めも要らない。
 ただ、生きていて欲しい。大切な人に。大切な人たちに、生きていて欲しい。傍にいて欲しい。笑って欲しい。
 それだけが、どうしても。焦がれるほどに、欲しくて。


「守れる……?今度こそ、守れる?大切な人を、守れる?」


 自問して。
 そして、頷く。


「いいえ。守るのよ、


 そう、呟く。
 守れるのか、ではない。
 守るのだ。彼は、彼だけは守るのだ。
 他の何も、は守れなかった。守れずに目の前で……目の前でむざむざと散らせてしまった命の、何と多いことだろう。
 その、命の分も。守れなかった、数多の命の分も。守らなくては。守らなくては、今度こそ。今度こそ、守りきれるだけの力が、欲しい。




目覚めなさい。愛しい『ヴァルキュリア』
我らの敵を滅ぼすために。
お前はその為に生まれたのだから。
だから。
目 覚 め ろ 。
そして全てを。
全ての敵を。
滅 ぼ せ 。



「ぁ……何……?」


 がんがんと、何かが鳴り響く。それは、警鐘にも似ていて。
 早鐘を打つように何度も。何度も頭の中で鳴り響く。
 頭が、痛い。


「守れ……守れ……守れ……大丈夫。大丈夫よ、。貴女には力がある。ちゃんと、兄様が力を遺してくださった。だから、大丈夫。大丈夫だから、。守る……守るよ」


 ミゲルは、守れなかった。
 ラスティは、守れなかった。
 は、守れなかった。
 ニコルも、守れなかった。

 守れなかった、数多の命。
 守れなかった、大切な人たち。愛していたのに。心の底から、愛していたのに。大切だったのに。
 無力なは、結局何一つ、守れなかったのだ。

 そのことが、何よりも悔しく哀しい。
 守りたかった。守りたかったわ。守りたかったの。
 大切だった。大切だったの。大切だったわ。
 本当に本当に大切で。本当に本当に愛しかったから。傍にいてと願って、祈って。
 それでもは、守れなかった。
 大切なものを、何一つ守れなくて。そして今もまた、大切に思う人は前線にいる。
 だから、その人は守りたい。
 その人だけでも、守り通したい。守り通させて欲しい。
 切に切に。切実には、そう思う。
 守れたら、いい。守り通せたら、いい。喪われた命の分も、彼の命を愛しみたい。

 小さく小さく呟かれた言葉の、その意味を。その感情がなせる業を、その名前を。彼女こそがまだ、知らなかった。

 彼女に課せられた、『運命』と言う名の、業とともに――……。



**




 ザフトが威信をかけて実行に当たる作戦。作戦名『オペレーション・スピットブレイク』が、まもなく発動される。
 その発動を前に、プラント最高評議会議長、パトリック=ザラのもとへ、通信が入った。
 通信の相手は、決まっている。この作戦の要とも言うべき……そして愛すべき娘が所属する隊の隊長。――ラウ=ル=クルーゼだ。
 滑らかな口調が、よどみなく話すべきこと、唯その一つを口にする。

 それが、この作戦の要とも言うべきクルーゼ隊に所属する、愛すべき娘の命を、ともすれば脅かすものであることは、分かっているけれど。彼女を本国へ召還するべくいかほどの理由さえも、彼には捻り出すことができず。また、あの娘も同様に、本国へ召還されることを望みはしないだろう。


「『ヴァルキュリア』はお優しい」


 とは、彼女に命を救われた将兵たちの弁だった。
 『ヴァルキュリア』は、仲間には酷く甘く。最前線に特攻しては、何がしかの戦績を上げて帰還する。
 おそらくそれが、彼女なりの愛し方であることを、命を救われたザフト兵たちは知っていた。
 そしてそうである以上、あの娘が本国に――守られる場所に戻ることに納得するとも、思えなかった。

