欠けた記憶。

欠落した過去。

それならば『私』は、何を以って『私』を『私』と認識すればいいのだろう?

ひょっとしたら『私』は、極めて果敢ない記憶に、しがみ付いていただけに過ぎないのではないだろうか――……。


ねぇ、兄さん。

『私』はどうすればいいの……?






#30   遁
〜前〜






艦橋のドアが、音もなくスライドした。
堪えきれぬ激情にその身を灼いて、少年が入室する。
鈍くも鮮烈に煌く艶めいた銀糸、その白皙の肌は今、異なる『白』に覆われていた。


「艦長!」
「もう、いいのかね」
「アスランとディアッカは!?艦が動いているな!状況はどうなっている!?」
「二人は不明だ。我々には、クルーゼ隊長から帰還命令が出ている」
「不明!?不明とは、どういうことだ!?」
「詳しい状況は分からん。まず“バスター”との交信が途切れ、やがて大きな爆発を確認した後、“イージス”との交信も途切れた」
「エマージェンシーは!?」


祈るような気持ちで、彼は一縷の望みに縋りつくように、言葉を紡ぐ。
理由は、簡単だ。
エマージェンシーが入らない。
それ即ち、『死』を意味するものなのだから――……。

しかし答えは、どこまでも無慈悲だった。


「どちらからも出ていない」
「“ストライク”と足つきは!?」
「足つきは、ボズマン隊が追撃している」
「そんな馬鹿な……っっ!!!すぐに艦を戻せ!あの二人が、そう簡単にやられるか。伊達に赤を着ているわけじゃないんだぞ!」
「ならば、状況判断も冷静に出来るはずだがね。我々は帰投を命じられたのだ。捜索には、別部隊が出る。」
「だが……っっ!」
「オーブが動いているという報告もある。分かってもらえるかな」


「オーブが動いている」
その一言に、彼は唇をかみ締める。
情勢が逼迫している今、己の一存だけで他国を敵に回すわけにはいかぬ。
敵対するより、日和見であっても中立であってくれるほうが、どれだけいいだろう。
ただでさえコーディネイターは、その絶対数が少ないのだ。
今その勢力は拮抗しているが、総力戦の様相を呈している今、短期決戦で事に当たらねば、先に疲弊するのはプラントだ。
寡兵である以上、たとえ能力的には圧倒的に上回っていようとも、持久戦は拙《まず》い。
しかし今、プラントはその禁を犯しかけている。
これ以上の禁は、犯せまい。それはパワーバランスの崩壊を招く。

苦渋の決断だった。
アスランもディアッカも、仲間だ。
しかし国家を思うならば今、その二人の捜索を続行することさえ困難になってしまった。
『オーブが動いている』ただ、それだけのことで。

国家のために。仲間を見殺しにしなくてはいけない。
それは、何と言う矛盾か。
国家のために戦う者を、見殺しにしなくては、国家を守れない。

その矛盾に、その決断に、彼は唇を噛み締める。

何よりも、浴びせられる艦長からの視線が、痛い。
まるで、すでに二人を亡き者と考えているような……自分と だけが唯一の生き残りであるかのようなその、視線。
哀れみさえ感じるその視線の痛さに、喚き散らしたくなった。
あの二人が、死んでしまったわけがない。
そんなこと、ある筈がないのだ。
それなのに現実は、彼の逃避を拒絶して厳然とした『事実』を提示していた。


「分かってもらえるね?」


それが、高圧的な命令であったならば、イザークは反発していただろう。
しかしそれは、噛んで含めるような響きで。

彼は、観念したように頷いた――……。



**




合流までの自室待機を言い渡され、イザークと はひとまず艦橋を出た。
一言も口を利かず、 は自室に向かって歩く。
その背中は、確かに彼を拒んでいた。


……!」


その名を呼ぶと、歩みが止まった。
肩を掴み、視線を合わせようとする。
そのとき、振り向いた が、イザークの頬を力いっぱい引っ叩いた。


……?」


呆然と、その名を呼ぶ。
イザークの躯を、 は冷たいコンクリートの壁に押し付けた。


「何で……何で私を置いて行ったの!?」
「それは……」
「仲間でしょう!?私も、仲間でしょう!?」


華奢なその身のどこに、そんな力があるのだろう。
の拳が、イザークの胸を力なく叩く。
押し付けられた躯も、逃れようと思えば逃れることは可能だ。
いくら が軍人であっても、所詮は男と女なのだ。
同じく軍人としての教育を受けてきたイザークが本気になれば、いくらでも振りほどける。
しかしイザークは振りほどこうとはせず、ただ のその激情を受け止めた。