 スクリーンに映し出された男の口調も表情も、どこにも揺らぎなどなく。
 酷く、滑らかで。
 けれどそれをいぶかしむようなことは、パトリックはしない。


<スピットブレイク、全軍の配置、完了しました。後はご命令戴くのみです>


 男の報告を、パトリックは無表情に聞き流す。
 彼の後ろに立つ――彼がそれを許した男だけが、その唇をふっと歪めた。
 まるで、流される血に、その流血に、狂喜しているかのように。
 『彼』が、笑う。

 嬉しそうに笑う青年に、自分がこれから為そうとしていること、その業も全て赦されるような、免罪されるような錯覚さえ、覚えて。……今更、誰に赦しを請うつもりも、ないけれど。
 何故なら、パトリックは決めたのだ。
 ナチュラル全ての流血で、あの青い惑星を赤い海で覆おうとも。
 彼は、決めた。
 そう。奴らに、奴ら自身の業を思い知らせてやるのだ、と。
 あいつらは、それだけのことをしたのだ。
 彼の妻を殺し、友人を殺め、友人の妻さえも殺めた。
 その、罪を。贖わせんと願うのは、人が人である以上当然のことではないか。

 愛していた。
 愛していたのだ。
 妻を。友を。大切だったのだ。
 それを無残に打ち砕いたのは、誰だ。話し合いの席に着こうともせず、一方的に虐殺したのは、果たしてどちらであったのか。

 友人のときは、抑えた。
 リヒト=が、ルチア=が殺められたときは、パトリックはまだしも、その激情の矛先を抑えた。
 友人が、望むわけがないと思ったから。どれだけ赦せないと願っても、贖わせようと願っても、あの穏やかな友人がそれを望む筈がなく。むしろ、むざむざと己が火種となってしまったことを悔やむだろう。
 そう、思い。そして愛する妻もまた、諌めたから。悔しかっただろう、恨んだだろう。レノアとルチアは、友人だった。その友人が殺められ、悔しく辛い思いをしたのは、レノアも同じ。けれどレノアは、息子と同じ翡翠の瞳に涙を浮かべながらも、諌めたから。

 それを、あの二人が望むわけはない、と。憎いのは、私も同じ。復讐を願うのは、私も同じ。でも今は、矛を下ろしましょう。あの二人がそれを望むわけはなく、むしろ火種となった自身を呪うでしょうから。だから今は、矛を下ろしましょう。友人であった二人を思って、下ろしましょう。
 レノアは、そう言った。
 そうして、一度は握り締めた矛を下ろした。激情の剣を下ろして、守るための盾に持ち替えた。
 けれどそう言ったレノアさえも、もういない。
 死んでしまった!
 殺された!
 ナチュラルどもに!核攻撃などと言う、非人道的なやり方で!あのプラントは、非武装の――農業プラントであり、プラントの独立の象徴であった。
 それは、コーディネイターの誇りをも打ち砕くと、同じであったと言うのに!


「……嬉しそうだな」


 入室を許された男に、そう話しかける。主語を省いてはいるけれど、それが誰に向けられたものであるかくらい、気づくだろう。この部屋に、パトリックを除いて一人しか、姿はないのだから。気づかぬほど、愚かでもあるまい。
 青年は、パトリックの言葉に一瞬きょとんとして。
 それから、うっすらと笑った。


「えぇ……とても、嬉しいですよ……」
「そうか……」


 本当に本当に嬉しそうに、青年は笑うから。
 頷くでもなく、笑みを返すでもなく。ただ相槌を打つように、パトリックは返した。
 それに、青年は頷く。


「えぇ。久しぶりにあの子が、還ってきますから……とてもとても」


 嬉しいですよ……。
 そう、囁いて。
 『彼』は、笑った。



**




 ザフトによって、まさにオペレーション・スピットブレイクが発動されんとする、まさにその時。
 転属する将兵を抱えた“アークエンジェル”では、一つの騒動が起こっていた。
 燃えるような赤毛の少女が、硬質な美貌の女性士官に腕を引かれている。
 転属を言い渡されたフレイ=アルスターと、ナタル=バジルールだ。


「嫌よ!嫌です、私!離して!……艦長!何で私だけ!?」
「フレイ……」
「いい加減にしろ。これは本部からの命令だ。君は、従わねばならない」


 一人だけ。他の友人たちから引き離されて転属を言い渡されたフレイに、サイが声をかけるけれど。けれどだからといって何が出来るわけでもなく。
 むしろナタルが、厳しい言葉をフレイに投げかける。
 当たり前のこと、だから。軍人である以上、上からの命令に従うのは、当然のこと。

 けれどフレイは、腕を引くナタルの手を、振り払った。
 納得できなかった。だから、とにかく甘いマリューにどうにかならないかと訴えるけれど。
 けれどマリューに、どうにかできるわけがない。
 “アークエンジェル”という艦にあってこそ、マリューは最上位者であり。ナタルさえも、その命令には屈せざるを得ない。けれどフレイの転属は、マリューの遥か上位に位置するものによって決定されたのだ。その命令に背くことなど、出来るはずもない。何とかしてやりたいと願っても、それは無理な相談だ。……軍人とは、そんなものだ。


「そう言うことに、なってしまうわね。軍本部からの命令では、私には、どうすることも出来ないの……ごめんなさい。異議があるのなら、一応人事局に申し立てをしてみることは、出来ると思うけど……」
「取り合うわけありません」


 マリューの甘い見通しを、ナタルは一蹴した。
 そんなことが、本当に可能だと思っているのだろうか。
 軍本部がどのような意図で持ってフレイを転属としたのか、その真意が分かるならば。そんな愚にもつかない甘い見通しを提示してどうする。そんなこと、叶うわけもないのに。

 マリューはすまなそうに、溜息をつく。
 それを見やり、ブリーフケースを下ろすと、ナタルはマリューに向かい敬礼をした。
 彼女の性質そのままに、まるで教本に提示される見本のように隙のない、端正な敬礼を。


「では、艦長」
「今まで有難う、バジルール中尉」
「いえ……」
「また、どこかで会えるといいわね……戦場でない、どこかで」
「終戦ともなれば、それも可能でしょう」
「そうね」


 ナタルは一蹴するか、一顧だにしないかと思ったけれど。
 マリューの言葉に、どこか柔らかい表情でそう、答えた。
 この艦で結ばれた絆に、彼女自身、何か思うところがあるのだろうか。マリューは、そう思う。確かに何度も衝突したけれど、ナタルがいなければこの艦は、とうの昔に沈められていただろう。
 こうしてこの間が、無事アラスカに辿り着けたのも、彼女の的確な状況判断があったればこそ、だ。

 それに、と。マリューはちらりと考える。
 自分は、卑怯だったのかも、知れない。汚い決定は全て、ナタルに任せっぱなしだった。泥を被るのは、常にナタルの方だった。
 それを思うと、今更ながらに申し訳ない気持ちになる。
 最もナタルは、マリューのその葛藤さえも一笑するだろう。自分は、軍人として正しいと思うことをやったのだ、と。
 そんなこと容易く想像できるから、マリューもそれ以上は何も言わなかった。
 ただ、フレイのことを頼む。


「彼女お願いね?」
「はっ。……さ」


 マリューの言葉に頷くと、ナタルは再びフレイの腕を掴んで歩く。
 フレイが哀れっぽい声をあげたけれど。誰にも、どうすることも出来なかった。


「……っサイ!」
「フレイ……」


 愛する少女のその様子に、サイも身を乗り出すけれど。
 何も、できるわけがなかった。
 諦めたように立ち尽くす少年を見やって、フラガは斜に構えたような笑みを浮かべる。
 どうすることも出来ないのは、彼にもよく分かっていたから。