彼らが、彼女を思って下したはずの決断は、確かに彼女を傷つけたのだ。


「私だって、戦えた……私だって、戦える……私だって、仲間でしょう!?」
「……すまない」
「私が弱いから、だから私を置いて行ったんでしょう?でも……でも……」
「それは……違う」


弱くなど、ない。
彼女はおそらく、誰よりも強いだろう。
しかし同時に、 = という少女は酷く脆かった。
その身が内包する精神は、その肉体に比べて酷く、果敢なく感じるのだ。


「違う……?」
「違う。……弱いから、置いて行ったんじゃない。仲間と認識していないから、置いていったわけでもない」
「じゃあ……じゃあ、何で!?」
「俺の……俺のエゴだ」


彼の言葉に、彼女はその瞳を瞠った。
漸く絡み合った視線は、薄いヴェール越しに彼を見つめる。
声もなく、彼女は涙を零していたのだ……。


「エゴ……?」
「死なせたく……なかった」


紡がれる言葉は、痛々しいほどに掠れていた。
そう。それは、彼のエゴだった。
彼自身、それは了承していたことだった。
ただ、彼は焦がれたのだ。
そして、拒絶した。
その存在を喪うこと。
彼には、耐えられなかったのだ。


、俺は……」
「聞きたくない」

「聞きたくない。そんな言葉、聴きたくないの、イザーク」


だって、 はイザークを愛せない。
は、イザークを愛しているわけではない。
だからこそ、イザークの情熱は を追い詰める。
その感情がひたむきであればあるほど、 は追い詰められずにはいられない。


「私は、弱くてはいけないの」
?」
「戦わなきゃ。殺さなきゃ。壊さなきゃ。喪いたくないの。何も喪いたくないの。だったら、戦わなきゃ。殺さなきゃ。壊さなきゃ。だって、そうしなければ守れない」
……」
「どうして、分かってくれないの?どうしてあんたは、分かってくれないの?あんたが私を死なせたくないと思うのと同じだけ、私もあんたを喪いたくないの。何で、分かってくれないの?ねぇ、イザーク。分かって」


喪いたくない。
もう、誰も喪いたくない。
もしも犠牲を払わねばならないというなら、この身を贄としてもいい。
それだけの罪を、この身は既に犯している。
所詮、兄を殺した存在なのだ、自分は。


「死なせたくないの、私は」
……」
「イザーク。貴方を、死なせたくないの」


『感情』という名のプログラムが、動き出す。

その身に埋め込まれた、『記憶《データ》』に従って。


「還ってくるよね……アスランもディアッカも、帰ってくるよね、イザーク」


――――『「アレ」が死ねば、「彼女」が壊れる』――――

――――『「プログラム」は完璧です』――――



「大丈夫だ。帰ってくる。伊達に赤を着ているわけじゃ、ないんだ」
「うん……」
「お前のせいなんかじゃない。俺たちが、俺たちのエゴで、決めたんだ。お前が、気に病む必要など、どこにもない」
「……違うよ」


真摯に言い募るイザークに、 ははっきりと否と伝える。
違うのだ。
違う。

全て、彼女のせいなのだ。
少なくとも少女は、そう認識していた。


「私が、兄さんを殺したから。人殺しの私が生きているから、みんな私のせいなの」


小さく、小さく呟かれた言葉は、しかし正確にイザークの耳に届いていた。
だから、彼は違う、と言う。
そんなことで、死んでしまうんじゃない。

戦争なのだ。
この不条理こそが、きっと戦争なのだ。
守るために戦い、けれどその代償に喪われていく命。
それこそがきっと、戦争と言うものの最大の矛盾なのだろう。

守るために戦っている。
守りたいから、戦っている。
それなのに、守ろうとするものが命を落とす……それが、戦場なのだ。


「違わない……違わないの、イザーク。兄さんは、兄様は私が殺してしまったの!」
「馬鹿なことを。そんなこと……」
「私があの時、あんなことを言わなければ、兄様は死なずにすんだ……ユニウス=セブンに行かなくてもすんだの!!」


核兵器を投下されたあの日。あの日、兄は帰って来る筈だった。
『お土産』を持って、帰ってくるよ、と。そう言っていた。
けれどそれは、叶わなかった。
兄は、死んでしまった。


「言わなければよかったの。言わなければ、よかった。そして私は、ミゲル兄さんにも、真実が言えなかった。……言えなかったの。だって私が、ミゲル兄さんから『親友』を奪ってしまったから……!!」
「落ち着け、
「私が生きているから……兄様が私を赦せないと思っているから……だからみんな私の前からいなくなってしまう。私が赦せないなら、一思いに私を殺してくれたらいい。なのに、私を殺さないの。私から、大切なものを奪っていくの。
だったら、殺すしかないじゃない。殺されないように、殺すしかないじゃない。でも、私は殺せなかった。だから、ニコルは死んでしまった……アスランと、ディアッカも還ってこない」
「お前……」
「殺すしか、ないじゃない。殺して、殺して、殺して。戦わなきゃ、誰も守れない。戦わなきゃ、みんな死んでしまう。だって、兄様は私を赦せないと思っても、私の命はとってくれないんだもの。代わりに、私から全部奪っていくんだもの。だったら、奪われないように。敵に奪われないように、敵を殺すしか、ないじゃない……」


歌うように、少女は呟く。
どこか調子の外れた声は、彼女の精神の失調を意味していた。

彼女は、優しい。
その本質的に、 = と言う少女は、戦場には不似合いなほど、優しい。
だから、彼女は敵に対しどこまでも残酷になれるのだろう。
彼女にとって、敵とは彼女の大切なものを奪う存在に他ならない。
だから、彼女は容赦しないのだ。
すれば、大切なものは奪われてしまうから。
だから、彼女はその手を血に染め続ける。
その魂までも血で染め上げ、それでもなお、戦おうとする。
それは、精神的な身食いだった。


「私が戦わなきゃいけないの。私が戦わなきゃ、みんな死んじゃう。だから、戦わなきゃ。守りたいなら、戦わなきゃ。そして……」
「思い上がるな、


厳しい声で、イザークは断じる。
それに、 は瞠目した。


「思い上がってなんか、いないわ」
「いいや。お前は、思い上がっている」


静かに、イザークは言葉を紡ぐ。
見返すアイスブルーは、ただ真摯だった。
しかしそこに、微かな怒りの色が、揺れている。


「思い上がりも甚だしい。お前一人いようがいまいが、戦局なんぞ動かん」
「何を……」
「『ザフトのヴァルキュリア』、『 』それに一番拘っているのは、貴様自身だ、
「拘っていないわ。だってそれが、私の『価値』でしょう?」
「それが、思い上がりだと言うんだ!」


大声を上げられ、 はびくりと反応した。

どうして誰も、分かってやらないのだろう。
ただ一人の 家の生き残りであっても、ヴァルキュリアであっても、彼女はまだ幼い少女にしか過ぎないと言うのに。
いくら相応の教育を施されているとはいえ、記憶障害と言う爆弾を身の内に抱えた少女だ。
教育や教養では補いきれない部分で、脆いものを抱えている。
それにもかかわらず、上から押し付けられた『価値』と言う名の、重圧。
彼女は彼女自身の手で、自らの意識を袋小路に追いやっているのだ。


「俺も貴様も、戦場ではただの駒の一つに過ぎん」
「駒……?」
「チェスと一緒だ。いかにすればチェックできるか。そのために盤上で動き回る、俺たちはチェスの駒の一つに過ぎん。 。駒の一つに過ぎない俺たちが、戦局を動かせるわけがない。俺たちは、ザフトという名の絶対の意思によって動かされている、ただの駒だ。俺たちにできるのはせいぜい、有利に戦況を導くために戦うことだけだ。俺たちでは、何も変えられない。況や、人の生死をや、だ」
「だって……だって……」
「話してみろ、


それまでの厳しい口調を改めて、イザークは優しい声をかける。
突然のギャップに驚く少女に、優しく。
彼は、言葉を綴る。


「お前が抱えているものを、話してみろ」
「ぇ……?」
「話せないから、誰にも言わないから、お前はそうやって自分を痛めつけるんだ。話してみろ。俺は、ミゲルじゃない。お前の『兄』の『親友』じゃない。だったら、話せるんじゃないか?関係のない俺になら、お前の気持ちを、お前の懺悔を、口にできるんじゃないか?」
「イザーク……」


アイスブルーの瞳は、優しかった――……。




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お久しぶりです。
遂に、『鋼のヴァルキュリア』も30章の大台に乗りました。
これも偏に、見守ってくださる方々のおかげです。
今後とも、精進してまいりたいと思います。

ここまでお読みいただき、有難うございました。