「俺も、言うだけ言ってみるかな。人事局にさ」
「取り合うわけないそうよ」
「しかし、何もこんなときに、カリフォルニアで教官やれはないでしょ」
「……貴方が教えれば、前線でのルーキーの損害率も下がるわ」


 フラガの言葉に、マリューは悲しみを噛み殺して笑みを浮かべた。
 別離が寂しく。別れ難いのは、お互い同じだった。
 その悲しみを、口に出すことも許されない。軍人にとって、上官からの命令は、絶対のものだ。

 湿っぽくなった空気を払拭するように、努めて明るく、マリューは声をかけた。


「さぁ、遅れますわよ」
「あぁ、もうっ!クソッ!」


 それは、自分が相対する男も同じだ、と。そう自惚れても、いいのだろうか。
 適当に被った軍帽を手に取り、鬱陶しそうにその金髪をかき回す男に、マリューはそう思う。


「今まで、有難うございました」
「俺のほうこそ……な」


 悲しみを堪えて笑みを見せるマリューに、フラガも神妙な面持ちで頷き。
 敬礼をすると、踵を返した。
 置き去りにされた少年たちもまた、敬礼をしてくるのに対し、こちらは軽く肩を叩く。
 そして彼は、長い時間を過ごした“アークエンジェル”から、下艦したのだった――……。



**




 JOSH-Aでは、ひっそりとある計画が進められていた。
 各所に設置された円形の構造物は、『サイクロプス』と呼ばれるものだ。


<状況は?>
「順調です」


 繋がった通信に、男は上機嫌に答えた。
 この作戦が成功すれば、これからの戦局を有利に運ぶことが出来るだろう。今現在のこの混迷した戦局は、誤りなのだ。物量に優れた地球連合が圧勝するのは、当然のことなのだから。その誤りは、正さなくては。


「全ては予定通りに始まり、予定通りに終わるでしょう」


 ウィリアム=サザーランドがそう通信しているまさにその時、“アークエンジェル”はその艦橋に、伝令の兵士を迎えていた。


「暫定の措置ではあるが、第八艦隊所属艦“アークエンジェル”は、本日付でアラスカ守備軍第五護衛隊付きへ所属を移行するものとする。発令、ウィリアム=サザーランド大佐」
「はっ!」


 命令を受けるマリュー以下、トノムラ、ノイマンはそれに敬礼で持って答える。
 しかし、トノムラ・ノイマンらより一階級階級が低いチャンドラ、パルは、小声でその命令に対し不審を口にした。


「アラスカ守備軍?」
「“アークエンジェル”は宇宙艦だぜ」


 彼らの不審は、もっともなことだ。
 “アークエンジェル”は宇宙艦であり、その間の性能を最も有効に活用できる場もまた、宇宙なのだ。地球の重力に縛られた守備軍では、その性能を存分に発揮するとは言いがたい。
 適材適所というならば、“アークエンジェル”は宇宙に配備されるべきなのだ。宇宙艦なのだから。

 しかし、彼らの発言は小声であったため、伝令役の兵士には届かなかった。否、例え届いたとしても、彼らにはどうすることもできないだろう。その命令を発令したのは、彼らの上位者なのだから。


「それを受け1400から、貴艦への補給作業が行われる。以上だ」
「あ……あの!」


 言いたいことだけを言って踵を返す兵に、マリューは思わず声をかけた。
 とても、納得できるものでは、なかったから。


「何だ。不服か?」
「そうではありません。ですが、こちらには休暇・除隊を申請しているものもおりますし、捕虜の扱いの件もまだ……!」
「こっちはもう、パナマがカウント・ダウンのようで大変なんだよ。大佐には伝えておく」


 ばっさりとマリューの発言をバッサリと切って捨てると、今度こそ彼らは迷わず艦橋から姿を消した。
 その後姿を、マリューは呆然と眺めることしか、出来なかった――……。



**




 ・イザークといったクルーゼ隊の仲間たちと別れたアスランの搭乗するシャトルが、緩やかに本国へむけて出発する。
 まさにその時、ザフトによるオペレーション・スピットブレイクが発動されんとしていた。
 夥しい数の戦艦が宇宙を埋め尽くし、慌しくシャトルが行き交う。
 それが、これから行われんとする作戦が、ザフトにとっていかに重要であるかを物語っていた。


<作戦開始は定刻の予定。各員は迅速に作業を終了せよ>
「降下揚陸隊、配置完了。作戦域、オール・グリーン。レーザー通信回線、最終チェック」


 各々の役割に付いたオペレーターが、機械的に作戦の進行を報告する。
 その報告を受ける立場にあるパトリックに、迷いはなかった。
 全ての駒は、動き出した。
 賽は、とうの昔に投げられていたのだから。今更、躊躇する必要がどこにあると言うのか。その胸に宿った焔を、その激情の刃を。振り下ろすことを厭った存在はもはや、どこにも存在しないのだ。この世の、どこにも。

 宇宙では、降下揚陸用のカプセルに次々とモビルスーツが収められた。
 同じように、地上でも作業は進行する。
 ザフト軍が地球に構えた基地、ジブラルタルやカーペンタリアからは次々と、輸送用のシャトルが飛び立ち、モビルスーツが飛び立ち、潜水母艦が目的の場所へ向かっている。
 誇らしげに、基地の防衛に当たる兵はそれを見送り。前線に立つこと叶わぬ、後方支援の兵たちは手を振る。
 その作戦が、コーディネイターにとってどのような意味を持つのか。それは、良く理解しているのだから。


「0300現在、気象部報告」
「第二十保管区は、晴れ。北北西の風、4.2メートル。気温、18.7度」


 報告を受け、パトリックは立ち上がった。
 作戦の、開始時間だ。


「この作戦により、戦争が早期終結に向かわんことを切に願う。真の自由と、正義が示されんことを。オペレーション・スピットブレイク、開始せよ!」


 力強いその言葉に、ザフト兵たちは熱狂した。
 誰もが皆、その胸に癒えぬ傷を抱えていた。
 血のバレンタインで恋人を、家族を。大切な人を喪ったもの。
 長きに渡る戦争で、愛する誰かを喪ったもの。
 誰もが、深い傷を抱えていた。だからこそ、彼らはパトリックの示すその作戦を指示したのだ。
 それが戦争を終結に導くものであり、大切な誰かを奪ったものたちに振り下ろす、格好の刃であったから。それがどれほど愚かしいことか、そんなこと、誰だって分かっている。
 それでも、撃たれたその傷は決して。決して、癒えないのだ。
 だからこそ、彼らはその手に銃を取った。
 それだけの、こと。

 パトリックの開戦の言葉に、オペレーターが答える。彼らは即座に、作戦の開始を伝達した。


「スピットブレイク発動。目標、アラスカ。地球軍本部」
<第六号作戦、開封承認。コールサイン、“オペレーション・スピットブレイク”。目標、アラスカ《JOSH-A》>
「JOSH-Aだと?」
「地球軍本部?」


 発動された作戦に、その心の目標を聞かされていなかったものたちは、一瞬瞠目した。
 まさか、そんな。
 そんな作戦とは、思っても見なかったのだ。
 ただ、地球軍を地球に封じ込める。そんな作戦であると、思っていた。そんな、消極的な作戦であると。
 しかし明かされた作戦は、そんなものではなかった。
 それは、一気に地球軍本部を壊滅させる、と言う。まさにそんな趣旨の作戦であったから。


「スピットブレイク、発動されました。目標は、アラスカ。JOSH-Aです」
「何!?」


 各所で、直前で変えられた作戦への戸惑いの声が上がった。
 当然、その作戦については、クルーゼ隊に所属するイザークたちの耳にも、届き。
 イザークはそれを、スピットブレイクにむけて最終チェックを行う愛機“デュエル”のコックピット内で聞いた。


「JOSH-Aだと!?」
「地球軍本部!?」
「パナマじゃなかったのかよ!?」


 彼らが乗艦する潜水空母でも、そんな声が各所で響いた。
 クルーたちの疑問を思い浮かべて、クルーゼは笑った。
 そして、一人ごちる。


(頭を潰した方が、戦いは早く終わるのでね)


 イザークも、直前で変更された作戦に、最初は不審の色を浮かべ。
 しかし、パトリックの意図を理解して、イザークは次の瞬間、その怜悧な口元に笑みを浮かべた。
 彼にも、分かったのだ。
 この作戦の意図するもの、意味するもの。最終的に何を目指しているのか、その全てが。


「へぇ〜……面白いじゃない。さすがザラ議長閣下。やってくれる」
「イザーク」


 面白がるイザークに、“デュエル”の整備に当たっていた整備兵が、聞き咎めるように言葉をかける。
 それを一顧だにせず、イザークはなおも呟いた。


「やつらは目標をパナマだと信じて、主力隊を展開させているんだろ?まさに好機じゃない」
「……ぁ」


 イザークの発言に、初めて自分たちの有利さを思い起こしたのだろうか。整備兵が、驚いたように声をあげた。
 まさか、そのようなことをこの年若いパイロットが言い出すとは、思っても見なかったのだろう。
 整備兵の驚愕を余所に、イザークは笑う。
 自分たちの有利を信じているからこその笑みは、どこまでも自信に溢れていた。


「これで終わりだな。ナチュラルどももさ……」
「イザーク!」


 自信に満ちたイザークの言葉をかき消すように、足元から少女の声がした。
 “デュエル”の足元に、の姿がある。
 コックピットから身を乗り出して、イザークは声をかけた。


か」
「聞いた?」
「あぁ」


 見上げるその漆黒の瞳に、驚愕の余韻は残っていない。
 純粋に……純真に彼女は尋ねる。
 彼 女 は 、 哂 っ て い た 。



 その顔にたゆたうのは、笑み。
 紛れもなく、彼女は笑っていた。
 これから起こる流血を、知っているだろうに。それでも、彼女は笑って。

 嗚呼、分かっているのだ。この作戦の持つ意味を。
 彼女は、分かっている。知っている。
 だから、笑う。

 ラダーを伝って、イザークはコックピットからその足元に降り立った。
 間近で見ても、確かに少女は笑っている。
 にこりと、微笑んで。


「……終わるね」


 囁いた。
 何が、とは言わない。
 主語は、混ざっていなかったけれど。
 でも、言わんとしていることは、分かるから。
 だからイザークも、頷いた。


「あぁ、終わる」


 慰めでもなくそう、信じていた。
 頷くイザークに、が不意に抱きついた。
 咄嗟のことに目を白黒させるイザークの頭を、抱えて。がその耳元で、囁く。


「守るから……」
?」
「死なせないから。兄さんみたいに、ミゲル兄さんみたいに、ニコルみたいに。死なせないから。守るから」


 だから、還って来て。
 戦争は、きっと終わる。
 この作戦で、終結を迎える。
 けれど終結を迎えても、大切な人がかけた平和に、意味はないから。だから、帰ってきて、と。
 大切だから、帰ってきて、と。
 少女は、囁く。
 きっと、彼の欲しい『大切』とは、それは違った意味合いのものだろうけど。それでも、そう囁くから。
 だからイザークも、同じように言った。


「それはこっちの台詞だ。……守ってやる。だから……」


 貴様も必ず、還ってこい。
 そう、囁いた――……。



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 『鋼のヴァルキュリア』をお届けいたします。
 今回も、長いですね。
 まぁ、前回ほどではありませんけど。
 だんだん長くなっていってアレです。一話が長いと、読むのは大変ですかね、やっぱり。
 どうも、適切な長さって奴が出来ない人間で、申し訳ないです。
 頑張って解読していただけると、嬉しい。

 此処までお読みいただき、有難うございました。